アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

またろうの作り方: 鉛筆と消しゴム

2009年10月21日 | 高専生活
第一子が小学校入学するときといったら、私でもやっぱり張り切って名前付けとかしたわけですよ。

鉛筆一本、消しゴム一個までね。でも、きれいに筆箱の中身を揃えて送り出したはずなのに…あっという間に筆箱はからっぽに(-_-;;

補充しても補充してもからっぽ。この、蒸発するがごとき鉛筆と消しゴムくんたちは、どこに行ってしまうのでしょうか。

保護者会などで学校に行くと、子どもたちが誰もいなくなった教室の中で、またろうの席はどこなのかすぐにわかります。鉛筆やら消しゴムやら、折り紙やらその他紙切れやら、どうかすると体操着袋まで点々と、机の上といわず周りといわずいろんなものが落ちている(*)わけですから、よその子たちの机の上は何もなくなっているのと比べて、目立ちます。

つまり一部はこうやって周囲に落ちていて、一部は落し物箱の中に。いやもっとあったはずなんですけど…全貌は明らかではありません。

そして、勉強を始めるべきときに、その基本アイテムである鉛筆と消しゴムがないとどうなるか。仮に、先生の指示が耳に入って、一瞬、あ、計算式を書こうかな、なんて思っても、鉛筆が見当たらないと、「あれー、ないや」と思ううちに、セロテープをいじったり、これを丸めて怪獣を作ったらどうだろう、なんて素敵な思いつきに至ってしまうのです。

だから、特に低学年のころは、これからなんとかして勉強シーンを成立させていくためにも、鉛筆と消しゴムが常にある状態を作りたい、というのが重要な課題でした。

でも、本人の注意を促そうとする試みはことごとく打ち砕かれ、なにしろ学校で起こるできごとなのでコントロールも遠く、筆箱ごとみつからないなどという事態も日常茶飯事。

ところで、これがこじろうの場合はどうだったかというと、例えば一年生の参観で観察されたところによると、またろうよりは周囲の状況に気づいているので、なにやらノートに「2+3=」なんてことを書き付けるところまではいってます。おー、よしよし、と思っていると、ふと、あれ、消しゴムは、ということになり、消しゴムを探し始めます。

筆箱にない…で、あれこれ机の中をひっくり返し、えんえんと探しています。探しているうちに、お道具箱の中にぽとりと、手に持っていた鉛筆を落としているのだけど本人は気づかない。そのうち、奥のほうから、消しゴムあった!! で、消して…あれ、鉛筆はどこ??

今度は鉛筆を探します。そのうち、授業ではいくつかの足し算引き算が済み、授業終了のチャイムが鳴ってしまいました。おいおい。

というわけで、鉛筆と消しゴム問題は、こじろうの学習面でも大きく立ちはだかっていたのでした。これは高学年になっても続き、よく、「つい30秒前に手に持っていた鉛筆がなぜない??」という事態に陥っていました。

さて、外部からの働きかけがまったく功を奏しなくても、本人の成長というのはあるものです。四年生のときの授業参観でまたろうが、算数の少人数教室に移動するとき、手には教具の入ったスーパーのビニール袋がひとつ。なんか、また筆箱を持っていないようだが、と思いながらそのまま遠くから見ていると、授業が始まって、鉛筆が必要になったとき、やおらまたろうはそのビニール袋から、セロテープで貼り付けてある鉛筆を一本べりっとはがし、書き始めました(o_o;;

移動教室だと筆記用具を忘れやすい→必ず持っていくものに貼っておこう、という知恵だったらしいです。消しゴムないけど。

まぁ、徐々にマシにはなってきたわけだけど、問題は継続したまま、受験も済んで高専入学。始まってしばらくしたころときどきチェックしてみると、やはり筆箱自体持っていかなかったり、筆箱はあってもほぼ空だったりして、一時間丸ごとノートをとらないようなことも頻発していのですが、今更介入する気力もないので、チェックをすることもやめてほっておきました。

ところが後期に入って、どうもまたろうの様子が前とは違います。ノートも取れているようだし、テキストやノートを忘れないように具体的な対策を取っているようです(要するに、なんでも学校に置きっぱなしにするということ)。

先日、みんなでサイゼリヤでごはんを食べていたとき、帰りにスーパーに寄って買うものをメモしようとして私が、「誰か書くものもってきてない??」と聞くと、またろうがやおらかばん(学校にも持っていくかばんだった)を開けて、筆箱ごと貸してくれました。

筆箱の中には、きれいに削った鉛筆が四本、短くなった鉛筆をいれるホルダー一本、赤鉛筆一本、ボールペン一本、そして消しゴムが二つ、それぞれ定位置にきちんとおさまっていました。う、美しい…

昔と違ってその一本一本に母の手による記名などはないわけだけど、ちゃんと授業終了時に自分で回収して筆箱におさめているということだよね。なんかすごくうれしい。

(*) このエリアは「またろうゾーン」もしくは結界と呼ばれ、先生のお話などの音波を遮断する働きがあるのではないかという俗説もあった。その後の研究によれば、強い相関はあるが因果関係は認められないということになっている。
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ベーゼンを鳴らすコンサート

2009年10月20日 | ピアノ
先日、ピアノの先生のコンサートに行ってきた。今回のは、バイオリンとのデュオ・コンサートなのでなお好都合。

会場は、雰囲気のある建物に突然、あ、ホールもあるの、という感じで、200席くらいのこじんまりしたところ。ピアノは…おぉ、ベーゼンドルファーですね!!

私が習っているピアノの先生は、特に大きいほうの音に自信を持っているタイプ(「どこまで叩いてもきたなくしない自信がある」とかいってたような)。その先生の、大学のときの先生のコンサートを聞きにいったことがあるけど、これが真逆で、限界まで小~さな音の美しさに自信を持っているというタイプで、なんでこんなことになってるんだ(o_o)?? と驚いた。

そのときのピアノがベヒシュタインで、ほんとにピアノと演奏が合っていた。そういえばあれを見て、ベヒシュタインってすごい!! って知ったんだよなぁ。そのあと、楽器屋で試弾してみたベヒシュタインはまたぜんぜん違う印象だったが(弾く人が違うので-笑-当たり前)、それからいろんなピアノの違いというものに興味を持つようになったのだった。

最初の曲はブラームスのバイオリンソナタ第二番。曲自体は私の携帯プレーヤーにも入っていて聞きなれているものなのだが、それが目の前の生の動きから出てくるところを見るととても楽しい。弓の柔軟な動きからものすごく多彩な音色が出てくるので目が釘付け。

この方は目でみてわかるほど「駒寄り」「指板寄り」を弾き分けている。どういうときにどっち側に寄るかも明確な意図があるようである。例えば、五島龍のDVDを見たところ、あまりそうではなかったので、人によるのだろう。

二曲目は、ピアノ独奏になって、ベートーベンの熱情。蓋をフルオープンにしたベーゼンは鳴る鳴る(^^;; リミッターが外れたらしい先生は、ほんとに気持ちよく弾きまくって、すごい迫力。弾き終わって休憩に入るとき、他のお客さんの反応も「堪能した~」「腹いっぱい聞いた~」という感じだった。

あとで聞いたところによると、先生がコンサートでベーゼンドルファーのピアノを弾いたのはこれが三回目だけれど、今回のが一番「ベーゼンらしいベーゼン」だったとか。

つまり、今回のピアノは状態もよく、とてもよく「鳴る」のだけれども、その鳴り方は、例えばスタインウェイのようなピアノと違って、細かくコントロールが効かない。音量も大・中・小くらいであんまり細かく違いを出せない(?)

コントロールしようとするより、勝手に歌わせる(?)ほうがよい感じになるという。ま、先生の説明いまいちよくわからないんだけど、要するに、ピアノの個性を楽しみつつ気持ちよく弾けたということだろう。

あと、ペダルをいつもどおりに踏むとぐわんぐわんになってしまうので、場所によってはなしにしたり、「指ペダル(*)」を使ったりして調節しなければいけないんだとか。「鳴らしてみて弾き方を変えなきゃいけないのよね。それくらいベーゼンらしいベーゼンだったのよ」といいつつなんかうれしそうな先生である。
(* 例えば「ドミソ」と弾くときに、「ド」の指を押さえたまま「ミソ」を弾くことで、ペダルを踏んだときとちょっと似ていてちょっと違う響きが作れることをいうらしい)

休憩をはさんでピアノ独奏いくつか、そして最後はまたデュオでピアソラのグラン・タンゴ。かっこよかった!!

いいコンサートだったと思うけど、空席が目立ったのはもったいない。私も、平日のコンサートだけに直前までいくかどうか迷ったし、友だちも誘いにくかったからなぁ。一部の有名な人はともかく、コンサートの客席を埋めるのは容易なことではない。
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またろうの作り方: 学級崩壊から再生へ(三年生)

2009年10月19日 | 高専生活
一年から二年へ、ふつうなら持ち上がるところを、人数増のためクラス替え。二年から三年は、いつもどおりクラス替え。

ということで、毎年落ち着かず、四月のたびに生活が崩壊するまたろうだが、せっかく二年のときにある程度の手ごたえを得たので、三年の先生にはスムーズに引き継いでいただき、親と先生の信頼関係を築いて支えていきたいなどと考えていたのであるが…

速やかに学級崩壊してまたろうがどうのというどころではなくなった(-_-;;

主症状は、授業が成り立たないというもので、授業中にも関わらず、床に寝そべっている子あり、後ろでボール遊びしてる子あり、教室外へ出て行く子あり、話は聞いちゃいないしという状況、らしい。なにしろ、私は平日の授業をほとんど見にいけなかったので、危機を察知して学校へ日参したお母さん方からの伝聞にすぎない。

ましてや、学級崩壊の「原因」などわかりようはずもないが、もちろん親として気になるのは、「またろうが引き金になったかどうか」である。慎重に、授業の実態を見たお母さん方や、先生にもお話を伺ったところ、特にまたろうがどうとかいうことはないようで、もともとまたろうは自分がまったりしているだけでアクティブではないしリーダーシップもないので大勢には影響ないのかもしれない。

むしろ、そんだけ無秩序な状態の中では目立たない(?)とのことだったが、もちろん、いったん崩れたクラスを再びまとめ直そうとするときに、またろうみたいなのがいたら重くて持ちあがらないという問題はあるだろう。

先生は新卒の女性で、とてもまじめで熱心な方だったが、そのへんがうまくかみ合わなかったのだろうか?? ともかく、教頭や校長がてこ入れしたり、親ができることはないかと繰り返し話し合いが行われたりしたけれども、すべてあまり功を奏せず、先生は断続的に休むようになり、ついにはまったく学校に来られなくなってしまった。

そこへ見かねて「私が担任を引き継ぎます」と名乗りを上げたのが、算数の少人数クラス担当をしていたM先生。M先生は、もともと、少人数クラスのときに子どもたちを教えていたし、担任の先生の休みが続くようになってからは、担任を持っていないため頻繁にクラスの面倒を見ていた。

そして三学期、ベテランM先生が落ち着いて担任をする中でクラスは急速に落ち着きを取り戻し、学年最後には親たちがまとまって、「せっかく落ち着いてきたところなのに、四年生でまた担任交替されては困る。是非M先生に引き続き担当してもらいたい」という要望を上げたり、ばたばたしているうちに春。無事クラスもM先生も持ち上がって四年生。

ところで、M先生は小柄な女の先生で、声も別にでかくないのだが、縦横大きくて見た目怖そうな男の先生よりむしろ、みんながスムーズに指示に従うのが不思議な感じだった。説得するときの内容、気持ちで寄り添う迫力というようなこともあるだろうが、「M先生は言ったことはやる」というような信頼があるようなのだ。

つまり、朝会のときにふざけている子たちがいたとして、声のでかい先生が「おまえたち、体育館から放り出すぞ!!」とどなったとする。一瞬びくっとして静かになるが、またすぐぺちゃくちゃと…それでも、どなって再度注意するだけで、「放り出す」を実行するわけじゃない。という対応をする先生はかなりいる。M先生が言うには「言っておいてやらないのは最悪」。実行できない脅しをかけてはいけないといっていた。

ほかにも「プロの技」がいろいろあるんだろうけど、なんか子どもに信頼されているというのか、「M先生はほんとうは怖いよ」と子どもたちには言われていたようである(^^;;

M先生は、身内にご不幸があって落ち込んでいたときに、落ち込むどころでない仕事に巻き込まれて、ものすごくたいへんだったけれどとても救われたと後でおっしゃっていた。ただ、急いでクラス再生をしなければいけなかったため、いくつかのポイント(重くてなかなか持ち上がらない、またろうのような)に注力して立ち上げたが、もともとちゃんとやれているような子には(相対的に手薄になり)申し訳なかったとか。

まぁそんなわけで、クラス運営立て直しの必然から、またろうに手をかけているうちに、先生もまたろうが気に入ってしまったし、またろうもものすごく先生が気に入ってしまったのだ。

またろうは「M先生はよくうっかりするから、ぼくが授業を助けてあげないと」と思っていたらしい(爆) M先生も「またろうくんは、とても良い点に気づいてそれをきちんと発言してくれるから、授業の進行がとても助かるんですよ」とおっしゃっていた。まぁそのようにうまく乗せてくださって、またろうはいろんなことを学んだようである。詳細は次回以降に。
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バイオリン練習「狩人の合唱」: 移弦のときの雑音を減らす

2009年10月18日 | バイオリン
昨日、「狩人の合唱」を練習していて突然気がついたのだけど…

なんか、すごく当たり前のことだから誰でも知ってることだったのかもしれないけど、つまり、バイオリンの場合って、音程が変わる瞬間に左手の指が動くとは限らないわけだ。

同じ弦で音が動くとき、例えばA線で「ラシドレミー」のときに1~3の指を残すというのは、これまでもやっていた。そうではなくて、移弦するとき、「シ(A線)ミ(E線)」とか「ミ(D線)ド#(A線)」のときに、太字部分のために押さえていた指は、音の変わる瞬間に離す必要はない。

また、「ミ(D線)ド#(A線)」であれば、右手さえしっかりリズムどおりに移弦してくれれば、ミ(D線)の指は音の切り替えの後まで残す一方、ド#(A線)の指はあらかじめ押さえておいてもいいわけだ。

というか、そのようにすれば、今、移弦のときによく鳴ってしまう余分な音(移動元の開放弦が鳴るなど)を減らすことができるはず。

ピアノなら、音程を変えるときに、その音程を決めている指が動かないとか早めに動くとか、ありえないので、なんとなく頭の切り替えがうまくいかない。

なんどか試してみたんだけど、音が変わる瞬間からずれて左手の指を動かすという動作が…そういう機能はご用意されておりません…という感じで、思ったとおりにできない。そのときはじっくり練習する時間がなかったのでそのまま終わり…

公文から帰る道すがら、たまたま手にもっていた携帯に左手の指を置き、「狩人の合唱」の音を頭の中で鳴らしながら指を動かしてみた(*)。雑音を減らす「ちょいズレ指移動」。しばらくイメトレしてみたらなんかつかめたような気が。。

家に帰ってから実際にやってみたら、なるほどさっきよりはまともにできた。確かに聞きやすくなって、改善した。あとはゆっくりから練習だね。

それで、ふと思い立って前にあまりきれいに弾けないまま終わった曲「別れ」を弾いてみると、この「改善」で少しきれいになるようだ。おぉ。

あとはゆっくり練習だね。

(*)こういうことをしたいんだったら、VNYOさんのブログで紹介されていたiPhoneアプリとかあるといいかもしれない。



母の日にまたろうたちからもらったミニバラ、えんえんと咲き続けています。今朝撮影。
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またろうの作り方: できること増やそう好きなことみつけよう

2009年10月17日 | 高専生活
またろうはいつもまったりしているので、みんなから遅れを取ったり叱られたりしたときに、本人がどれだけ気にしているのかはわかりにくい。

しかし、白髪が出たことがあったりもしたのでやはりストレスにはなっているようだ。先生は、本人の自己評価が下がることが一番よくないと考えていて、とりわけまたろうが「光る」瞬間というのを増やしたいと考えたらしい。

=== 「一歩一歩」先生から 6/26
またろうくんの場合は、全体に底上げというよりも、事柄によって、伸びの顕著なものとそうでもないものがあるような成長のパターンをしているように思います。もちろん、トータルでは成長をしているのは言うまでもありませんが、伸びる(本人がよろこんで取り組む)場面をつぶさないようにすることで、次第に、他の項目に波及していくことを根気良く待っていきましょう。
===

家でもその趣旨に賛同し、またろうが好きな工作系の活動を奨励すると同時に、食べる意欲に満ち溢れた(笑)またろうに合わせて、台所の中のことをひとつずつ試していった。ごはんを炊くこと…これは基本中の基本で、もちろん電気釜で炊くなら難しいところはないのだけど、お米をはかり、水をはかり、忘れずにスイッチを入れること(これ重要)。これができれば、何かで親の帰りが遅くなったときに、先にごはんだけ炊いておいて待つこともできるし、お握りなどを作って食べることもできる。シンプルだけど確かな自信につながる一歩である。

また、りんごや梨の皮むき。これは、またろうはあまり器用でないので見た目危なっかしかったが、とにかくまたろうは食べることには意欲を持っているので、だんだんと上手になっていった。火を使う料理をするようになるのは数年先だが、とにかく「またろうは料理が得意」という雰囲気を作ってしまったことは大きい。

学校でも、またろうが得意なことを披露する場面を作ることに配慮していた(もちろん、他のすべての子も含めてそうなるように気を配っていたのだろうけど)。

=== 「一歩一歩」先生から 7/7
今日は、「ぼくとJ君のおかげで明日の七夕カーニバルの出し物が決まったぞ」といばっていました。「さんぽ」を手話つきで歌うというアイディアを提案し、二人で実演してくれました。それを採用し、明日はみんなでやります。「ありがたいだろう」と言ってました…助かってます。

=== 「一歩一歩」先生から 12/14
今日は、朝、着くなり、私をつかまえて「今日、道徳の時間、ぼくが太陽系の図を紹介してもいいよ
たしか、昨日、時間がとれなくて「明日ね」と言ったのを、ちゃんと覚えていたんですね。
朝のスピーチよろしく前に出て、先生のように、図の説明をしてくれました。惑星、衛星の名前まではともかくとして、このほかにも小惑星があるとか、太陽より大きい星も銀河の中にはいっぱいあるというふうに、よどみなく質問に答えていく様は、なかなか堂に入ったものでした。先生より星に詳しいまたろうくん。というか、またろうくんに勝てるのは指相撲くらいかな?
===

なんだかんだで、「得意を伸ばす」方面のことは、先生にも恵まれて、親にも恵まれて(^^;;、またろうはすくすくとまたろうになっていったという気がする。この点、授業に参加する/宿題をする・出す/ものをなくさないといった課題の困難さとは大違い。

またろうが二年生六月ごろ書いていた「ごろごろーん」というキャラクター…を、母が模写したもの↓ オリジナルは投函してしまったので。
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