「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

山の手大空襲直後の庶民の生活 (2) 1か月のモッコ担ぎ

2014-06-07 05:46:52 | Weblog
昭和20年6月8日の上野駅地下道の風景は69年経っても忘れられない。この朝僕らは勤労動員で「利根川運河」の工事現場に出発のため西郷像の前に集合を命じられた。僕は渋谷駅から地下鉄(銀座線)で上野駅に降り、地下道を通って車坂出口に向かおうとしたところ驚いた。地下道は空襲で焼け出された人で一杯、その中には僕らよりも幼い「戦争浮浪児」までいた。真っ黒な顔に、うつろな目をしていた彼らの姿がまだ脳裏に残っている。

僕らは上野駅から、まだSLだった常磐線に乗り柏駅に向かった。そこから東武野田線に乗り換え運河駅で降りた。僕らの作業現場は駅から歩いて30分の江戸川口にあった。正式地名は千葉県東葛飾郡梅郷村といい、僕らは広島に司令部がある陸軍船舶部隊暁隊築城班に配属された。それから1か月、僕らは軍隊並の厳しい生活を強いられた。

「利根川運河」は明治の初期、オランダ人の”お雇い外人”が設計し作ったもので、利根川と江戸川との間、7.8キロを結ぶ通商路だが、僕らが動員された頃は、すでに運河としての役割はしていなかった。戦争末期、沖縄戦が終わりに近づき、次は本土決戦だと叫ばれてきて、にわかに「利根川運河」は注目を浴び、戦場になっても自由に船が往来できるような浚渫工事が開始された。僕らはこの工事に動員された。

江戸川河口の土手の上の”藁小屋”が宿舎で、孟宗竹の食器2個が支給され、朝8時から夕方5時まで、僕らは運河の底から泥をすくい、二人でモッコを担ぎ地上へ運んだ。中学3年になったばかりで、遊び盛りの僕らだ。仕事が厳しく少し手を抜くと、監督の兵隊から”沖縄の事を思え”とシッタの声が飛んできた。

当時、東京では食生活は逼迫して、お米の食事は食べられなかったが、運河では三食ご飯は支給された。しかし、それでも腹が減って、僕らは畑の野菜や農家の庭の梅を盗んで食べた。モッコ担ぎの重労働は1か月続いたが、学校側もさすがに低学年の生徒には厳しいと判断したのであろう。7月初め僕らは帰京出来たが、休みもなく次の動員先が決まり、鉄道の架線張りの手伝いなどに駆り出され8月15日を迎えた。