「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

ちかごろ都で流行る”銭湯”温泉

2019-08-13 05:09:04 | 2012・1・1

「山の日」の振り替え休日、僕は猛暑の中、エアコンの効いた部屋で終日、高校野球のテレビ観戦でダラダラと過ごしたが、老妻は同じ屋根の下に住む娘夫妻に誘われて、家から車で10分ほどの隣の区の公衆浴場(銭湯)へ温泉つかりに出かけた。銭湯というと、南こうせつの歌った「神田川」の石鹸箱の音が聞こえてくるが、随分イメージも変わってきたものだ。

戦前、東京では家に内湯がある家が少なく、町内に必ず1軒,2軒銭湯があったものだ。明治17年生まれの亡父は”お湯や”と呼び、毎日のように通っていたが、戦後昭和43年の2687軒をピークに東京の銭湯の数は減り始め、現在は537軒と四分の一に減少したという。わが家でもこの半世紀出かけたことがなかった。ところが、ここ数年、その銭湯が見直されてきた。

老妻の話だと、浴場の壁絵の富士山のイメージではないらしい。温泉ホテル並みの施設で、お湯の色も深層水なのか黒色のところが多い。驚いたのは、東京都の協定で入浴料が一律大人460円だということだ。この10月、消費税率が10%にアップされるに伴い、5年ぶりに470円になるそうだが、交通費をかけずに温泉気分が味わえるのなら高くはない。

敗戦の日の8月、やはり、戦中戦後のあのもののない時代が想い出されるが、燃料不足から銭湯も開店時間が制限されていた。浴槽が人でいっぱいで、芋を洗ったような混雑ぶりであった。平和な良い時代である。

 


曽野綾子さんの“使命を果たした後の人生

2019-08-12 05:43:22 | 2012・1・1

作家の曽野綾子さん(87)が産経新聞のコラム「小さな親切大きなお世話」(8月11日付首都圏版1面)に“使命を果たした後の人生”という見出しで近況を書かれていた。同世代の方が日常、何を考え、老後を送られているのか関心があり、愛読させて貰っている。

曽野さんによると、曽野さんにはいつもささやかな使命がある。それは今日一日を安全に、清潔に暮らせる方途を考える責任で、なん十年もの間、いつも曽野さんの肩にかかっている。使命があることは疲れもあるが光栄を与えて貰っているという。曽野さんは2年前、夫君の三浦朱門氏に先立たれた後、疲れを感じられるようになったと書かれているが、原稿を書かれるほど元気である。

日本人女性の平均寿命は87.26歳である。しかし、介護なしに元気で暮らせる健康寿命は74.79歳である、新聞の広告に”87歳で介護なしの母”というコラーゲンの広告が載っていた。曽野さんは87歳だが、一日を曽野さんなりの使命感を持たれて生きておられる。

曽野さんの随筆と同じ新聞紙面に「全世代型」社会保障改革の記事が載っていた。超高齢化時代、人生百年時代の到来である。”100歳で介護なしの母”が10年先には配られてくるかもしれない。最近、曽野さんは大きな顔をして、暇さえあれば、目の前を行く時間を見ているそうだが、僕もその境地になりたいものだ。


進駐軍専用の海水浴場もあった逗子の海岸

2019-08-11 05:07:06 | 2012・1・1

今日も35℃を超す猛暑日になりそうだが、88歳老はただ,ひたすら熱中病にかからぬよう、水を飲みエアコンの効いた部屋に閉じこもり過去の追想にふけるばかりだ。敗戦の年、14歳の少年だった僕は、やはり、真夏のこの季節になると、家の近くの多摩川やシーズン中2,3回出かけた湘南の海を想い出す。とくに逗子の海岸が懐かしい。

戦後すぐの昭和22年、23年と僕は友人の家が経営していた逗子海岸の「海の家」に一泊した。国鉄(JR)の駅から昔ながらの細い道を通り、浜に出ると、「なぎさ」という名のモダンなホテルがあった。進駐軍の宿舎に占拠されていて、浜から海にむかって右側の浪子不動の砂浜はロープが張られ、進駐軍専用の海水浴場になっていた。

「なぎさ」ホテルは、後年、石原裕次郎主演の映画「太陽の季節」の舞台になったそうだが、当時はまだしなびた海水浴浴場で、赤フンドシで泳いでる者もチラホラいて、日本人だけが泳げた葉山寄りの浜は混雑していた。「太陽の季節」の前の時代、僕らは、ただただ泳ぎ、日光浴するだけだった。

主食の配給が進駐軍放出の小麦粉や缶詰めだった時代である。東京を走る電車にも進駐軍専用の車両が走っていた。僕らは東京から寿司詰め満員電車に乗って出かけ、母親がつくってくれた手製のパンを弁当に食べた。遠くで進駐軍の兵士がコカ.コーラを飲んでいる姿を珍しそうになあめていた時代であった。何がなくとも青春時代は最高であった。


原爆投下の記載がない亡父の日記 敗戦までの長かった8日間

2019-08-10 05:14:00 | 2012・1・1

亡父の日記を読み直してみたら昭和20年8月6日(広島)9日(長崎)の二つの原爆について記載がない。戦時下の日記帳で、スペースがないにしても、当時の日本人の原爆投下直後の認識の一端がわかる。長崎原爆投下の9日,父は午前10時半から帝国ホテルで催された外務省岡崎勝男調査局長(戦後外相)の時局講演会に参加している。当日の日記には”容易ならざる事態発生”とソ連の参戦に触れているが、広島原爆についての言及はない。長崎原爆は9日午前11時3分投下されており、おそらく、岡崎氏の講演の最中だった。

8日午前9時15分に広島へ投下された原爆の報は7日未明、トルーマン大統領によって原爆であることが公表されたが、日本では、7日付の新聞(朝日新聞)が前橋などの地方都市への空襲についての記事の後に小さく、たった4行、広島への新型爆弾投下を報じている。一般の日本人が新型爆弾が投下され、大惨事になっているのを知ったのは8日付新聞からであった。記憶が薄れてきたが、僕が新型爆弾ンが原爆だと知ったのは戦後になってからのような気がする。.

父は当時大東亜省関係の外郭団体に嘱託として勤務いていた関係で11日の日記には"昨日(10日)不快な話をきく”とポツダム宣言受諾(敗戦)と日記に書いてある。広島、長崎の二度にわたる原爆投下、ソ連の参戦、当時の日本人としては思いも至らなかった敗戦を御前会議で決断された。原爆投下から敗戦までの8日間、日本で一番長かった8日間であった。

 

 

 

 

 


立秋 "槿₍むくげ)の花が咲きました”

2019-08-09 05:04:15 | 2012・1・1

暦の上では立秋だが、東京は連続4日の猛暑日まだまだ暑い。しかし、わが家の庭の隅に植えてある槿の花が、心なしか盛りを過ぎてきた。槿は日本では7月から9月にかけて咲き、韓国では“無窮花”といい、国花であり国章にもなっているが、白色で花びらが赤い”日の丸”という種類もある。

槿をブログで紹介するにあたってネットで調べたら”槿の花が咲きました”という韓国で45万部も売った金辰明の小説があった。1994年には映画化され、テレビドラマにもなっているそうだ。大筋は。、南北共同軍が日本に核ミサイル5発を撃ち込み水前寺公園(熊本)を破壊、農産物を収奪したりして、降伏した日本の一部を植民地化するというものらしい。日本でも翻訳され出版されているらしいが、荒唐無稽な反日小説である。

国のトップの大統領が”盗人猛々しい”と叫び、「NO日本」のプラカードを掲げて反日デモをしている現地からのテレビを見ると、僕はヤレヤレとスイッチを切るが、”槿の花が咲きまいた”の小説に国民が胸躍らせているならば、ヤレヤレでは済まない。毎日のように日本海へミサイルを撃ち込まれていながら、他国大統領御墨付けだからと安心していて大丈夫なのか。

古い日本の華道の本によると、槿は「嫌花」であり「禁花」であるそうだ、単細胞の僕はとたんに槿の花がイヤになった。

 

 

 

 


僕の戦争体験が「孫たちへの証言」の本に掲載

2019-08-08 04:58:10 | 2012・1・1

個人の戦争体験を活字として後世に残そうと運動している大阪の新風書房の「孫たちへの証言」32集に応募したところ、74の入選作品の一つに選ばれた。僕の原稿は、敗戦直前の昭和20年6月から7月にかけて、中学3年生であった僕が、敵の本土上陸迫る、千葉県東葛飾郡梅郷村(流山市)の利根運河の江戸川河口で、浚渫工事に動員させられた時の体験だ。74年経った今でも当時14歳だった少年の過酷な体験は忘れられず応募した。

「孫たちへの証言」第1集が出版されたのは昭和63年だそうで、それから30年余その、新風書房が出版した個人の戦争記録は32集で2612にのぼる。戦争が年々風化しつつあるというのに大変な記録である。しかし、残念なことは、出版主で編集責任者である福山琢磨氏(85)がPR誌で書かれているが、高齢化が進み、直接戦争を体験した世代が少なくなり,他人からの伝承による作品が多くなってきたことだ。事実、最新の32集では「体験編」と「伝承編」と二つに分けて編集されている。

今や戦争を体験している世代の中心は戦争中都会から地方へ集団疎開した年代で80歳代である。そのあとの世代といえば、戦前生まれといっても、孫たちへ伝える戦争体験はない。福山氏はPR誌の中で、”(「孫たちへの証言」出版は)は、継続か終刊か迫られる選択”と書かれているが、確かに直接、戦争を伝える世代は減少してきた。しかしなんとか戦争が風化させてはならない。貴重な戦争記録として既刊の「孫たちえの証言」を例えば再編集して文庫本といて残したいものだ。

 


核拡散防止条約への参加 被爆記念物の保存

2019-08-07 05:09:14 | 2012・1・1
原爆投下から74年の昨日、爆心地に近い平和記念公園からの戦没者慰霊式.平和記念式をテレビ中継で見た。遺族代表ら5万人が参加、世界92か国とEU(欧州連合)の参加があったが、来賓の安倍晋三首相は、残念ながら今年も核拡散条約(NPT)への加入への言及はなかった。松井一実広島市長は世界恒久平和実現のため核兵器断絶を訴え、NPTへの参加を求めた。
 
NPTへの参加は世界の趨勢である、安倍総理は被爆国として核保有国と非保有国との間にたって核絶滅を図るといっているが、今一つ説得力に欠ける。事実、74年の記念日を知ってか,知らぬかわからないが、北朝鮮がまた日本海に向けて飛翔体ミサイルを発射した。この2週間に4度目である。これに対してNPT不参加の米国は是認しており、北朝鮮は一度加盟したが脱退している。
 
トランプ大統領も金正恩委員長も広島、長崎の被爆地を訪れたことがない。一度、被爆記念記念館を見学、展示物を見れば、核兵器の断絶に踏み切るはずだ。被爆者の平均年齢は82歳で、年々、直接の被爆者の数は減ってきている。しかし、被災の記念物は残っている。昨日、僕はテレビの番組で、被爆して亡くなったボロボロの少年の制服の名札に僕と同じ生年月日が読み取られ、改めて74年前を思い起こした。トランプも金正恩も、また安倍晋三も原爆後に生まれた世代だが、原爆許してはいけない。
 

目黒区広報に載っていないソウル中浪区との友好都市協定

2019-08-06 05:41:49 | 2012・1・1

目黒区の広報「めぐろの区報」(月3回発行)の最新号(8月日)が宅配された。先日,新聞で目黒区がソウルの中浪区と友好都市関係を結んだという報道があったので、詳しく知ろうと思ったが、全く触れていない。青木英二区長をはじめ議員8名も協定式典に参加していたが、何か区民に知られてはならない理由があるのだろうか。協定は区長らの”囲い者”存在なのだろうか。

区の広報といえば、その区の重要なお知らせや出来事を区民に知らせることと思っていたが「めぐろの区報」の一面記事は”甲虫フォト.コンテスト”のお知らせである。区内でとれた甲虫の写真展である。折から夏休みであり、催しが悪いとは言わないが、区長が区内を”てくてく”(広報コラム名)までして区民に知らせる大きな催しだろうか。

東京の一区とソウルの一区とが友好都市関係を結んでも普段ならニュースにならない。新聞がニュースに取り上げたのは、日韓関係が今のようにこじれている最中に、区長が議員8人を引き連れて"あえて”調印式に出かけたからだ。何故、この時期に調印式を行ったのか。”かんぐり”を含めて区民の関心が集まっている。それだけに、その理由で調印式を広報誌に載せないとすれば、区が中浪区を”囲い者゛視しているのではないかという疑惑は深まるばかりだ。


進駐軍の”お助け米”で生き延びた1946年の夏

2019-08-05 05:09:07 | 2012・1・1

亡父の日記によると、昭和21年(1946年)夏は"餓死”寸前、進駐軍司令部(GHQ)の”お助け米"でやっと生き延びえた日々であった。7月、8月の日記の補遺欄には”毎日、三度の食事に口にするのはGHQの”お助け米”だけ、内地のものは一粒”もない。”お助け米”がなければ、餓死したのではないかと慄(りつ)然とすると、同じようなことを書いてある。8月配給になったのは、ソーセージ1ポンド、アップルジュース,小麦粉4キロ、玉蜀黍粉3キロで、主食の米の配給はは一回もなかった。

当時、父は61歳だったが、若いころには18貫(67キロ)あった体重が12貫に減り、栄養不足から神経衰弱気味だと日記の隅々に書いている。僕は15歳の育ち盛り、栄養不足と関係あるかどうか不明だが、国立病院で鼻の手術をしている。一番大変だったのは、母であったと思う。三日に明けず、電車に乗って近郊の農家に野菜の買い出しに行き,時には箪笥の奥から自分の着物を持ち出し、いざという時の備蓄米を買っていた。

東京ではどこの家庭も粉食が中心で、ニクロム線を買ってきて即席のパン焼き器をつくり、重曹を入れて膨らましパンを作った。亡父の8月29日の日記には”終日、米、麦、小麦粉なく三食とも玉蜀黍粉が主食とある。都市ガスもなく、薪割りが日課だった当時から73年経っても昨日のように過酷な日々が想い出される。

 


関係者に謝罪を 「あいちトリエンターレ2019」からの慰安婦像撤去

2019-08-04 04:37:51 | 2012・1・1

名古屋市で開催中の国際芸術展「あいちトリエンターレ2019」に展示されてあった韓国の彫刻家の少女像が3日限りで撤去された。少女像は会場の”表現の不自由”というコーナーに「平和像」の名で展示されていたが、誰がみても韓国各地にある慰安婦を象徴したあの像である。展覧会を視察した河村たかし市長の指摘を受けて、展覧会実行委員会会長のの大村秀章愛知県知事が像の撤去を決断した。僕からみれば当然である。

少女像は、各地の展覧会などで展示を拒否されたとしているが、日本人なら同じような像が、ソウルの日本大使館前をはじめ、韓国各地にあり、中国、台湾、アメリカにもあって反日の拠点であるのを知っている。”表現の不自由”どころではない。主催者はこれを知らないわけはない。意識的な企画といわれても仕方がない。

大村知事(展覧会実行委員長会長)は慰安婦像撤去に当たり、外部から”携帯ガソリン”を持ちこむぞといった脅しの電話があって危険だといっていたが、芸術展開催に当たり慰安婦像を展示しても問題はないという認識だったのであろうか。実行委の芸術監督氏は”想定外の出来事であったとノホホンのことを言っている。慰安婦問題について、どれだけ真実を知っているのだろうか。さらに驚いたことは、知事の撤去命令に抗議声明を出していることだ。こんな連中に公費使わせてはいけない。河村市長が"やめて済む問題ではない”と実行委に謝罪を要求しているが、その通りだ。