【こちら特報部・01.01】:寒さと飢え…日ロ領土争いに翻弄 樺太アイヌの語り部・楢木貴美子さん「歴史をなきものとされないために」
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【こちら特報部・01.01】:寒さと飢え…日ロ領土争いに翻弄 樺太アイヌの語り部・楢木貴美子さん「歴史をなきものとされないために」
<新年連載・あしたの轍>①
2011年夏、旧樺太(サハリン)。樺太庁があったユジノサハリンスク(旧豊原町)から列車で北へ7時間。車窓から楢木貴美子(76)の目に飛び込んできたのはどこまでも続く濃緑のじゅうたん。ワラビやフキといった山菜が歓迎の手招きでもするかのように優しく風に揺れていた。
腰を折ってツルコケモモの実を採る人の姿が生前の母に重なり、「戦争がなければ、母もここにいたのかも」。持参した母の遺影をそっと胸に引き寄せた。
◆旧ソ連軍が侵攻 両親は財産捨て樺太を去る
第2次世界大戦前、樺太で暮らした樺太アイヌは1000人以上いた。楢木の母もそのひとり。和人の父と結婚。だが太平洋戦争末期、旧ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して樺太に侵攻。両親は一切の財産を捨て、樺太を去らざるを得なかった。
父の故郷、青森に身を寄せたが、1948年に末っ子の楢木が生まれると父はすぐに病死。残された母親と7人の兄姉は、樺太アイヌたちがいつか集まろうと約束した地を目指すことになる。楢木が3歳の頃のことだ。
◆父母の故郷の青森、樺太より過酷だった「約束の地」
それが北海道宗谷に近い稚咲内(わかさかない)だった。稚咲内は、戦後の農山漁村振興対策で開発地区の指定を受け、樺太からの引き揚げ者や樺太アイヌによる入植が始まっていた。身寄りをなくした一家も当然かの地を目指したが、待っていたのは青森や樺太以上の厳しい環境だった。
アイヌ民族は地名をほとんど見たままに付ける。稚咲内はアイヌ語で「飲み水がない川」の意。深く掘らねば飲み水が出ず、砂地のため風の強い日は、その砂で井戸が埋まってしまう。幼い身体で姉と2人、天秤(てんびん)棒を担いで遠く離れた隣家に水をもらいにいったことも1度や2度ではない。
浜の番屋で一つの布団に3人でひしめき合って寝ることも。あまりの飢えに耐えられず、配給の種芋も半分食べてしまう。学校の帰り道、和人に石を投げられていじめられたが、母を悲しませると言えなかった。
幸せだと思える一瞬もあった。1955年頃に頼みの綱だったニシンが取れなくなり、魚かすを煮るニシン釜は、露天の五右衛門風呂に早変わり。海に浮かぶ利尻富士を眺め、夕方にはホタルが飛び交い、見上げれば暗い夜空が満天の星に照らされ思わず感嘆した。「あの景色は生涯忘れられない」
それもつかの間、生活は立ちゆかなくなり、楢木が小学5年の時に小樽に。年配女性が駅近くの市場で魚を仕入れ、ブリキ製の箱を背負って朝一番の列車で行商に行く姿は「ガンガン部隊」とやゆされたが、一団にはご多分に漏れず母の姿も。「樺太アイヌだけではないが、本当に苦しかった」。何ものにもあらがえず、ただ一日を耐えしのぶだけの戦後の家族があった。
◆アイヌ伝統工芸の第一人者として語り部に
「樺太アイヌは、オヒョウニレの木の内皮でアットゥシ織する北海道アイヌの着物とは違う。異なる文化と言語があることを知ってもらえたらうれしい」
白地の着物テタラペに身を包んだ楢木が言う。樺太アイヌ特有の西洋風情の絹糸の刺しゅうが映える。
楢木は樺太アイヌの刺しゅうなど伝統工芸の第一人者として、語り部になっていた。だが、活動を始めたのは60歳を過ぎてから。
◆樺太...
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元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【こちら特報】 2025年01月01日 06:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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