今日は節分である。わが家では夕刻日が暮れるかかる頃”福は内””鬼は外”と豆撒きをするが、どこの家もそうなのだろうか?東京のような都会では年々、この豆撒きの声が聞こえなくなってきた。理由の一つは、集合住宅が多くなり、家と家との庇が接してきたからかもしれない。とくに”鬼は外”が困る。近所に遠慮して豆が勢いよく撒けなくなってきた。
節分というと僕は昔旧制中学校で学んだ吉田兼好の徒然草の追儺の儀式を思い出す。追儺は元々は中国から伝わった宮中の悪鬼払いの儀式だったそうだが、兼好の頃(鎌倉時代)には、この追儺の儀式は現在のように節分ではなく大晦日に行われていた。
「追儺より四方拝に続くこそ面白けれ 晦日はいとう闇きに松どもともして夜半すぎるまで人の門を叩き走り歩き何事かかなと、ことことしくののして足を空に惑う」(第十九段 「折節の移り変わり」)
追儺の儀式が今のように節分の時期に行われ、宮中だけでなく庶民の間でも行われるようになったのはいつごろのなのだろうか。兼好が上記徒然草で書いている「四方拝」についても、僕ら戦前生まれの日本人は知っているが、戦後の人たちは1月1日が「四方拝」という国の祭日だったことは知らない。
すべて年の流れである。わが家でも今夕「恵方巻」を作る。東京では10年ほど前までは節分に「恵方巻」を食べる習慣はなかったが、今では定着した感がある。昨日テレビを見ていたら東北のある町では、節分に鬼の恰好をした人が町内を回り門口で豆を浴びる習慣があるのを知った。もしかすると、徒然草時代の習慣が変形して残っているのかもしれない。
節分というと僕は昔旧制中学校で学んだ吉田兼好の徒然草の追儺の儀式を思い出す。追儺は元々は中国から伝わった宮中の悪鬼払いの儀式だったそうだが、兼好の頃(鎌倉時代)には、この追儺の儀式は現在のように節分ではなく大晦日に行われていた。
「追儺より四方拝に続くこそ面白けれ 晦日はいとう闇きに松どもともして夜半すぎるまで人の門を叩き走り歩き何事かかなと、ことことしくののして足を空に惑う」(第十九段 「折節の移り変わり」)
追儺の儀式が今のように節分の時期に行われ、宮中だけでなく庶民の間でも行われるようになったのはいつごろのなのだろうか。兼好が上記徒然草で書いている「四方拝」についても、僕ら戦前生まれの日本人は知っているが、戦後の人たちは1月1日が「四方拝」という国の祭日だったことは知らない。
すべて年の流れである。わが家でも今夕「恵方巻」を作る。東京では10年ほど前までは節分に「恵方巻」を食べる習慣はなかったが、今では定着した感がある。昨日テレビを見ていたら東北のある町では、節分に鬼の恰好をした人が町内を回り門口で豆を浴びる習慣があるのを知った。もしかすると、徒然草時代の習慣が変形して残っているのかもしれない。