~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
フーバー大統領回想録(その11)未定稿
近衛文麿は、昭和20年12月16日未明に自決したときの「遺書」に、「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。
これに対して深く責任を感じておるが、いはゆる戦争犯罪人として米国の法廷に置いて裁判を受けることは堪へ難いことである。
殊に僕は支那事変に責任をかんずればこそ、此事件解決を最大の使命とした。
そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にある徒の結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。
その米国から今犯罪人として使命を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。
僕は米国に於てさへそこに多少の知己が在することを確信する。
戦争に伴ふ興奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基づく流言飛語と是等輿論なるものも、
いつか冷静さを取り戻し、正常に伏するときも来やう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されやう。」と書いた。
Tenth.
The tenth loss of statesmanship was the refusal to accept the proposals which his Ambassador informed him came from the Emperor of Japan for a three months' stand still agreement in November, 1941.
Our military officials strongly urged it on Roosevelt. Japan was then alarmed that Russia might defeat her ally, Hitler.
Ninety days' delay would have taken all the starch out of Japan and kept war out of the Pacific.
As the Stimson diary disclosed, Roosevelt and his officials were searching for a method to stimulate an overt act from Japanese.
Then Hull issued his foolish ultimatum and were defeated at Pearl Harbor.
The train of losses and this Japanese victory in the Japanese occupation of all South Asia were incalculable.
Further, with loss of sea control , Hitler and Togo were able to destroy our shipping in sight of our own shores.
最後のTogoは、文脈からして、Tojoのミスプリと思われるが、回想録の内容としては極めて重要な内容である。
(つづく)
フーバー大統領回想録(その12)未定稿
フーバーの回想録は、昭和16年の11月に, 天皇陛下が3ヶ月間のスタンドスティル、すなわち冷却期間をおこうとの提案を、
駐日の米国大使を通じてされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否したと書いている。
米国の軍事担当も、冷却期間の提案を受け入れるべきであるとルーズベルト大統領に促している。
当時、日本はロシアが、同盟関係にあったヒトラーを打倒する可能性を警戒していたのである。
九十日の冷却期間があって、(戦端開始の)遅れがあれば、日本から全ての糊の部分を取り去ることになって、太平洋で戦争する必要を無くしたに違いない。
スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。
だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして真珠湾で負けたのだ。
損害がどんどん発生して、南アジアでの日本の占領で日本が勝利することは、計算できなかったのだ。
更には、制海権を失って、ヒトラーと東条が、米国の海岸が見えるところで、アメリカの船舶を破壊することができるようになったのである。
(つづく)
フーバー大統領回想録(その13)未定稿
フーバー回想録の原本の879ページに掲載されている。
昭和16年の11月の土壇場で、三ヶ月の冷却期間の提案が日本から行われたとの記述がある。
上記の翻訳は筆者の訳であるので、万一間違いもある可能性があるが、例えば、taken all the starch out of Japan のスターチとは何かよくわからない。
慣用句であろう。英語と翻訳の専門家のご意見を頂戴したい。
徳富蘇峰は、昭和17年3月8日東京日日新聞に「日本が七重の膝を八重に折って、
提携を迫るも、昨年(昭和十六年)8月近衛首相が直接協商の為に洋上にて出会せんことを促しても、まじめに返事さへ呉れない程であった。
而して米国、英国・蒋介石・蘭印など、いわゆるABCDの包囲陣を作って蜘蛛が網を張って蝶を絞殺するが如き態度を執った。
而して、彼等の頑迷不霊の結果、遂に我をして已むに已まれずして立つに至らしめたのだ。」と書いているが、
ようやく、フーバー大統領の回想録が、70年の時間が経って、徳富蘇峰のその言論がアメリカ側からも裏付けられたと感じる次第である。
(つづく)
★ 私のブログに稲村先生の許可を得て「プレミアムメールマガジン」から『フーバー大統領の回想録』を転載しているので、まだご覧になっていらっしゃらない方は下記のリンクをクリックなさってください。
稲村先生の「フーバー大統領回想録」
http://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/e/91d88b218e1d01dc966d2d138179dd35(その1・2)
http://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/e/bff71e65cc5dc652747190e6d304ac2a(その3)
http://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/e/1f7dcbd75e3e208e857b3ba6a30dba9c(その4・5・6・7)
http://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/e/0e10bb174289bbdeaedf9687203f1c44(その8・9・10)