会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

九州一周 フルムーン 5 湯布院

2012-08-27 19:03:26 | 旅行
2012年8月27日(月)晴れ 36.4度

 猛暑日が連続8日間。昨日から南会津町(田島町)の義姉のところに妻は行っているので朝は結構忙しい。午前6時半のラジオ体操を終えるとすぐ畑に出てなす、きゅうり、オクラ、ピーマン、パプリカ、紫蘇、ねぎへの水やりをした。野菜は一度水やりをすると雨が降るまで続けなくてはうまく生育しない。また続けて植木や草花の水やりをした。約1時間。汗びっしょり。朝風呂に入り身支度を整えてラッシュの散歩。
 フェンス工事の業者が来る。朝食は午前9時過ぎになった。ありあわせのものですませる。いつも朝食を作ってくれる妻のありがたさを実感した。

 旅行二日目6月1日(金)晴れ 湯布院散策

 海地獄の見学を30分くらいですませバスで湯布院へ。豊後富士と呼ばれる美しい由布岳の山麓に広がり、全国2位の湯量を誇る人気温泉地。秋から冬にかけて朝霧に包まれる風景は幻想的である。個性的な美術館、お洒落なショップやレストランが散在し、女性の憧れの地である。四季折々の自然の風景が旅の心を和ませる。バスガイドの話やホームページから湯布院の歴史を抜粋しまとめてみると、次のようなことがわかりました。

日本に名だたる温泉地湯布院。1583mの雄大な由布岳と素朴な田園風景に囲まれた美しい盆地です。美術館やおしゃれなお店も数多く、毎年400万人もの人々が癒しを求めにここ、湯布院にやってきます。しかし、「ローマは1日にしてならず」と同じように、湯布院も短期間で今のような街を作り上げたわけではありません。湯布院の歴史を振り返ると、その道のりは困難や逆境の連続でした。


 元々、1969(昭和44)年ごろから町長、旅館経営者が立て続けにヨーロッパの観光先進地を視察し、その中でドイツのヴァ―デン・バイラーを参照にクアオルト(温泉保養地)構想を固めていました。そのような下地が形となり花開いたのが1975(昭和50)年以降であると言えます。


 折しも1974(昭和49)年のオイルショックを皮切りに人々の観光に対する嗜好が大きく変化していきました。温泉観光は次第に男性の団体客中心から女性の小グループへと旅行のスタイルが移り変わると同時に、湯布院のまちづくりも評価され始め、次第に日本中から脚光を集めるようになっていきました。

 民間側の動きが活発化すると同時に、行政側も観光化の設立、大分県の一村一品の登録、社団法人日本温泉協会の国民温泉保養地指定への動きなどを活発化し、さらに行政と民間、住民が一体となったまちづくりが進められるようになったのです。


湯布院散策はいろいろなコースがありますが時間が60分しかなかった。駐車場から金鱗湖までガイドの説明を聞きながら歩き、その後自由行動となった。金鱗湖は、やや長方形をして長辺約100m、短辺約70cm湖底は緩やかな「すり鉢」状になっており、最深部は湖の山の手側にあって約2mである。水の流入は下ん湯の横、ハエ川の温水(30℃以上)と天祖神社境内の湧水、それに湖底深部にある湧水の供給から成り立っており、1日約23,300㎤が流出して大分川の源流となっている
明治17年大分の儒学者・毛利空桑が、湖で泳ぐ魚の鱗が夕日で金色に輝くのを見て名付けたといわれる湖。湖底の一部から温泉と清水が湧きだしていると言われている珍しい湖で、霧のベールに包まれる冬の早朝は幻想的。

金鱗湖そばの亀の井別荘裏から玉ノ湯裏手にかけてもおしゃれなお店や古民家風の食堂などがあって人もそれほど多くなく落ち着いた散策ができるようであったが、ガイドさんが薦めたゆふいん駅へ行くことにした。歩いて往復25分くらいだが、他をみることができないので大通りにでてタクシーを利用した。
 


 世界的に有名な建築家の磯崎新氏の設計で建て直されたJR由布院駅舎の待合室に入ると、先ず目に入るのは縦長に開かれた天窓。そこから明るい自然光がホール内を照らしています。礼拝堂をイメージして作られたと言われるだけに、高い天井はホール内を開放的にさせています
由布院は町中にアートの世界が広がっています。
 
 その証拠に由布院に一歩足を踏み入れると、もう、由布院観光の入り口であるJR由布院駅に素敵なアート作品が常時展示されています。
駅の待合室だから気軽に入場して、思う存分アート作品を観賞することが出来ます。

 駅から多くの観光客でに賑わう湯の坪の街道を途中までタクシーでもどり、主な店をのぞきながら散策した。わずか60分の滞在時間で湯布院を十分巡ることはできなかったが、大勢の人々が訪れる街の雰囲気を味わうことができた。=続く=