★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

会話よりスマホが大事

2021年02月11日 15時48分31秒 | 徒然(つれづれ)
 喫茶店に若者が3人、4人とテーブルを挟んで座っている。
 それぞれがスマホを操作している。
 会話はほとんどない。

 そんな光景を見て年寄りは言う。
「最近の若者は異様だ。面と向かっているのに、話もせずにスマホに夢中になっている。現状や将来の悩みについて語るべきことはないのか」

 ちょっと待て。
 年寄りのあんたも学生時代、喫茶店や友達の下宿にたむろして、会話もせずに漫画本や週刊誌を読み耽っていたではないか。
 漫画や週刊誌はよくて、スマホはダメなのか。

 そうではないだろう。
 会話がなくとも、以心伝心、お互いに考えていることはほとんど理解の上だろう。

 もしかすると、今になってあの頃の自分たちの間違いを正しているつもりなのか。
 現在の悩み、将来の展望や不安について、あの時語り合うべきだったと後悔しているのか。


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尊敬する恩師

2021年02月11日 15時06分46秒 | 徒然(つれづれ)
 有名人のインタビューやテレビでのご対面で、恩師といわれる人が登場するのを見かける。
 学生時代の先生や、社会に出てからの上司や先輩などだ。

 有名人じゃなくても、学校の先生を恩師と慕う一般人も多い。
 その先生や上司、先輩に出会ったおかげで今の自分がある、みたいな話を聞く。
 それはひとつの転機かもしれないが、自身の成功は、その人の指導や助言による影響も少しはあるだろうが、最終的には自分の実力や運だ。

 その転機を喜び、指導や助言に感謝するのはいい。
 しかし、恩師と位置付けたり、尊敬の対象とするには、その器はそこまで大きくないような気がする。
 好きだ、素敵だ、羨ましいという評価がせいぜいだ。

 恩師や尊敬の対象は、完全無欠でなければならない。
 自分が決して到達できない境地を極めた人でなければいけない。
 私は過去を振り返って、そこまでの恩師と呼べる人はいないし、尊敬する人もいない。

 両親が小学校の教師で、その昔、田舎では、医者や坊さんと同じくらいのステイタスがあった。
 そんなわけで、小学生の頃には、先生の息子というだけで、何かと得したこともある。
 家での両親は失敗もするし、間が抜けているところもあったので、ただの親としての認識しかなく、それと同じ教師に対しても、恩師と呼べるほどの尊敬の念はなかった。

 社会に出てからも、自分を過大評価するわけではないが、自分をはるかに凌駕するような上司や先輩に出会ったことがない。
 それらの人々は何かが秀でていても、何かが抜けている。

 何かで負けてもほかの何かでは勝てる。
 そんな思いが私にはある。
 だぶん、私の対人関係の浅さや薄さ、ドラスティックなものの考え方が影響しているのだろう。
 

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我は海の子

2021年02月11日 14時13分17秒 | 徒然(つれづれ)
 父方の祖父が漁師だった。
 そんなわけで子供の頃の家は海のすぐそばだった。
 歩いて1分で、夏休みに泳ぐときは、家から海パン一丁で出かけたものだ。

 小さな波止場があり、防波堤の外側が砂浜で、僕たちはそこで晴れた日は毎日泳いでいた。
 昔のアルバムの白黒写真には海を背景にしたものが多い。

 晴れた日の穏やかな海も、曇った日の暗い海も、台風の日の風雲急を告げるような海も知っている。
 打ち寄せる波の音や潮の香り、干した魚や海藻の匂い、そんな海の匂いは今でもすぐにわかる。
 我は海の子、という歌はまさに僕たちの歌だと思っていた。

 防波堤の内側には漁船が何隻も停泊していた。
 夏以外は、近所の悪ガキ連中と、その漁船から漁船へと源義経よろしく八艘飛びをして遊んだものだ。
 たまに下手な奴は海へ落ちて泣いていた。

 魚釣りはしたことがない。
 祖父の漁船に乗って網にかかった魚群を見ていたら、一匹ずつ釣るのが馬鹿らしく思えたからだ。

 小学4年の時に海から離れた場所へ引っ越したので、それ以来、文字通り海から遠ざかってしまった。
 たまに自転車で遠出をして海に行ったが、その海はすでに記憶の中の懐かしい海とは姿を変えていた。

 そんな海も私が高校生の時に埋め立てが進み、工場が誘致され、漁師たちは幾ばくかのかの補償金を得て、漁師を辞めていった。
 


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忘れ物の思い出

2021年02月11日 11時15分46秒 | 徒然(つれづれ)
 朝のウォーキング時に、何かを忘れていることに気づく。
 それはスマホであったり、小銭であったり、ハンカチであったりする。
 出かける前に持ち物チェックをしたはずなのに、時々何かが抜けている。

 忘れ物で記憶に残っているのが、筆記用具だ。
 それも大学受験の時に忘れてしまった。

 京都のD大学の地方試験は、福岡のとある高校で開催された。
 私の実家からはバスと電車で2時間弱の距離だ。
 試験前夜、数本の鉛筆を削り、消しゴムや定規とともにペンケースに納め、それをセカンドバッグに入れた。

 準備万端だ。

 何事もなく1時間ほど前に試験会場に到着し、試験開始の20分ほど前に席に着いた。
 試験の説明を受けながら、ハタと異変に気づいた。

 バッグが違う。

 試験用に用意していたセカンドバッグではなく、いつもの癖でペタンコの学生カバンを持って来ていたのだ。
 当然、筆記用具は入っていない。
 1冊のノートと平凡パンチが入っているだけだ。

 焦りに焦った。

 この動揺は、きっと悪い結果の予兆だ、と悲観的になった。
 大勢の受験生の静まり返った緊張の中、手を挙げて試験官に筆記用具を貸してほしいと頼む勇気はなかった。

 しかし天は私を見捨てなかった。
 学生服の胸ポケットにシャープペンシルを差していたのを思い出したのだ。
 取り出したシャープペンシルがなんと神々しく見えたことか。

 そのシャープペンシルで試験を乗り切り、晴れてD大学に合格したのは言うまでもない。
 

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