「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

民主党最低議員の最低質問 党の終焉も近いのでは

2014-06-10 09:23:50 | Weblog
昨日参院決算委員会の模様をテレビ中継で見ていたら野党第一党、民主党の先陣として江崎孝議員が質問にたった。質問は今、与党自公両党で審議中の集団自衛権をめぐってのもので、安倍総理の言葉を借りれば”ミス.リード”であり、素人の僕が見てもおかしい。それより驚いのは江崎議員が、あの河野洋平元官房長官が雑誌「世界」に書いた”阿部総理は上からの視線で国会答弁している”という言葉を引用して、安倍総理を批判、さらに!返す刀”で、麻生副総理の大臣席での態度は、背伸びするなどマナーが悪いと決めつけた。決算委の質疑とはまったく関係がなく、時間の浪費以外の何物でもない。

最低の質問にあきれて、テレビをきり、いつものようにネットの”リアル.タイム”で他の視聴者がどう見ているのかチェックしてみた。やはり、僕と同じような人が多い。”聞くに耐えない〝”いい加減にせよ””どこの国の政治家か”etc。江崎議員は、口に笑みを浮かべ、自分の言葉に酔ったように質問していたが、逆効果である。国民の視線に立っての質問とは思えない。

新聞を見ていると、民主党では来年9月の任期を待たず。海江田万里氏を代表から引きずり下ろそうという動きがある。3年3か月の民主党政権時代、次から次と登場したお歴々が、口をそろえて海江田おろしの合唱である。国会での代表質問は誰が決めるのか寡聞にし知らないが、江崎議員は海江田ネクスト内閣の閣僚の一員に名を連ねている。野党が分裂したり、分党したりして忙しい。野党再結合の波に遅れてはと、海江田おろしも始まったのであろうが、江崎議員の質問を聞いていると、代表が変っただけでは、党の内紛は納まりがつかないのでは。民主党の終焉の日も近い気がする。

老人には関心がないAKB総選挙と集団自衛権論議

2014-06-09 05:38:54 | Weblog
産経新聞の6月8日付け首都圏版一面の真ん中あたりに、どーんと大きな写真が載っていた。”雨の総選挙7万人桜色、まゆゆ一位”(スマホでも写真みられます)というキャプションもついていた。世の中の出来事にとんとうとくなった僕でもAKB48の”総選挙”があったぐらいの事は知ってはいたが、新聞の顔ともいうべき1面にこれだけ大きく報道する価値はあるのだろうかー。

平均寿命を過ぎた80老人になると、最近つくづく世の中が変ってきたと思う。学校の校長先生が女性トイレを盗撮したり、麻薬に手を出して捕まったり、犯罪を取り締まる制服のお巡りさんがストーカー行為で逮捕されたりしている。極端な例だとは思うが、昔、僕らが現役時代にはなかった犯罪である。こういった現象がAKB総選挙のバカ騒ぎと関係があるとは言わないが、何か日本全体がおかしくなっているように老人には思われる。

国の大事である集団自衛権論議もそうだ。大事なことはわかるが、あまりにも重箱のスミをつついたような論議である。そして、これに便乗したかのような野党再結合の動きである。火種の一角は80代政治家にあるようにも見える。高齢化が進み、日本の80代の老人は930万人もいて総人口の7.3パーセントもいる。しかし、人口全体から見れば少数派である。少数派はもう、あまり政治に口をはさむべきではないと思うのだが。

たかが歌い手グループの選挙である。これに7万人が雨の中集まり大騒ぎし、一方では、大阪市長選挙では4人に1人しか選挙せず、史上最低の投票率だったという。やはり、どこか狂っている。逆に言えば、日本はそれだけ平和なのかもしれない。平和だから集団自衛権が必要なのかもしれない。しかし、論議をよい事に、またまた政治屋たちが蠢動しているように80老には映るのだが。

お年寄りの「学芸会」

2014-06-08 05:29:41 | Weblog

目黒区の老人クラブ芸能大会が先週の金曜日、家の近くのパーシモン.ホールで催された。老妻のフラダンス仲間の87歳の女性も出演されるので応援に出かけた。お元気である。パーシモン(柿)ホールはは旧都立大学の跡地にできたもので、設備も新しく評判もよい。平日の昼間なのに定員1200人の客席はほぼ満員。素人のお年寄りの芸能大会とは思えない。

大会のプログラムを見ると、最も多いのは「カラオケ」で、40組の出演のうち20組、次いで民謡と舞踊が13組、フラダンスが5組という順。今のお年寄りの芸事の趣向がわかるが、お年寄りといっても8割近くが女性である。会の最後に有志が舞台の上に上がって「新目黒音頭」と「東京音頭」を披露(写真)したが、男性は僅か2人にすぎなかった。

芸能大会といっても、お年寄りにとっては「学芸会」だ。日頃地元の老人会で精進して学んだ結果の発表会である。昔、このお年寄りが小学生だった頃の「学芸会」みたいなものだ。「学芸会」が「運動会」と並んで学校の二大行事だった昔を想い出した。「学芸会」には父兄やお年寄りなど沢山、観覧に来ていた。折角の、お年寄りの「学芸会}だ。平日の昼間ではなく、土曜、日曜に開いたら、孫たちも参加できて核家族解消の通いの場にもなるのにと、ふと思ったりした。

山の手大空襲直後の庶民の生活 (2) 1か月のモッコ担ぎ

2014-06-07 05:46:52 | Weblog
昭和20年6月8日の上野駅地下道の風景は69年経っても忘れられない。この朝僕らは勤労動員で「利根川運河」の工事現場に出発のため西郷像の前に集合を命じられた。僕は渋谷駅から地下鉄(銀座線)で上野駅に降り、地下道を通って車坂出口に向かおうとしたところ驚いた。地下道は空襲で焼け出された人で一杯、その中には僕らよりも幼い「戦争浮浪児」までいた。真っ黒な顔に、うつろな目をしていた彼らの姿がまだ脳裏に残っている。

僕らは上野駅から、まだSLだった常磐線に乗り柏駅に向かった。そこから東武野田線に乗り換え運河駅で降りた。僕らの作業現場は駅から歩いて30分の江戸川口にあった。正式地名は千葉県東葛飾郡梅郷村といい、僕らは広島に司令部がある陸軍船舶部隊暁隊築城班に配属された。それから1か月、僕らは軍隊並の厳しい生活を強いられた。

「利根川運河」は明治の初期、オランダ人の”お雇い外人”が設計し作ったもので、利根川と江戸川との間、7.8キロを結ぶ通商路だが、僕らが動員された頃は、すでに運河としての役割はしていなかった。戦争末期、沖縄戦が終わりに近づき、次は本土決戦だと叫ばれてきて、にわかに「利根川運河」は注目を浴び、戦場になっても自由に船が往来できるような浚渫工事が開始された。僕らはこの工事に動員された。

江戸川河口の土手の上の”藁小屋”が宿舎で、孟宗竹の食器2個が支給され、朝8時から夕方5時まで、僕らは運河の底から泥をすくい、二人でモッコを担ぎ地上へ運んだ。中学3年になったばかりで、遊び盛りの僕らだ。仕事が厳しく少し手を抜くと、監督の兵隊から”沖縄の事を思え”とシッタの声が飛んできた。

当時、東京では食生活は逼迫して、お米の食事は食べられなかったが、運河では三食ご飯は支給された。しかし、それでも腹が減って、僕らは畑の野菜や農家の庭の梅を盗んで食べた。モッコ担ぎの重労働は1か月続いたが、学校側もさすがに低学年の生徒には厳しいと判断したのであろう。7月初め僕らは帰京出来たが、休みもなく次の動員先が決まり、鉄道の架線張りの手伝いなどに駆り出され8月15日を迎えた。

山の手大空襲直後の庶民生活 (1) 12日間の停電

2014-06-06 06:07:52 | Weblog
亡父の昭和20年6月6日の日記に”先月25日以来12日目に漸く電灯がつき、気も心も明るくなり、ラジオも聞けて心強さを覚ゆ。電灯がついた瞬間、付近一帯から歓声が上がる”と書いてある。先月25日とは山の手一帯に連続2日の大空襲があった日で、以来、わが家は真っ暗闇の生活をしていたのだ。今だったら大変で、パニックになってしまっただろう。

そんな日々の中で、亡父は住んでいた東横線都立大学から都心の虎の門まで通勤していた。24日未明の空襲で、わが家一帯にも被害が出、東横線は全線不通になったが、歩いて渋谷まで往復、さらに25日の空襲で地下鉄がストップすると、焦土の中を家から片道8キロ歩いて通勤していた。僕も4月15日の京浜大空襲で焼失した蒲田の勤労動員先の工場の焼跡整理に歩いて出勤している。

ページ数の少ない簡易の日記帳なので記述が少ないのが残念だが、大空襲から2日間は新聞もなく、僕らは隣近所の情報しかわからなかった。29日には横浜の昼間の大空襲の煙が、わが家からも望見出来たが、亡父のその日の日記には、亡母が買い出しに、東横沿線の新丸子まで買い出しに出かけたとも書いてある。隣家の貰い湯に感謝という記述が多く出てくる。もちろん銭湯など開業しておらず、自宅に内風呂があっても、薪が入手できなかった。

品川区西五反田の母校も24日の空襲で一部を除いて焼失した。僕らは蒲田の工場跡の焼跡整理に従事していたが、6月6日、学校から突然、千葉県流山市(現在)の江戸川口にある利根運河の拡幅改修行事に行くよう命令された。まだ中学3年になったばかりで、級友の中には24,25日の空襲で焼けだだされたばかりの者もいた。学校としては、いつまでも焼跡整理させているるわけにはいかなかったのだろう。

血の通った「成年後見人」制度に!

2014-06-05 05:59:40 | Weblog
認知症や知的障害などで判断力が弱くなった高齢者が財産管理などを委ねる制度に「成年後見人」制度があるが、最高裁の調査によると、平成25年年末の時点で、この利用者は17万人に達した。平成10年集計を始めて以来最高の数で、超高齢者時代を迎えて、ますます増加の傾向にあるのではないかという。

昨年暮、僕の大学時代の友人もこの制度を利用して亡くなった。92歳で生涯独身だったが、持ち家ののマンションに住んでおり、厚生年金、軍人恩給などを集計すると、年収300万円を越し経済的には困らない生活を送っていた。しかし、高齢の独り暮らしで、日常生活に多少困っているみたいなので居住区の福祉に”おせっかい”だが連絡をとってしまった。亡くなる半年頃までは元気だったが、多少ボケが出てきたため、ケアマネ―ジャーが心配して、この「成年後見人」制度を彼に適用した。

彼の訃報はケアマネージャーから僕の家に届いた。危篤状態から何度も連絡を受けていたが、たまたま僕が入院中だったため見舞に行けず申し訳なかった。連絡を受けて、老妻が僕に代って葬儀式場へ行き最後の別れを告げた。式場は立派だったが、生前大学の教え子など知り合いの多かった彼にしては寂しかったようだ。僕の入院という不運はあったが、彼には申し訳なく思っている。

「成年後見人」制度によって、形だけは無事葬儀は終わった。一般的な傾向として葬儀は簡素化してきているが、親友としてせめて生前の友人、知人を集めて「お別れの会」はしたいと思っている。が、成年後見人は誰なのかしらない。一般の葬儀なら、参列者に対して礼状が送られてくるのが当然だが、それもない。成年後見人は、そこまでする必要はないと思うのだが、なにか血の通いが感じられない。

「自由が丘が燃えた日」 少ない体験記録

2014-06-04 06:08:33 | Weblog
先日このブログで東京の山の手空襲について書いたところ、同世代の知人から早速「表参道が燃えた日―山の手大空襲の体験記」と同(続)の二冊を参考になればと送ってくれた。この二冊は標題どおり昭和20年5月25日深夜、「表参道」など当時の渋谷区、赤坂区など青山、原宿、麻布一帯を”火の海”と化し3,242人の犠牲者を出した体験記録である。大変貴重な記録で、編集に当たった方々のご努力に改めて敬意を表したい。

僕が目黒で体験したのは、その前日24日未明の空襲で、飛来B-29機数、投下焼夷弾数など25日の空襲に匹敵するが、亡くなった方が762人と少なったためか、全容はあまり知られていないし体験談も少ない。しかし、被災地は品川、荏原、目黒、渋谷、世田谷と広域にわたっている。今は繁華街の五反田や若者の人気のショッピング.エリアになっている当時は郊外の自由が丘の駅前もこの空襲で焼失している。

「表参道が燃えた日」の編集後記でも触れられているが、空襲時正しい情報が知らされなかったこともあり、戦災についての資料は公の機関には乏しい。例えば、僕の家の近くの末広稲荷は3月4日の空襲で消失し、当時の焼跡整理の写真が、警視庁カメラマン、石川光陽氏のアルバムに残っているが、目黒区の記録にはない。ネットで調べると、ピアニストの館野泉氏も当時9歳で自由が丘で空襲に会い、栃木県に疎開されている。

自由が丘は僕の家から東横線で僅か一駅で、駅前の焼跡広場は今でも深く脳裏にあるのだが、記憶の中には5月24日の空襲だけでなく、他の空襲でも被害にあっているような気がする。何分69年も昔の話で記憶は薄れてきているし、思い違いもある。来年は戦後70年の節目の年である。出来れば24日空襲についても体験記録集を残したいと思っている。是非、協力のほどお願いする。

戦後70年節目の年に陛下の靖国参拝への道を開け

2014-06-03 06:24:33 | Weblog
天皇皇后両陛下が来年戦争70周年の節目の年に、先の戦争の激戦地であった太平洋のパラオなどを戦没者慰霊をかねて訪問される計画だという。両陛下は2005年にも同じ激戦地であったサイパン島を訪れ慰霊碑にに供花、黙祷を奉げられた。今年も夏に沖縄を訪問、戦時中学童疎開船「対馬丸」が米国の潜水艦によって撃沈され1400名も犠牲者を出した現地の記念館を訪問される。

両陛下は先の戦争の体験者であり、お立場から戦争については難しい事は、十分理解しているが、僕は敢えて提案したい。明年までには1975年以来、40年間とだえている陛下の靖国神社参拝を復活していただきたい。昭和天皇は戦後連合軍占領下の時代を踏め合計8回、靖国神社を親拝されているが、75年を最後に中止されている。その理由については2006年、明らかにされて「富田メモ」(富田朝彦元宮内庁長官メモ)によれば、昭和天皇が神社側がいわゆるA級戦犯を神社に合祀したことに反対だからだという。

「富田メモ」について、僕は多分に中曽根元総理の政治的なからみがあると思っているが(小ブログ2006年8月14日参照)その中曽根元首相は2006年6月13日のNHKの番組で(小泉総理)の靖国神社問題対応を批判して、この問題(A級戦犯合祀)は神主が決めれば解決する。つまりA級合祀が解決すれば天皇親拝は復活できるといっている。そう簡単に解決できる問題とは思わないが、戦時中”天皇陛下万歳”と亡くなった英霊や”靖国で再会しよう”と死んでいった英霊もおられた。

政治家は8月15日参拝にこだわって近隣諸国の変な誤解を呼ぶよりは、天皇陛下が理由はともかくとして親拝できる道を開くべきである。戦争体験世代にとっては来年が最後の節目の年である。


慰安婦問題アジア連帯会議と朝日新聞の報道

2014-06-02 05:56:01 | Weblog
インドネシア在住の日本人の友人から現地の英字新聞「Jakarta Post」に日本で開催される「日本軍慰安婦問題連帯会議」に元慰安婦が証言に出席するとの記事があったと教えてくれた。 
 (http://www.thejakartapost.com/news/2014/05/29/formerj-jugun.ianfu-testify-japan,html)。
概略をいうと、戦時中日本軍の軍政下であった中部ジャワのサラティガという小さな町で当時10歳だった少女が日本軍によって強制連行されて慰安婦にされたという話だ。正直いって僕は”またか”という感じで、何回も、こういった会議を繰り返す連中に怒りを覚えた。

サラティガは戦時中陸軍第16軍の軍政下にあった。高原のキリスト教系の大学ももある静かな町である。生前懇意にして頂いた宮元静雄16軍参謀が,1990年代,サラティガに近いジョグジャカルタを中心に慰安婦問題を調査をした日本のグループに対して、日本軍による強制連行は全くなかったと否定している(「インドネシアの慰安婦」川田文子)ように、100パーセントありえない話だ。

朝日新聞デジタルによると「日本軍慰安婦問題連帯会議」は2000年12月、東京で開催された「日本女性国際戦犯裁判」(模擬法廷)の後を受けてアジア各地で開催されており、今回は12回目である。今回は”安倍政権の暴走を許すな”というスローガンの下、韓国を中心に香港、台湾、インドネシア、フィリッピンなど慰安婦問題に取り組む民間団体関係者を中心に数百名が集まり、今回は初めてインドネシアのスラウェシ島からも元慰安婦が参加するとあった。

スラウェシの慰安婦問題は昨年11月の朝日新聞の”慰安婦問題は韓国だけではない”という報道で”明らかに”されたもので、慰安婦の証言が掲載されていた。朝日が取り上げた南スラウェシ地区は戦時中、海軍民政府の直轄軍政下にあった地で、まだ当時の関係者も元気でおられ、証言のような事実はこれまた100パーセントありえないことだった。さすがに朝日も”証言は完全に裏づけされていない”と腰が引けていた。朝日新聞は、本来なら自社が火をつけた問題である。そのスラウェシから慰安婦が来て証言するとなれば、デジタル報道だけではないと思うのだが。朝日の慰安婦報道に対する風当たりが強いので”自粛”したのかもしれない。

明治の女性 村岡花子と大森

2014-06-01 05:46:29 | Weblog
亡くなった親友の夫人が戦争中の少女時代、東京大森の村岡花子さん宅の庭で、友だちだった養女のみどりさん(故人)と一緒に隠れん坊をしたり、芝生の上で”おままごと”や本を読んだりした想い出を、昨日放送されたNHKラジオの甲府発深夜便「村岡花子」特集に投稿された。夫人から前もって、その話を聞いていたのだが、途中眠ってしまい、聴き逃してしまった。

僕がスウィッチを入れた時は、村岡さんが子供向けに話をした「アリババと40人の盗賊」のレコードが流れていた。昭和14年制作のレコードだそうだが懐かしまった。村岡さんは「赤毛のアン」や児童向け図書の翻訳者や著者として有名だが、僕ら昭和1ケタ初期の世代には、当時(昭和8年―16年)NHKラジオの夕方の「子供のニュース」のおばさんとしての名前の方が、よく知られている。たしか「アリババ」の話もラジオからも流れたのではなかろうか。僕は友だちと”開けゴマ”と遊びまわった記憶がある。

村岡さんは大正8年結婚後亡くなるまでの50年間、大森の入新井に住んでおられた。当時の家は今は改築されたが、その跡に「花子とアン」記念館がある(現在は村岡花子特別展が大田区郷土史館で開催中なので休館中)大森のこの辺りは戦前は馬込文士村にも近く、関東大震災の後、作家や画家、音楽家など文化人が多く住んでいた。村岡さんは明治26年6月生まれだが、僕の亡母も偶然7月生まれである。また村岡さんが上京して卒業した城東小学校は母の卒業した学校と同じ品川区にある。

そんな関係で改めて、この時代の女性が生きた跡をたどってみた。まず少女時代に日露戦争が起きている。結婚後すぐの時代に関東大震災にあっており、昭和の恐慌から日支事変、大東亜戦争に至る期間が子育てと前後している。村岡さんは、亡母と違って戦前はとかく異端視されがちだったキリスト教徒であり、物書きだっただけに戦争の影響をもろに受けたのではなかろうか。NHKラジオの「子供のニュース」のキャスターも16年12月、大東亜戦争勃発と同時に辞めている。それでいて、戦争中、村岡さんは大政翼賛会の大東亜戦争文学者会議に参加したため、戦争遂行の協力者だとして戦後批判されている。二人とも今年は生誕121年である。