「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

110年前の亡母の「裁縫伝習所」修行証書

2019-08-21 05:08:57 | 2012・1・1

猛暑の中、わが家の古文書を整理していたら、亡母の110年前、修行した裁縫伝習所の証書が出てきた。古めかしい表現だが、お裁縫塾の卒業免状だ。母は明治26年生まれで、修行証書は42年とあるから16歳の時のものだ。

母親は東京府荏原郡大崎町(現在東五反田)の旧家の生まれだが地元の小学校を卒業した後、隣町の戸越にあった、この伝習所に通った。戸越は16世紀の古い文書にも登場する地名で”江戸に入る”という意味から、江戸時代までは”とごえ(江戸越え)”と呼ばれていたそうだ。

母が生れた大崎町が急速に発展したのは、(鉄道)省線の山手線五反田駅が明治44年に開業してからで、母が徒歩で裁縫伝習所に通っていた頃は五反田より戸越のほうが賑やかだったようだ。当時母が撮った写真館の写真は芝.二本榎とある。戦後の改名でくなってしまった地名の一つだが、やはり、地名は歴史を語るもの。戦後の東京の街の改名は愚策であった。

 

 


映画「あの日のオルガン」地元で特別上映

2019-08-21 04:17:39 | 2012・1・1

戦争中の保育園児53人の集団疎開の生活をを描いた映画「あの日のオルガン」(監督.脚本平松恵美子)が関係者の肝いりで保育園があった地元、品川区でこの秋、特別、自主上映されることになった。

基本案 会場 大井町駅前 「きゅうりあん小ホール」

    日時 令和元年11月28日(木)10:00-20:35 完全入れ替え4回上映予定

    鑑賞料金 前売券 一般 大学生1100円 当日券一般1500円、大学生1300円、小学―高校生800円

    (問合わせ先 090-3208-1540)

 

 


揺れる香港 半世紀前”慕情”

2019-08-20 04:50:30 | 2012・1・1

香港から中国本土への「逃亡犯条例」改正をめぐって香港が週末になると大揺れに揺れている。18日の日曜日にはビクトリア公園で、住民の大集会が開かれ170万人の群衆が道路を埋め尽くした。若者たちが細々と雨傘をもって始まったこの運動は、先週には国際空港を占拠したり、週を追うごとに激しくなってきている。

香港というと、僕ら昭和1ケタ世代にとっては、ヘンリー.キング監督の映画「慕情」(1955年)が想い出される。主演のジェ二ファー.ジョンズ扮する女医とウィリアム.ホールデンの米国従軍記者とのラブ.ストリーだが、筋そのものをもさることながら、映画に出てくる、香港のフェリー波止場などの風景に魅了された。「香港シャツ」という半そでの白地のYシャツが日本でも流行したのもこの頃であった。

香港島と対岸の九龍との間に海岸トンネルが完成したのは1972年だが、僕は一度も通行したことがない。つまり半世紀近く香港を訪れたことがない。しかし、60年代には仕事で3回、訪れている。だから僕の知っている香港は半世紀前の香港だが、当時、日本人は香港へ行くと、一日で背広を仕立てることが流行していた。それと「飲茶」を食べることだった。当時横浜でも「飲茶」はなかった。

僕にとっては半世紀前の香港に慕情がある。だから、揺れている香港の姿をテレビで見ると寂しい。問題の原因はたんなる「逃亡犯条例」の改正をめぐるものだろうか。やはり、長い間の体制の違いが原因している。観光客にとっては、香港が慕情であってほしいものだ。


「赤紙召集」された戦争末期の台湾の中学生

2019-08-19 06:36:48 | 2012・1・1

「認知症」予防の方法は、何事にも興味と関心を持つことだとモノの本に書いてあった。たしかにそのようで、88歳になった僕もその傾向があり、その結果か記憶力も衰えず、こうして駄文を書き続けていられるのかもしれない。

先日、戦争中の僕の体験が掲載された「孫たちへの証言」(新風書房)の集いがあり参加した。その時、隣席したのが「現存する”こどもの兵たい”『留守名簿』の著者、廣繁喜代彦さん(89)であった。廣繁さんは戦争中、日本の植民地であった台湾の基隆(きーるん)の旧制中学生であった。昭和20年3月20日、台湾全島50校の中学生は”赤紙召集”を受け、二等兵として入隊いしている。廣繁さんの原稿は、その時の体験と入隊した部隊の”留守部隊”名簿が今でも厚労省に残存しているというものだ。

召集された中学生は14,15,16歳とある。1年生から3年生での学年である、当時の兵役法では17歳から40歳までが兵役年齢だが、17歳は志願兵であって、陸軍幼年学校,海軍兵学校、予科練、飛行学校、戦車学校といった軍関係で、ほとんどは20歳の徴兵年齢に達してからの入隊であった。僕は廣繁さんと同年齢だが、戦争中本土では中学生の徴兵はなかった。

台湾の中学生に徴兵令状がでた3月20日は、米国軍が沖縄の慶良間諸島に上陸する直前で、沖縄戦には台湾の第10方面軍からも隷下の第9師団の部隊が参加しており、台湾の留守部隊では沖縄に次ぐ上陸に備えて兵力不足、中学生まで徴兵する事態であったのだろう。戦争とは歴史の表面に出てこない色々なことがあるものだ。

 

 


インドネシア独立74周年 先人たちの労を想う

2019-08-18 04:57:03 | 2012・1・1

昨日、8月17日はインドネシアド独立74周年記念日であった。インドネシアは僕の人生の”タテ軸”を構成する一つであり、毎年この日には、この国の独立を祝し、独立に関わった日本の先人たちの労に想いを馳せることにしている。

その一人、西嶋重忠氏(故人)は僕の知り合いだが、昭和20年8月17日宣言されたインドネシア独立宣言文書起草に立ちあっている。宣言文は当時ジャカルタにあった前田精海軍武官府邸で起草されたが、西嶋氏は武官府の嘱託で通訳として参加している。その会議の模様は氏の自叙伝「証言インドネシア革命ある日本人革命家の半生」(新人物往来社1975年)に詳しい。

インドネシア独立宣言原文の起同草日付が「17,8.05」となっている。この「05」は当時軍政下一般にも日常的にも使用されていた皇紀2605年からきているが、日本ではこれをとらえ、インドネシアの独立は、日本の支配下のものであり、スカルノ(初代大統領)ハッタ(同副大統領)が日本へ敬意を表したものだと解釈している人もいる。これに対して、西嶋氏は前記自叙伝の中で、”(起草期日が皇紀なのは)私を含めてそれに気が付かなかった。当時の緊張した空気の表れである”と書いている。会議はスカルノ,ハッタの拉致、監禁、時間との競争の中で行われた。

昨日も東京の目黒の大使公邸では、74年前にあわせて早朝8時から式典が行なわれたが、参列した友人の話によると、当時インドネシアに従軍した世代も皆90歳を越える高齢になり参加者はなかった。僕も失礼し西嶋さんら先人の労に想いをはせた。


戦中言葉の無理解、誤用 風化

2019-08-17 04:56:22 | 2012・1・1

敗戦の日、僕は学徒動員されていた軍需工場が”電休日”だっため庭先に掘られた防空壕の中で母親と一緒に真空管ラジオで敗戦を告げる天皇陛下の詔勅(玉音)を聞いた。翌日、多摩川べりのガス橋近くの機銃弾を製作している工場へ出勤したら半島人の徴用工が一か所に集まって”マンセイ(万歳)マンセイ”と大騒ぎしていた。

ここまで書いて、戦後生まれの世代には注釈が必要なのかもしれないと思った。例えば防空壕といっても、家庭用は、今も各地に戦争遺産として残っている軍用のものと違って、横穴ではなく、深さ1メートル50余りの竪穴で、人が座って二人も入れば一杯という簡易なものが多かった。”電休日”というのは、電力不足から週に1回、輪番で工場を休みにする制度であった。徴用工といっても実態は知らないし、半島人という表現は今はない。

戦後74年、戦争の風化ととともに、戦時中僕らが日常普通に使用していた言葉が理解出来なくなったり、誤って使われるケースが多くなってきた。戦争についての個人史を長年にわたって出版している新風書房の福山琢磨さん(85)によると、「赤紙召集」を”招集”と書くミスが最近多くなってきた(産経新聞8月15日付コラム「産経抄」)という。

日本人ですらそうである。韓国人がかっては公娼であった慰安婦を称賛する記念日を設けたり、日本本土へ出稼ぎに出かけた労働者をすべて”徴用工”呼ばわりしているみたいだ。まず、日本国内から、戦中言葉を正しく理解すため辞典をつくったらどうだろうか、特に軍隊用語、例えば、捜索聯隊、給水部隊,輜重(しちょう)聯隊など、どれだけだけ正しく理解しているだろうか。


身勝手すぎる文在寅大統領

2019-08-16 05:15:51 | 2012・1・1

日本統治からの解放を記念する「光復節」の昨日、文在寅大統領は天安で開かれた政府主催の式典で”、昨年10月の”徴用工判決”以来悪化している日本との関係に触れ「今でも日本が対話と協力を望むめば、快く手を握る」と演説した。僕は民族衣装のチョゴリ姿で,笑みさえ浮かべた大統領の姿をテレビの画面でみて随分身勝手な男だと思った。

”徴用工判決に対してわが国は外交ルートを通じて解決を図ったが、僕がみる限り韓国はこれに応ぜず、かたくなに拒否している。それどころか2015年両国間で”最終的、不可逆的に”解決をみた”慰安婦合意”まで履行しようとしない。日本側が韓国に対してとった輸出管理規制は”報復”ではない。法に基づくものだが、韓国にとっては国の存在に関わる問題に違いない。

「光復節」の昨日、ソウルの光化門広場では1万人もの市民が反日プラカードを掲げて大集会を開いていた。14日には昨年から設けられたという「慰安婦被害者を讃える」式典が開かれ、大統領は出席しなかったが。「慰安婦問題を世界に拡散しよう」と呼びかけている。日本の対韓世論がどうなっているのか文大統領は御存じなのか。とても手をさしだれても、うっかり手は握れない。1965年の日韓基本条約と請求権協定を熟読してもらい、わかりましたという返事をまず頂きたい。

 

 

 

  

  


札幌のヒグマ 東京のあぶらセミ

2019-08-15 05:41:49 | 2012・1・1

8月に入って札幌南区の藤野、簾舞地区の住宅街にヒグマが出没、お盆休みを前に住民を驚かせていたが、昨日、猟友会のハンターによって射殺された。一件落着、市民もほっとあれていることだろう。札幌冬季五輪の前後10年、僕は札幌に在勤したことがあるが、ヒグマが出没した地域はそのころ開発された住宅街で、札幌市民のお座敷、定山渓温泉に近く、旧友の一人も家を買い、貧乏人の僕らを羨らやまがらせたものだ。

札幌五輪当時の札幌市の人口は100万人、今は150万人と急速に発展いているが、記憶に間違いなければ、当時市街地にヒグマが出たという話は覚えがない。人口の急増にもかかわらず、ヒグマが市街地でも目撃されるょうになったのは、かっては、ヒグマの棲み家だった山林も破壊されてきた証拠なのだろう

自然の破壊といえば僕が今住む東京では8月半ばというのに、あぶらセミの鳴き声が聞こえてこない。先日、地上に出たばかりの幼いセミの死骸が庭先にあったが、コンクリート.ジャングルの環境では生存できないし鳴き声もたてられない。。昔は札幌中心街の大通り公園でもあぶらせみの鳴き声を聞いた記憶があるが、今はどうなのだろか。

日本のスキー発祥の地新潟県上越市で、昨日、40℃を記録した。ここ数年の異常な暑さをはじめ地球が変革期に入ってきているのだろうか。戦前、東京でも味会えて、うるさいほどのセミしぐれが懐かしい


”ひどすぎたか ”渋野日向子選手の札幌”凱旋”テレビ中継

2019-08-14 04:37:48 | 2012・1・1

新聞休刊日でブログを書く材料探しに困っていたら、元参院議員議員、政治評論家の筆坂秀也氏のゴルフ評論があった。筆坂氏の名前は記憶にあるが、詳しくは知らず、改めて調べてみたら、共産党政策委員長だった方。週刊誌でセクハラがあったかどうか書かれ、今は党からも離れ、議員を離れている。その筆坂氏がネットの上で、先日、札幌の国際カントリクラブ島松コースで行われた「Meijiカップ2019」のテレビ中継が”ひどすぎた”と批判している。

このテレビ中継は、先日、全英オープンゴルフ2019年で日本人として42年ぶりに優勝を飾った”スマイル.シンデラ”こと、渋野日向子選手の国内”凱旋“第一戦として注目を浴びた。テレビ中継は主催の北海道新聞、北海道文化放送(UHB)の関係でフジテレビ系列のFNNが担当した。30年ほど前、札幌の民放に勤務したことがあり、島松コースで何度かプレイしたことがある。最近はあまりゴルフ番組を見ない僕もフジテレビにチャンネルを合わせた。

筆坂氏が”ひどすぎる”と文句を言っていたが、渋野選手のリアルタイムのプレイを期待していたファンはたしかにがっかりした。しかし、多少テレビ界に通じていれば、放送時間(午後4時10分から)からみて番組がVTR中心であることはわかっていた。フジテレビとしてもリアルタイムで放送できる午後3時台でオンエアしたいのだが、大スポンサーの競馬会の競馬中継があってできない。それを承知の上で番組をみたから、僕はそれほ腹はたたず、昔、大たたきした島松コースに郷愁を感じた。