叔父,母の弟が 99 歳で亡くなった.
終戦後焼け出されて (空襲で家を焼かれて) 叔父の家に何年か間借りした.20 坪足らずに,第三の家族も一時期身を寄せたことがあると思う.そういう時代だった.
当時のこと...
叔父は勤め帰りに屋台で新聞を買ってきたが,連載4コマ漫画に色鉛筆で彩色して,色刷印刷だと称して学齢前の僕たちに見せてくれた.今考えると,時事新報に連載された (とんち教室の) 長崎抜天の「マメ子ハト坊」だったらしい.国会図書館に単行本がある.
叔父は化学屋で,ヘチマを植えてヘチマコロンを作った.小さな瓶詰にし,粋なラベルを貼った.母や叔母がびちゃびちゃと顔に塗っていた.石鹸も作ったがどろどろに溶けてしまい評判が悪かった.
東芝に勤め上げたが,自分の周囲では唯一のまともなサラリーマンだった.出たばかりの「攪拌式」電気洗濯機が出現したときはびっくりした(1953?).暗い台所で後光を放っていた.会社の景気が悪くて現物支給のような形だったらしい.
創刊 (1948) からの「暮らしの手帖」や,「週刊朝日」「サンデー毎日」そして「アサヒカメラ」など,文化は叔父一家からこちらに流れ込んできた.生活に余裕ができると (できなくても?) 写真に凝った.思い出すのは 1951 民放発足時の小西六のこの CM ソングである.