知人から「東京大空襲を記録する会」が編纂した「東京大空襲戦災史」のコピーを送って貰った。先月、新橋の烏森神社近くの老舗料亭「すえ源」で知人からご馳走になったが、その時「すえ源」がいつ戦災になったのかが話題になったが、料亭の御主人(昭和17年生まれ)は3月10日の前だが、はっきりとした記録はないという話だった。何事にも関心を持つ知人は早速調べて”2月19日の空襲ではないかと推理してきた。この空襲では神田、京橋、赤坂、四谷他が被害を受け1,021家屋が罹災している。一方知人に劣らず好奇心のある僕も亡父の日記から、それは銀座を中心に白昼大被害がでた1月27日の空襲ではないかと推理している。港区史を見れば、はっきりすると思うが、今の時点ではわからない。
これに触発されて昨日”徒然なるままに”ネットで東京の空襲記録を渉猟していたら「帝都大空襲」という写真集があった。3月10日の下町大空襲直後の悲惨な写真がいっぱい載っており、警視庁カメラマンだった石川光陽氏(故人)の写真集と思われるが、その中に2枚、僕が住んでいる街の空襲時の写真があり”3月4日、空襲被害地の整理に当たる警防団”というキャプションがついていた。僕は今の地には昭和20年3月23日強制疎開で引っ越しているから、この空襲は体験していないが、昨日の昨日まで、この空襲について知らなかった。目黒区の戦災記録史にも記載されていない。
石川光陽氏は当時隣町に住んでいたので、この写真を撮ったものと思われる。興味がわき、さらにネットを調べてゆくと、近所の末広稲荷神社について記したブログの中に、神社由来の写真があり”3月の空襲で貴重な資料焼失”とある。これからみて多分神社そのものもこの空襲で焼けてしまったのだろう。僕はこの街で5月24日の空襲を体験しており、父母と一緒に落ちてきた焼夷弾の破片を火叩きで消したことがある。また近所の家が丸焼けになったのを見ている。しかし、この3月4日の空襲被害については知らなかった。「東京空襲戦災史」によると、空襲は日曜日の午前8時40分、主な被害地域は豊島、滝野川、城東、向島他とある。いずれも目黒とは離れた地域だ。おそらく僕の街はこの(他)に入っているのだろう。同じようなこのようなケースが他にもあるかもしれない。もう一度戦災史を掘り起こす必要がある。(写真は昭和20年3月の空襲で被害にあった旨記す末広稲荷の由来)
これに触発されて昨日”徒然なるままに”ネットで東京の空襲記録を渉猟していたら「帝都大空襲」という写真集があった。3月10日の下町大空襲直後の悲惨な写真がいっぱい載っており、警視庁カメラマンだった石川光陽氏(故人)の写真集と思われるが、その中に2枚、僕が住んでいる街の空襲時の写真があり”3月4日、空襲被害地の整理に当たる警防団”というキャプションがついていた。僕は今の地には昭和20年3月23日強制疎開で引っ越しているから、この空襲は体験していないが、昨日の昨日まで、この空襲について知らなかった。目黒区の戦災記録史にも記載されていない。
石川光陽氏は当時隣町に住んでいたので、この写真を撮ったものと思われる。興味がわき、さらにネットを調べてゆくと、近所の末広稲荷神社について記したブログの中に、神社由来の写真があり”3月の空襲で貴重な資料焼失”とある。これからみて多分神社そのものもこの空襲で焼けてしまったのだろう。僕はこの街で5月24日の空襲を体験しており、父母と一緒に落ちてきた焼夷弾の破片を火叩きで消したことがある。また近所の家が丸焼けになったのを見ている。しかし、この3月4日の空襲被害については知らなかった。「東京空襲戦災史」によると、空襲は日曜日の午前8時40分、主な被害地域は豊島、滝野川、城東、向島他とある。いずれも目黒とは離れた地域だ。おそらく僕の街はこの(他)に入っているのだろう。同じようなこのようなケースが他にもあるかもしれない。もう一度戦災史を掘り起こす必要がある。(写真は昭和20年3月の空襲で被害にあった旨記す末広稲荷の由来)