馬齢を重ねて82歳の誕生日を迎えた。幸い持病の高血圧も糖尿も薬でコントロールされていて血液検査で見る限り正常値である。しかし、左膝の半月板摩耗からか外出時には杖のお世話になることが多くなってきた。誕生日を迎えての感想は月並みだが”冥土の旅の一里塚、うれしくもあり、うれしくもなし”(小林一茶)といったところだが、亡き父母の死亡時年齢に近くなったのだろう。”生きる”ことへの思いが深くなってきた。
昭和1ケタ世代もこの2,3年中には皆80歳の仲間入りする。学童疎開組み世代の石原慎太郎「維新の会」共同代表の学年まで80歳だ。ラジオを聞いていたら日本人の90%までが戦争の記憶がないそうだ。一方、これに反して直接銃を取って従軍した世代は、年々減少してきている。寂しい限りだが、先日、軍属として戦時中スラウェシにおられたKさんから、海軍の軍医だった佐藤衛大尉(故人)の自伝「雲騰う海」を贈って頂いた。海軍の短期現役制度(短現)出身の軍医さんで、戦争中は主として南太平洋、インドネシアのマカッサル、クーパンなどの病院で陸上勤務されいた方だ。
佐藤さんは大正7年生まれ鹿児島県出身の方。戦時中の自分の体験を克明に自伝で記されいるがその終章「戦争―経験―体験」の中で大正生れと昭和世代の世代感を述べられている。僕はこれに感じることがあったのでここで紹介させて貰う。
(大正世代)「自分たちの世代は明治以来の皇国政策から大正末期、昭和初期の自由主義、個人主義的な新教育、さらに太平洋戦争前の軍国的教育まで右に左揺れ動いて定見を持つに至らなかったが、戦争に行かねばならないことは、素直に疑わなかった」
(昭和1ケタ世代)「戦争がエスカレートする中に国民学校教育を受けた、いわゆる戦中派は敗戦のショックが最も激しく若い根幹をブツリと絶たれ動揺も大きかったが、若さによる復元力も強く、戦後の社会の新しい生き方をたくましく選んで今日の日本の原動力となった」
昭和1ケタ世代もこの2,3年中には皆80歳の仲間入りする。学童疎開組み世代の石原慎太郎「維新の会」共同代表の学年まで80歳だ。ラジオを聞いていたら日本人の90%までが戦争の記憶がないそうだ。一方、これに反して直接銃を取って従軍した世代は、年々減少してきている。寂しい限りだが、先日、軍属として戦時中スラウェシにおられたKさんから、海軍の軍医だった佐藤衛大尉(故人)の自伝「雲騰う海」を贈って頂いた。海軍の短期現役制度(短現)出身の軍医さんで、戦争中は主として南太平洋、インドネシアのマカッサル、クーパンなどの病院で陸上勤務されいた方だ。
佐藤さんは大正7年生まれ鹿児島県出身の方。戦時中の自分の体験を克明に自伝で記されいるがその終章「戦争―経験―体験」の中で大正生れと昭和世代の世代感を述べられている。僕はこれに感じることがあったのでここで紹介させて貰う。
(大正世代)「自分たちの世代は明治以来の皇国政策から大正末期、昭和初期の自由主義、個人主義的な新教育、さらに太平洋戦争前の軍国的教育まで右に左揺れ動いて定見を持つに至らなかったが、戦争に行かねばならないことは、素直に疑わなかった」
(昭和1ケタ世代)「戦争がエスカレートする中に国民学校教育を受けた、いわゆる戦中派は敗戦のショックが最も激しく若い根幹をブツリと絶たれ動揺も大きかったが、若さによる復元力も強く、戦後の社会の新しい生き方をたくましく選んで今日の日本の原動力となった」