Chun日記~両足脛骨欠損症の娘をもった父親の育児&子育て奮闘日記

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配役が決まりすぎた人生

2015-01-26 00:04:18 | 障害者の父親になって学んだこと
「配役が決まりすぎた人生」

ひとめでわかる特徴を持った人は、世の中にが勝手に生きる意味を押し付けられて苦しむことがある。
為末さんの言葉(を私なりにまとめたもの)である。

なるほど
これだったのだ。
私が漠然と恐れ、娘とともに立ち向かわなければと考えていたこと。
言葉になるとわかりやすい。

娘は両足大腿義足。
しかも素晴らしく高活動で、かつ女の子。
なんというか、ものすごくわかりやすくて、何にもしなくても「すごいね。」とか「頑張ってるね」とか。
感動してくれてしまう人までいる。

だからなんだか為末大さんの言っていることがよくわかるのだ。
「まぁいいか」と思えばまだいいが、抵抗しても無駄な感じがある。結構きつい。

私が娘がメディア露出するのをためらう理由は、まさにこれである。
有名になればなるほど、「周りが求める役割」の力が強くなる。

今はまだ、娘はそんな力に左右されるべき時期ではない。自分自身でいろんなことをして、自分がやりたいことを失敗してもいいからやってみるべき時期だ。
周りの期待など、優先しすぎずに好きなことをやるべきだ。

そして娘が成長していく過程で、「「周りが求めがちなイメージ」の力が自分にプラスになる。」と思えたら、娘自身から出ていけばいい。そう思う。

有名になること。
想像以上にプレッシャーがかかるし、期待される役割と自分の気持ちのギャップが出来てくるのは、当たり前だと思う。
まだ、選択肢があるうちから、備えなしに望んでもいないのに、その道を行かなくてもいい。
自らが選んで進むべきだと思うのだ。

人により、幸せの感じ方は違う。
目立たなくても、有名にならなくても、幸せにはなれる。
それも含めて自分で選び、進めるように。
私達ができることをしていかなければ。

回り道でも、まどろっこしくても。
ひとから「もったいない」と言われても。
考えなければね。私達が。


<参考抜粋>為末大さんの tumblrより

--- 前略---

少し前に障害者は人を感動させないといけないのかという動画があがっていた。私たちは普通に生きているだけで世の中が勝手に私たちに意味を押し付けてくるという動画だったから共感したのだけれど、一方でその押し付けは無くせないだろうなあとも思った。

一目で特徴を持った人、誰から見てもわかりやすいバックグラウンドを持った人は多かれ少なかれこんな経験をしている。僕も現役時代陸上選手という役割を与えられるのを嫌がって抵抗していたけれど、一通り抵抗し切ったら、結局外から見てそうなんだし、そもそも確かにそうでしかないのだからと思って抵抗をやめた。

はっきりとした配役が決まっていない人生の方が多いからこの悩みはどの程度共有されるかわからない。普通の人生では配役でも代わりがいたり、自分だけに用意された役柄がなくて人は悩む。それからすれば贅沢な悩みだろう。ただ配役が決まりすぎて、自分の意向が無視されてそれを押し付けられることに抵抗を感じる人も確かに一定数いる。抵抗し続ける人もいるだろうし、僕みたいにどうせ全部幻なんだからと割り切る人もいる。役割と一体化している人もいる。最後の人が一番幸せだと思う。
---後略---

コメント
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