亡父の昭和20年6月6日の日記に”先月25日以来12日目に漸く電灯がつき、気も心も明るくなり、ラジオも聞けて心強さを覚ゆ。電灯がついた瞬間、付近一帯から歓声が上がる”と書いてある。先月25日とは山の手一帯に連続2日の大空襲があった日で、以来、わが家は真っ暗闇の生活をしていたのだ。今だったら大変で、パニックになってしまっただろう。
そんな日々の中で、亡父は住んでいた東横線都立大学から都心の虎の門まで通勤していた。24日未明の空襲で、わが家一帯にも被害が出、東横線は全線不通になったが、歩いて渋谷まで往復、さらに25日の空襲で地下鉄がストップすると、焦土の中を家から片道8キロ歩いて通勤していた。僕も4月15日の京浜大空襲で焼失した蒲田の勤労動員先の工場の焼跡整理に歩いて出勤している。
ページ数の少ない簡易の日記帳なので記述が少ないのが残念だが、大空襲から2日間は新聞もなく、僕らは隣近所の情報しかわからなかった。29日には横浜の昼間の大空襲の煙が、わが家からも望見出来たが、亡父のその日の日記には、亡母が買い出しに、東横沿線の新丸子まで買い出しに出かけたとも書いてある。隣家の貰い湯に感謝という記述が多く出てくる。もちろん銭湯など開業しておらず、自宅に内風呂があっても、薪が入手できなかった。
品川区西五反田の母校も24日の空襲で一部を除いて焼失した。僕らは蒲田の工場跡の焼跡整理に従事していたが、6月6日、学校から突然、千葉県流山市(現在)の江戸川口にある利根運河の拡幅改修行事に行くよう命令された。まだ中学3年になったばかりで、級友の中には24,25日の空襲で焼けだだされたばかりの者もいた。学校としては、いつまでも焼跡整理させているるわけにはいかなかったのだろう。
そんな日々の中で、亡父は住んでいた東横線都立大学から都心の虎の門まで通勤していた。24日未明の空襲で、わが家一帯にも被害が出、東横線は全線不通になったが、歩いて渋谷まで往復、さらに25日の空襲で地下鉄がストップすると、焦土の中を家から片道8キロ歩いて通勤していた。僕も4月15日の京浜大空襲で焼失した蒲田の勤労動員先の工場の焼跡整理に歩いて出勤している。
ページ数の少ない簡易の日記帳なので記述が少ないのが残念だが、大空襲から2日間は新聞もなく、僕らは隣近所の情報しかわからなかった。29日には横浜の昼間の大空襲の煙が、わが家からも望見出来たが、亡父のその日の日記には、亡母が買い出しに、東横沿線の新丸子まで買い出しに出かけたとも書いてある。隣家の貰い湯に感謝という記述が多く出てくる。もちろん銭湯など開業しておらず、自宅に内風呂があっても、薪が入手できなかった。
品川区西五反田の母校も24日の空襲で一部を除いて焼失した。僕らは蒲田の工場跡の焼跡整理に従事していたが、6月6日、学校から突然、千葉県流山市(現在)の江戸川口にある利根運河の拡幅改修行事に行くよう命令された。まだ中学3年になったばかりで、級友の中には24,25日の空襲で焼けだだされたばかりの者もいた。学校としては、いつまでも焼跡整理させているるわけにはいかなかったのだろう。