会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

京都 泉涌寺周辺 1

2011-12-26 18:59:52 | 旅行
2011年12月26日(月) 雪 真冬日
 妻が居ないと結構忙しい。まず、生ごみや燃えるごみをまとめて出す。朝食の準備。サッカー部活がある中学1年生の孫を会津総合体育館へ送る。帰ってきて愛犬ラッシュの散歩。ようやく朝食をとる。 12時に孫を迎えに会津総合体育館へ。猛吹雪で大変だった。二人の孫の昼食の世話。雪片付けと休む暇がない。午後4時半には歯科医院へ。忙しい日であった。連れ合いがいないといろいろと不便である。大事にしなくてはならない。
  11月18日(金) くもり 晴れ 
  京都に魅せられた男の一人旅35  
  第五日目 泉涌寺 
 
 4泊5日の京都の旅も最終日となった。今回の旅行の目的の一つ。東福寺の紅葉を観ること周辺の散策であった。東福寺は三度目になるがいつも時間がなく慌しく見学していたので今回は午前中十分時間をとった。
 7時半に朝食。ホテルを8時に出る。地下鉄で京都駅へ。JR奈良線で東福寺駅へ午前9時20分着。
 このエリアは皇室ゆかりの泉涌寺と禅宗の名刹・東福寺のふたつの大寺が見どころ。
はじめに坂道を上って泉涌寺方面に行き、次に東福寺方面へ下りながら回り京都駅に戻ることにした。
   駅を降りて左折しすぐの信号を右折すると泉涌寺道に出る。人通りも少なく開いている店も少ない。10分くらい歩くとお坊さんと会う。後10分くらい直進すれば泉涌寺。その前に即成寺に寄って弓の名手那須与一をお参りしたらと勧めらっれた。  息子が弓道をしているのでお参りすることにした。本堂から右奥に進むと石像がある。お墓は外にあった。「的を射る」記念品を孫と息子に買った。

途中に戒光寺の看板に、鎌倉時代の仏師運慶・湛慶合作の丈六釈迦如来像(台座から光背まで約10m))特別公開とあったので立ち寄った。小さな寺の本堂にどうして丈六釈迦如来像があるのか不思議である。他の寺にあったものが兵火を逃れてこの寺に安置されたのかもしれない。
 まだまだ周辺に小さな寺があったが寄り道しないで泉涌寺へ

 500円を払って大門を入ると左側に観音堂があり、揚貴妃観音像が祀られている。
 
 この観音堂には慶長7年(1255)、僧湛海が宗から持ち帰った木造坐像「揚貴妃観音像」が祀られている。唐の玄宗皇帝が、寵姫揚貴妃の死後、その姿を形にとり、観音像に彫らせたものだという。しかしこの観音像の様式は、写実的な表現といい繊細さといい、明らかに玄宗皇帝から500年後、湛海当時の宗代後期のものである。写真撮影はできない。
 石段を降りていくと、眼前の広場に大きな仏殿・舎利殿。その後方には霊明殿・御座所・本坊などの建物があった。

 東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。広く「御寺(みてら)」として親しまれている。この寺は天長年間に弘法大師がこの寺に庵を結んだことに由来する。法綸寺と名づけられた後、一時仙遊寺と改称されたが順徳天皇の御代(承久元年・1219)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師俊艿が時の宗の法式を取り入れて、この地に大伽藍を営むことを志し、嘉禄2年(1226)に主要な伽藍を完成させた。寺地の一角より清泉が湧き出ていたことによって寺号を泉涌寺と改めた。今も湧き出ている。
 時の皇室からも深く帰依され、歴代天皇の山陵がここに営まれるようになり、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。この寺が御寺と称される所以である。

 仏殿内陣には運慶作と伝えられる 阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されている。


 有料でも御座所庭園を見学しようと入り口探したのだがを見つけることが出来ず戻ってしまった。浴室や水屋などみていないで誰かに早く聞けばよかったと後悔した。(つづく)