「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        尾張の殿様と吉井の殿様の虎狩の話

2011-05-08 07:54:31 | Weblog
大型連休の最中に知人のO氏から戦前のシンガポールについて興味ある資料と写真を頂いた。それは大正時代、マレーへ虎狩に出かけた尾張(名古屋)の殿様、徳川義親侯に関するものだ。義親侯の著書「じゃがたら紀行」(中公文庫)の中に侯の虎狩に同行した吉井信照・元陸軍大尉の事が出てくるが、僕はこれまで寡聞にして吉井・元大尉がどんな人物なのか知らなかった。

O氏から頂いた資料によると、吉井・元大尉は上州(群馬県)吉井藩の最後の藩主信謹氏の次男で、大正天皇とは学習院時代のご学友で、明治33年に陸軍士官学校を卒業、日露戦争には児玉源太郎将軍の副官として旅順作戦にも従軍している。その後体調をこわしたという理由で退官、44年にはマレー半島に渡り、ジョホール州でゴム園を開業している。

徳川義親侯は「じゃがたら紀行」の年譜によると、蕁麻疹の治療転地治療のため、マレー、ジャワへ旅行している。僕はこれまで、徳川侯が何故、当時まだ未開の地であった、この地方へ旅行したのかについても疑問に思っていたが、O氏の資料によって、その疑問が解けた。吉井大尉の夫人、貞子さんは清水徳川家の出で、義親侯と吉井大尉(本家は子爵)とは同じ華族仲間で旧知の中だったのである。義親侯は、マレーでゴム園を開き土地に詳しい大尉を先達として虎狩に出かけたのだ。代々木練兵場で初の飛行機の飛行に成功した"徳川好敏大尉”は、吉井夫人と同じ清水徳川家の出で、吉井大尉の陸士の後輩にあたる。

O氏から頂いた写真(コピー)によると、戦争中シンガポール(昭南)の博物館長など軍政顧問をしていた義親侯と吉井大尉とが一緒に写った集合写真がある。このことからみて虎狩をした二人の仲は、その後も続いていたことが判る。なお、高崎市の吉井郷土資料館には吉井信照大尉が撮った日露戦争の写真やマレー時代の資料が展示されている。