第一子が小学校入学するときといったら、私でもやっぱり張り切って名前付けとかしたわけですよ。
鉛筆一本、消しゴム一個までね。でも、きれいに筆箱の中身を揃えて送り出したはずなのに…あっという間に筆箱はからっぽに(-_-;;
補充しても補充してもからっぽ。この、蒸発するがごとき鉛筆と消しゴムくんたちは、どこに行ってしまうのでしょうか。
保護者会などで学校に行くと、子どもたちが誰もいなくなった教室の中で、またろうの席はどこなのかすぐにわかります。鉛筆やら消しゴムやら、折り紙やらその他紙切れやら、どうかすると体操着袋まで点々と、机の上といわず周りといわずいろんなものが落ちている(*)わけですから、よその子たちの机の上は何もなくなっているのと比べて、目立ちます。
つまり一部はこうやって周囲に落ちていて、一部は落し物箱の中に。いやもっとあったはずなんですけど…全貌は明らかではありません。
そして、勉強を始めるべきときに、その基本アイテムである鉛筆と消しゴムがないとどうなるか。仮に、先生の指示が耳に入って、一瞬、あ、計算式を書こうかな、なんて思っても、鉛筆が見当たらないと、「あれー、ないや」と思ううちに、セロテープをいじったり、これを丸めて怪獣を作ったらどうだろう、なんて素敵な思いつきに至ってしまうのです。
だから、特に低学年のころは、これからなんとかして勉強シーンを成立させていくためにも、鉛筆と消しゴムが常にある状態を作りたい、というのが重要な課題でした。
でも、本人の注意を促そうとする試みはことごとく打ち砕かれ、なにしろ学校で起こるできごとなのでコントロールも遠く、筆箱ごとみつからないなどという事態も日常茶飯事。
ところで、これがこじろうの場合はどうだったかというと、例えば一年生の参観で観察されたところによると、またろうよりは周囲の状況に気づいているので、なにやらノートに「2+3=」なんてことを書き付けるところまではいってます。おー、よしよし、と思っていると、ふと、あれ、消しゴムは、ということになり、消しゴムを探し始めます。
筆箱にない…で、あれこれ机の中をひっくり返し、えんえんと探しています。探しているうちに、お道具箱の中にぽとりと、手に持っていた鉛筆を落としているのだけど本人は気づかない。そのうち、奥のほうから、消しゴムあった!! で、消して…あれ、鉛筆はどこ??
今度は鉛筆を探します。そのうち、授業ではいくつかの足し算引き算が済み、授業終了のチャイムが鳴ってしまいました。おいおい。
というわけで、鉛筆と消しゴム問題は、こじろうの学習面でも大きく立ちはだかっていたのでした。これは高学年になっても続き、よく、「つい30秒前に手に持っていた鉛筆がなぜない??」という事態に陥っていました。
さて、外部からの働きかけがまったく功を奏しなくても、本人の成長というのはあるものです。四年生のときの授業参観でまたろうが、算数の少人数教室に移動するとき、手には教具の入ったスーパーのビニール袋がひとつ。なんか、また筆箱を持っていないようだが、と思いながらそのまま遠くから見ていると、授業が始まって、鉛筆が必要になったとき、やおらまたろうはそのビニール袋から、セロテープで貼り付けてある鉛筆を一本べりっとはがし、書き始めました(o_o;;
移動教室だと筆記用具を忘れやすい→必ず持っていくものに貼っておこう、という知恵だったらしいです。消しゴムないけど。
まぁ、徐々にマシにはなってきたわけだけど、問題は継続したまま、受験も済んで高専入学。始まってしばらくしたころときどきチェックしてみると、やはり筆箱自体持っていかなかったり、筆箱はあってもほぼ空だったりして、一時間丸ごとノートをとらないようなことも頻発していのですが、今更介入する気力もないので、チェックをすることもやめてほっておきました。
ところが後期に入って、どうもまたろうの様子が前とは違います。ノートも取れているようだし、テキストやノートを忘れないように具体的な対策を取っているようです(要するに、なんでも学校に置きっぱなしにするということ)。
先日、みんなでサイゼリヤでごはんを食べていたとき、帰りにスーパーに寄って買うものをメモしようとして私が、「誰か書くものもってきてない??」と聞くと、またろうがやおらかばん(学校にも持っていくかばんだった)を開けて、筆箱ごと貸してくれました。
筆箱の中には、きれいに削った鉛筆が四本、短くなった鉛筆をいれるホルダー一本、赤鉛筆一本、ボールペン一本、そして消しゴムが二つ、それぞれ定位置にきちんとおさまっていました。う、美しい…
昔と違ってその一本一本に母の手による記名などはないわけだけど、ちゃんと授業終了時に自分で回収して筆箱におさめているということだよね。なんかすごくうれしい。
(*) このエリアは「またろうゾーン」もしくは結界と呼ばれ、先生のお話などの音波を遮断する働きがあるのではないかという俗説もあった。その後の研究によれば、強い相関はあるが因果関係は認められないということになっている。
鉛筆一本、消しゴム一個までね。でも、きれいに筆箱の中身を揃えて送り出したはずなのに…あっという間に筆箱はからっぽに(-_-;;
補充しても補充してもからっぽ。この、蒸発するがごとき鉛筆と消しゴムくんたちは、どこに行ってしまうのでしょうか。
保護者会などで学校に行くと、子どもたちが誰もいなくなった教室の中で、またろうの席はどこなのかすぐにわかります。鉛筆やら消しゴムやら、折り紙やらその他紙切れやら、どうかすると体操着袋まで点々と、机の上といわず周りといわずいろんなものが落ちている(*)わけですから、よその子たちの机の上は何もなくなっているのと比べて、目立ちます。
つまり一部はこうやって周囲に落ちていて、一部は落し物箱の中に。いやもっとあったはずなんですけど…全貌は明らかではありません。
そして、勉強を始めるべきときに、その基本アイテムである鉛筆と消しゴムがないとどうなるか。仮に、先生の指示が耳に入って、一瞬、あ、計算式を書こうかな、なんて思っても、鉛筆が見当たらないと、「あれー、ないや」と思ううちに、セロテープをいじったり、これを丸めて怪獣を作ったらどうだろう、なんて素敵な思いつきに至ってしまうのです。
だから、特に低学年のころは、これからなんとかして勉強シーンを成立させていくためにも、鉛筆と消しゴムが常にある状態を作りたい、というのが重要な課題でした。
でも、本人の注意を促そうとする試みはことごとく打ち砕かれ、なにしろ学校で起こるできごとなのでコントロールも遠く、筆箱ごとみつからないなどという事態も日常茶飯事。
ところで、これがこじろうの場合はどうだったかというと、例えば一年生の参観で観察されたところによると、またろうよりは周囲の状況に気づいているので、なにやらノートに「2+3=」なんてことを書き付けるところまではいってます。おー、よしよし、と思っていると、ふと、あれ、消しゴムは、ということになり、消しゴムを探し始めます。
筆箱にない…で、あれこれ机の中をひっくり返し、えんえんと探しています。探しているうちに、お道具箱の中にぽとりと、手に持っていた鉛筆を落としているのだけど本人は気づかない。そのうち、奥のほうから、消しゴムあった!! で、消して…あれ、鉛筆はどこ??
今度は鉛筆を探します。そのうち、授業ではいくつかの足し算引き算が済み、授業終了のチャイムが鳴ってしまいました。おいおい。
というわけで、鉛筆と消しゴム問題は、こじろうの学習面でも大きく立ちはだかっていたのでした。これは高学年になっても続き、よく、「つい30秒前に手に持っていた鉛筆がなぜない??」という事態に陥っていました。
さて、外部からの働きかけがまったく功を奏しなくても、本人の成長というのはあるものです。四年生のときの授業参観でまたろうが、算数の少人数教室に移動するとき、手には教具の入ったスーパーのビニール袋がひとつ。なんか、また筆箱を持っていないようだが、と思いながらそのまま遠くから見ていると、授業が始まって、鉛筆が必要になったとき、やおらまたろうはそのビニール袋から、セロテープで貼り付けてある鉛筆を一本べりっとはがし、書き始めました(o_o;;
移動教室だと筆記用具を忘れやすい→必ず持っていくものに貼っておこう、という知恵だったらしいです。消しゴムないけど。
まぁ、徐々にマシにはなってきたわけだけど、問題は継続したまま、受験も済んで高専入学。始まってしばらくしたころときどきチェックしてみると、やはり筆箱自体持っていかなかったり、筆箱はあってもほぼ空だったりして、一時間丸ごとノートをとらないようなことも頻発していのですが、今更介入する気力もないので、チェックをすることもやめてほっておきました。
ところが後期に入って、どうもまたろうの様子が前とは違います。ノートも取れているようだし、テキストやノートを忘れないように具体的な対策を取っているようです(要するに、なんでも学校に置きっぱなしにするということ)。
先日、みんなでサイゼリヤでごはんを食べていたとき、帰りにスーパーに寄って買うものをメモしようとして私が、「誰か書くものもってきてない??」と聞くと、またろうがやおらかばん(学校にも持っていくかばんだった)を開けて、筆箱ごと貸してくれました。
筆箱の中には、きれいに削った鉛筆が四本、短くなった鉛筆をいれるホルダー一本、赤鉛筆一本、ボールペン一本、そして消しゴムが二つ、それぞれ定位置にきちんとおさまっていました。う、美しい…
昔と違ってその一本一本に母の手による記名などはないわけだけど、ちゃんと授業終了時に自分で回収して筆箱におさめているということだよね。なんかすごくうれしい。
(*) このエリアは「またろうゾーン」もしくは結界と呼ばれ、先生のお話などの音波を遮断する働きがあるのではないかという俗説もあった。その後の研究によれば、強い相関はあるが因果関係は認められないということになっている。