会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

八重の桜 2 八重と戊辰戦争

2012-08-18 21:26:38 | 地域情報
2012年8月18日(土)ひさしぶりの雨。晴れ 
 早朝のラジオ体操をするために早起をする。雨が降った後の涼風が開けた窓から吹きこみ清々しい。気持ちのよい一日が送れそう。トマトは雨が降らないほうが甘くなっておいしい。他の野菜は雨が降らないと水やりしなくてはならない。幸い屋敷内の畑なので水やりはなんとかつづけられた。農家の人たちは苦労されているようだ。
 昨日の雨は恵みの雨だった。もう少しほしいが雨が降ったのでキュウリやナス、オクラも生き生きとしてきた。一時 実がならなかったがまた収穫できそうである。午前10時ころまでは畑仕事をしたが、気温が上昇したので室内へ入り高校野球を視聴した。溌剌とした球児の姿にいつも感動する。中3の孫も野球部で活躍しているが、どこの高校を受験するのかで甲子園の夢が生まれる。野球の強豪校といわれるところは全国から選手が集まっている。地元の普通高校では甲子園の途は遠い。孫の進学には口出しはしない。
 
 午後から北公民館へ行く。講座「八重の桜」二回目 講師は石田明夫氏。
 暑い日であったが多くの受講生が聴講した。
 新島八重(山本八重子)の鶴ヶ城籠城を中心にした講話。その内容をいくつか箇条書きで紹介してみます。
 初めは新島八重(山本八重子)について
○京都府同志社大学創始者と知られる新島 襄婦人。 ○弘化2年(1845)11月3日生まれ。若松城下、米代二丁目。
 ○父の権パは、会津藩の砲術師範。母は、「佐久子」。6人兄弟の三女。 ○戊辰戦争前の元治2年(1865)頃藩校日新館の砲術教授但馬(兵庫県)出石藩出身川崎尚之助と結婚。慶応4年(1868)に離婚。(23歳)。その後会津美里町付近に住む。 ○明治4年(1871)兄覚馬を頼って京都へ。キリスト教に入信し、新島襄と出会う。  ○明治7年(1932)6月14日、京都で88歳にて死去。


次に戊辰戦争籠城戦(84歳時、平石弁蔵への手紙『会津戊辰戦争』大正6年刊)について
○城の籠城者数5,235人(病人570人、奥女中64人、婦女子575人)死者2,977人。
○兄覚馬は砲術の専門で、兄の影響で一通り砲術を習った。○8月23日早朝、敵が侵入し母佐久子と姉のうら子は避難。八重は決死の覚悟で、大小を挟み、鉄砲(スペンサー銃)と弾薬を身につけて廊下橋から入城。 ○入城後、昼は負傷者の看護、夜は断髪して夜襲。○その後、西出丸で狙撃したり、北出丸から大砲を撃った。 ○籠城中子どもが会津唐人凧を揚げたこと、山川大蔵一行が三本松の獅子を先頭に入城したこと、9月14日の総攻撃のすさまじさなど。 ○降参の旗は、長さ3尺、幅2尺ぐらい、小切れを多数集めて縫い合わせ降参と書き、三箇所に立てた。 ○9月22日午後城の受け渡し。
「明日の夜は 何国(いづこ)な誰か ながむらん なれし御城に 残す月かげ」の歌を三の丸東側(現プール)にあった雑物蔵の壁に笄(こうがい)で彫った。・・・・・・。などく資料ををもとに説明。
大河ドラマではどのように表現されるのか興味がある。次回が楽しみ。