Chun日記~両足脛骨欠損症の娘をもった父親の育児&子育て奮闘日記

「Chunの部屋」もよろしく。メアドもそちらにありますよ。http://aka.gmobb.jp/chuns_room/

場面緘黙症

2012-07-02 00:00:00 | インポート
場面緘黙症




場面緘黙症という症状がある。
極度の内弁慶というと、なんてことはなさそうなんだけど、やはり本人も御家族も大変な思いをされていて。
あまり本人や家族以外に理解されにくい症状。
家族や身内にも理解されにくい症状。

かんもくの会 
かんもくネット
絵本「なっちゃんの声」


様々な取り組みがなされているみたいだけれど、不覚にもあまり知らなかった。
でも、かんもくネット で、当事者の子供から両親への語り掛けを読んで、涙がでた。
なんだか本当に。


いろんな苦しみがある。
私はもしかしたら、知らないうちに場面緘黙症の子供達や御家族を傷つけたことがなかっただろうか。
なんだか、すごく苦しくなった。


せめて、いまからでも。
理解しようと、向き合おうと思った。
絵本、買ってみようかな。


やはり。
知らないことは怖いこと。
無知は恐ろしい。


人生にはいろんな気づきがあるけれど。
前向きに、いまからできることをしていかなくちゃ。

間に合わないことなんてない。
いまからでも、できること あるかな。
考えさせられた文章でした。






参考URL

http://kanmoku.org/support.html


「かんもくネット」より転載
「おとうさん おかあさんへ」

公立小学校教諭 井上賞子さん作成



@@@@@@@@@@@@@@@@@@


お父さん、お母さんへ

いつも私のことで心配させて、ごめんなさい。
いっぱい大事にしてくれて、ありがとう。 お父さん、お母さんに言えなかった事、わかって欲しかったこと、本当はたくさんあります。
~一番わかってほしいこと~
私は,学校で「話さない」のではなくて「話せない」ということ。
「どうして?」と聞かれても、私にもわからない。 「嫌だから」ではなくて、楽しくてもうれしくても「話せない」の。
いつか大人になったら、今の私の気持ちのパズルが解けるのかな? わからないけれど、今は学校にいるときは、迷路の中にいるような気持ち。 楽しくてにっこり、かなしくてしょんぼり、 そんなふうに、ちゃんとつながっていなきゃいけないはずの暗号がこんがらがって、 かなしいのに微笑んでいたり、楽しいのに顔が上げられなかったり、 私はとてもちぐはぐな状態。
「ちゃんとしなきゃ」っていつも思ってるよ。 「本当はもっとできることがあるのに!わかっているのに!」って思ってるよ。 なのにできないんだ・・・。 「恥ずかしいって黙ってるけど、その方が目立って恥ずかしいことなのよ」 お母さんに何度も言われたね。
「家で話せるんだから、それはわがままだ」 お父さんに繰り返し言われた言葉も、頭の中をぐるぐるまわる。 わかってる。わかってる。でもうまくやれないんだ。
教室の中で、息を潜めている私。
苦しいのは、「話せない場面」だけじゃない。
「次、当たるかもしれない」 「もしかしたらここで失敗するかもしれない」 「誰かが私のへまを見ているかもしれない」
いつもそんな思いが頭の中を駆け巡る。 みんなにとっては、いつもの授業。おだやかな風景。 でもその中で私は、くしゃみやせきすらも飲み込んで、身を潜めることだけに集中する。 それがどんなに苦しい時間か、想像してみて欲しい。 「気にしすぎだ」ってお母さんは言うけれど、 「気にしなきゃいいのに」とお父さんは笑うけれど、それができない。 そう言われるたびに、 「そんなことも出来ない私」はどうしようもなく「だめな私」なんだと、 たまらなく悲しくなってしまう。

家では、元気でおしゃべりな私。
けらけら笑ってかけまわっている私。
学校では、うつむいている私。
顔も体もこわばって、動けない私。 自分でも不思議だけれど、登校途中で誰かと入れ替わったわけではなくて、 どちらも同じ私。 どの姿も私なの。
お父さん、お母さん、 もし、私に口がなかったら、学校で話せない私を責めたりしないよね。 私に口があるからいけないのかな。 もし、私が家でも話せなかったら、学校で話せないことを「当たり前だ」と思ってくれるよね。 私が家で話せるからいけないのかな。 先生にわかってもらえなくても、友達にわかってもらえなくても、 お父さん、お母さんにはわかって欲しい。
話せなくて苦しいということ
このことを信じてもらいたい。 それだけでも、私はずいぶんほっとして日々をくらしていけると思う。
~こうしてもらうと、うれしい~
○ いっぱい聞いて欲しい。
学校で感じたこと思ったこと考えたこと。 だまっていても私の心や気持ちはいつも動いているから、 学校ではたくさんの発見と出会ってるの。 帰り道の頭の中には、その日あったこと、考えたこと思ったことがはちきれそうで、 玄関から家へかけこんだら「ねぇねぇ、今日ね・・・」と止まらなくなってしまう。 話しているときの私の頭の中には、ゆかいな友達の会話や、 先生の優しい笑顔がいっぱいに詰まってる。 「よっちゃんがこんなこといって、みんなすっごくびっくりしたんだよ」 「先生がこんなこと話してたよ」 思い返しながら、私はその風景の中の一人になっている。 みんなと一緒に笑ったり、騒いだり、駆け回ったり、 「なりたい私」の姿がそこにはある。 でも、「で、あなたは返事したの?」「ちゃんと一緒にできたの?」 と問いただされたり、話し続ける私にあきれるように 「家ではこんなに話すのになんで学校で話さないの?」と言われてしまうと、 さっきまであんなににぎやかだった頭の中からみんなが消えてしまい、 ぽつんと一人でうつむいている私しかいなくなる。
確かに、それが現実。
よっちゃんが話しているときも、先生が笑っているときも、 私は下を向いてだまっていた。

楽しかったのもにぎやかだったのも、私のものではない。 遠いところで私とは関係なく起こっている幻想なのだと、思い知らされてしまう。
そんなことが続くと、だんだん家でも話せなくなる。 「学校どうだった?」と聞かれても、うつむいている自分しか浮かばなくて、 「なりたい私」の見えない風景に、「べつに」としか言えなくなるの。
「へぇ、おもしろかったのねぇ」 「それで、どうなったの?」 「明日も教えてね」 と身を乗り出して聞いてもらえたら、「なりたい私」をなくさずにすむと思う。 お母さんと、いかによっちゃんがゆかいでみんなを楽しませる人気者であるかを語り合えたら、 お父さんが納得するほど、いかに私の先生がすてきであるかを話せたら、 「なりたい私」は遠くの幻ではなくて、いつも私の中にいると思えるかもしれない。
「お母さんに話したい!」というわくわくした気持ちと 「お父さんに話すのって楽しい」という嬉しさがいっぱいたまったら、 もしかしたらいつか、お父さんやお母さんでない誰かにも、 「ねえねえ・・」と話したくてたまらなくなるんじゃないかな。
だから、「学校で話せない私の話」としてではなく、 「学校で楽しく過ごしている私の話」として聞いて欲しい。 だって、お父さんやお母さんといるときには、話せる私なのだから。 家は、こわがりの私が安心していられる場所なんだから。
○ 笑顔でいてくれると嬉しい。 私はお父さんもお母さんもダイスキだから、 二人が笑顔でいてくれると体の氷がとけちゃうように ふにゃふにゃで幸せな気持ちになる。 逆に、ダイスキな二人がけんかを始めてしまうと、 悲しくてたまらなくなる。
それも、原因は私。。。
ごめんなさい。ごめんなさい。
私がこんななのは、私のせいなの。 お母さんのせいでもお父さんのせいでもないから、けんかしないで。
おじいちゃん、おばあちゃん、 私のことでお父さんとお母さんを責めないで。 私のせいで、私のダイスキな大事な人が傷つけられるのはつらいの。 お父さんのせいでもお母さんのせいでもないの。 ワタシノセイだから・・・


私が学校で話しさえすればいいんだ。 私ががんばらないから、みんな悲しそうなんだ。
私さえ、私さえ・・・・
そう繰り返せば繰り返すほど、
がんばろうとすればするほど、
反対に体と気持ちがこわばっていく。 「たったこれだけのこと」がどんどん重くなるの。 自分だけでなく、自分の大切な人たちまでつらい思いをさせてしまっている。 私は、私が大嫌い。
嫌いで嫌いで、どんどん顔があげられなくなっていく。
私みたいな子どもでなければ、 お父さんとお母さんは笑顔でいられたのかな。 おじいちゃん、おばあちゃんとけんかすることもなかったのかな。 私がいなくなれば、みんなが幸せになれるような気持ちになってしまう。 たぶん、きっと、みんなの心配は、 私の幸せを願ってくれるからこそ起こるのだと思う。 (そう思えるようになって、私は少し楽になったの。)
もしもその私の予想が間違っていないのだとしたら、 「この子はこれからどうなってしまうんだろう」 「このままでは、将来大変なことになるのではないか」 「私のせいかも」
と悲しまれたり心配されるより、
今の私を見て
「今は話せなくても、たくさん感じているんだ」 「学校では見つけてもらえないかもしれないけれど、私はこの子のよさを知っている」 「わかってくれる人にも、きっと出会える」 と信じて、今を一緒に笑顔で穏やかに過ごしてくれたら、 どんなにいいだろうと思う。
遠い、遠い未来を真っ黒にイメージしておびえて過ごすのではなく、 今の小さな一歩一歩を見つめて、一緒に喜んでほしい。 「話せない私」がお父さんお母さんの子どもであるということを、 「幸せだよ」と微笑んで欲しい。
大好きなみんなと一緒にいられる この家で笑顔で過ごせることが、 なにより臆病な私の自信と勇気になるのだから。

○ 「好きだよ」「大切だよ」と、声に出して言ってもらえるとうれしい。 「親が子どもを思うのは当たり前だ」と言われても、不安になるの。 私の大好きなお父さんとお母さんは、私のことが嫌いなんじゃないかって・・・。 私なんていなければいいと思っているんじゃないかって・・・。 お母さんが悲しそうな顔をしてるのも、 お父さんが参観日に来てくれないのも、 おじいちゃんおばあちゃんがお母さん達の悪口を言うのも、 みんな私のせいだよね。 私が、誰とでもどこでも元気いっぱい話せる子だったら、 授業中もいっぱい手を上げてみんなにたくさんほめてもらえる子だったら、 私の大事な人たちは、みんな嫌な思いをせずにすんだのかな。
だから、私は嫌われていて当たり前なんだと思ってしまう。 こんな私のことなんて、 みんなはきっと恥ずかしいと思っているんだろうと確信してしまう。
だから、誰かに言って欲しいの。 「話せない私でもいいよ」って。 「話せない私のままでも好きだよ」って。
誰よりもお母さんに、誰よりもお父さんにそう言ってもらえたら、 私はどんなに幸せな気持ちになれるだろう。
おねがいをいっぱいしました。 「やっぱりわがままな子なんだ」と思わないでね。 学校での緊張と不安、話せない自分への嫌悪感を 私はいつも、考えています。感じています。 私が私のことを嫌いでなくなるために、 家にいるときの、元気で安心した私が、 どんどん広がっていけるように、 一番安心できるお母さんとお父さんの腕の中で、 今、パワーをためています。
「話せない」私も、あなたの子どもです。 「話せない」私ではいけませんか?

公立小学校教諭 井上賞子 作成
かんもくネット http://kanmoku.org/ 2008 年 5 月公開


コメント (2)
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