多摩川上流域は山が迫り、帯のような細い市街地が山間に蛇行している。
多摩川は流域は短く、しかも源流域から河口域までの標高差は大で、時として激流となる。
だから太古からの多摩川の流れは、山肌を削りつつ岸を洗い、扇状の多摩段丘平野を形づくってきた、、、
気の遠くなるような時間の中で、大自然の息吹が今も人知れず続けられているのだ。
ここ2、3日の間に随分と春らしくなった。山間の桜が見たくなって、奥多摩の地続きにある、あきる野市と檜原村の境付近に行って来た。今日は一人だけの単独行ドライブだが、カメラがついている。
午後からの半端な時間だが、新青梅街道を旧市街地方面でなくバイパスの千ヶ瀬5丁目信号を左折して、日の出、秋川方面に向かう。
この道は多摩丘陵を横断する山間コースで、ひっそりと静かなのが良い。日の出町に入ると中曽根さんが町に寄贈した『日の出山荘』への標識が立っていた。ロン、ヤス囲炉裏談義のあった山荘だ。何時か折りがあったら行ってみよう。
桜の季節になると豊満な色彩を眼中に満たしながら、持参する手料理を頬張るだけで春は過ぎ去っていた。毎年のこと、、、何時かキャンバスに桜を描きたいと思う時間だけは無限にあった。カメラを持参したのは「豊満な色彩」をデジタル保存して、今年こそという思いがあるからなのである。
五日市街道を西進し、五日市駅舎の前を過ぎて戸倉に至る。この辺りは戦国時代の大石定久が支配した戸倉城山があり、その麓に「光厳寺」という古刹がある。偏額の「光厳寺」の揮毫は北朝四代、後光厳天皇によるものとの説明があった。鐘楼の屋根には『丸に二つ引き』の家紋があるのを見ると、開基は足利氏と思われる。
大石定久という戦国大名だが、この戸倉城に来るまでは八王子の滝山城に住していた。北条氏照を滝山城に迎え入れることで、自らは戸倉に隠退した経緯がある。
光厳寺本堂と境内の桜
桜樹の多いところである。山のあちこちに山桜のくすんだ葉色が、前方のソメイヨシノの鮮やかなピンクの合間に見える。銘木と言われる老櫻は寺の境内の外れにあったが、太いでこぼこの幹から伸びた枝々には無数の蕾をつけたまま、まだ眠ったように無言だった。
光厳寺本堂の背後は山がかぶさり、境内からの眺めは前方左右を見渡す高台からなのだが、眼下は急峻なというくらい切り立った高台から見ると、秋川の源流を挟んで小高い峰が横一列に連ねている。程よい距離空間が感じられる。
光厳寺はもともと城主の隠居館だったそうだから、切り立った山裾や空掘りなどの防御的な遺構も残存している。
ここにはこれといった桜は咲いていなかったけれど、近くの戸倉小学校の校庭には見事な桜が満開だった。
戸倉小学校の桜
「桜を愛でる」というタイトルが浮いてしまうくらい、戸倉での収穫は少なかったけれど、「春の野は何処もかすみ桜花・・・」
誰かの詩句のような感じもするけど、車中から満喫したことで良しとしよう。