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ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
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白川古事考 巻ノ六前編 廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-16 14:44:06 | 歴史

白川古事考 巻の六前篇 その1

  白川城蒲生氏封内以後領土
一、白川辺りに伝わる古記に、天正十八年太閤秀吉公は小田原を退治して直ちに奥州へ下向された。七月十四日白河へ入り、長沼(岩瀬郡)に止宿した。この時松坂少将蒲生氏郷も供を承り、八月に至って伊達政宗押領の会津(羽州米沢より興して会津蘆名を退治する)の城を召上げられ、木村伊勢守に受け取らせる。同十七日氏郷を内書院へ召し出して当城(会津)を預かる間、領地の事は代々会津へ付した所の、一ヵ所も相違があってはならない。越後國小川庄(蒲原郡の内にあり今も会津領に属している)に仙道五郡、会津六郡(六郡は誤り、四郡である)都合十二郡、石高四十二万石である。その時白川城をも氏郷へ付けられ関右兵衛尉を置かれる。赤館以南棚倉は佐竹領である。

 按=落穂集に「秀吉は八月十五日白川の城へ帰られ、今宵は名月でもあるから当城中において月見の宴を催すこと、大名諸氏も登城すべしと触れられ、その日の薄暮に至り各出仕の刻がきて氏郷も登城した。その日の晩方に奥州の内で葛西大崎三十万石を木村伊勢守に賜わり、蒲生氏郷は会津黒川四十二万石を賜わって城主となる。其れまでは伊勢の松坂十二万石の領地であった。
氏郷が書院の柱に寄りかかって月を詠んでいた処へ、日頃から気を許した山崎右京進が側に寄り『今日は大身に取り立てられ、会津拝領の手柄なり』と云えば、氏郷はすかさず『大身には成ったものの最早この氏郷は廃れた。奥州の田舎者になるのだから』と返答したので、山崎始め一座の面々は氏郷の大器の程を思い知った」と載せている落穂集の説は疑わしい。会津四家合考には「八月十日午の刻会津着。三日逗留して帰路は高原越えを過ぎたまう」とあり、会津南の山より直ちに下野国へ出たようだ。海道高原山の難所「太閤おろし」と云って、昔太閤が難所ゆえに駕篭から降りられたと云う土人の説は正説であろう。氏郷が会津を賜わったのは白川城においては有り得ない。

一、武家の秘録に、葛西大崎一揆が起こり木村伊勢守父子が難儀している旨を、浅野弾正少弼長吉(天正十九年頃長政と改める)が白川において承り、浅野六右衛門正勝と云う者を伊達政宗に差し向けて「早速、一揆を退治すべき」旨を申し述べた。また氏郷にもその旨を申し遣わした。


一、天正十九年九月南部九戸に一揆起こり、これを氏郷が平らげた功に因って、田村四本松、伊達信夫、刈田柴田、それに出羽国長井の庄を賜わって氏郷の所領は百万石となった。その時の白河城代はやはり関右兵衛で、城付は四万八千石であった。(蒲生軍記にも此の事見えている)

一、武家の秘記に、奥州九戸陣の時、太閤の陣触れに「二本松を通り、白川より城々へ人数が入る際は通すべき事』と云う箇条が見えているので、その手当は有ったものと思う。

一、関右兵衛は代々伊勢國関の城主であった。上方で成長したこともあり、風土に慣れない嘆きを抱いて上方に上り、その跡を氏郷の家臣である町野長門守に付領させた。上黒川村庄屋の古記に、「この長門守は吉高と名乗った人である。文禄四年二月七日卒」とあり。

一、上黒川庄屋古記に、天正十九年出羽奥州検地始まり、浅野弾正少弼長政、石田治部少輔三成下向する。白河は青木但馬と云う者が検地する。それ以前は一反と云う地を三百六十坪としていたが、田地とも一反を三百坪とした。
 按=会津塔寺長帳続年日記に、文禄三年会津領田畝の検地改めが不同にして、百姓に甲乙ありと訴え出たことによって、氏郷がその趣を変えて今年の検地で縄を引き直す。四月六日より始まる白川郡は石川伯耆とあり、太閤は天下を検地して縄をつめ、高を増し強大を示す術として検地を興したもので、会津ばかりの為に検地したのではない。日記の説は非とされるものだ。

一、蒲生軍記、氏郷の上方へ登られる時の道の記に「天つ正しき二十年、前関白オホイマウチキミ入唐するにあたり、日の本の武士残らず御供出来るように備えていた。陸奥からも出立の途次に、白川の関を越える思いで、
 陸奥も都も同じ名所の白川の関、今其処へ行くと詠んでゆく程に、下野の国に至った。大変清らかな川の上に柳が有るのを見て、あれは如何なものかと尋ねると、此れは遊行上人に道しるべをした柳よと云われ、其れを聞いて新古今に『道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ』を思い出して、今もまた流れは同じ柳かげ行きまよいなば道しるべせよ・・・按=那須記に、遊行柳は相模国淨光寺十九代遊行上人、文明元巳牛が白川へ通られるとき、この柳の辺りに道二筋あり、老翁が出て来て旧道を導いてくれたのでご褒美にお札を差し上げると、有り難い、誠は我は柳の灵(れい=火)なり、と云って柳の陰に消え失せた。此の事を詠んだものと思う。そのことの有無を知らないが、この道二筋とあるのは東の方は旗宿村古関の道、西の方は今の大道白坂の二筋ではないだろうか。

一、その後氏郷死後は飛騨守秀行朝臣となるが、蒲原四郎兵衛を憎んで太閤の命に背いた事により、減地されて野州宇都宮へ移された。その跡は上杉中納言景勝卿に賜わる。北越軍談には慶長三年三月の事なりと云う。

一、慶長五年景勝卿が石田治部少弼に興せられた時の事を「東国太平記」には『会津より白川まで十四里、其の道二筋の間、南山口は殊に切り所である。会津より四里余(里数不審、恐らく十四里ではないか)であるけれども、人馬を出すにも羽太鶴生の難所があって宜しくない。此れ故に朴坂(ほおさか)を切り塞ぎ、根子鷹助へ路を付けて黒川郡より白坂の西へ出る(黒川郡、字を誤る。黒川郡は奥州の間までも奥にあり会津より隔絶している。今の若松を黒川と云っているので、若松城下を差して黒川郡と云っているのではないか)この道へは本庄越前守繁長が千の勢いを以て働くよう鼓舞した。

 今一筋の道は背炙りの山(今の会津若松の東に当たる山)、勢至堂、長沼(共に岩瀬郡にあり)、井伊出(今、飯土用と云う白川郡にあり)を過ぎて白川に至るこの道は人数を出すにも宜しい。背炙りを登り這坂という切り所の十町ばかりあり、峠に登ると峠の絶頂からは会津領が目の下にある。西北は(東西であろう)出羽国湯殿山、羽黒山、秋田、酒田の海面に出、西南は越後本庄、出雲﨑の山々が見え渡る(今、その山に登っても外に高山があって本文に云うようには見えない)則ち背炙りの峠に土矢倉を立て、大筒野煙を篭めている。

 また只今までの白川海道簑沢口は(簑沢村は下野那須郡である)左靱(うつぼ)右靱と云う大節所があって、関東の大軍が一度に攻め入ることは出来ない。兎に角関東の御父子(訳者註=家康と秀忠)を思いのままに、白川表皮篭が原(城南一里余)へ引付けないと十分な勝ち目を得る事が出来ない。左靱右靱の山を切り崩して簑沢海道の往還を塞ぎ、其れより西二里ばかり堺の明神白坂の道を作り、関東の御勢を白川表皮篭原へ引き入れる為、近辺の在々里々を焼き払い山林竹林を切り取って道を作り、地をならして三里四方一面を畳のように手配して待ちかけていた。白川城の西南へ引き回した谷田川と云う深沼があり、その長さ二里余り、その東南に皮篭原がある。

 其れより西方一里ばかりに西原という野あり、直江山城が下知して中畠の浪人(石川郡中畠村に中畠上野介と云う結城の親族あり、その臣の流浪したものか)蕪木と云う者が酒桶を二千程取り集めて、平地と同じように西原の野に並べ埋めさせ、黒川郡(此れも字の誤り)より逢隈川をその上に切り流してみると、水流は野の上へ流れつつ大河へ望むかのようだ。皮篭原の東に関山という松山あり、白河城下まで連なっているが此れに中条越前守、長尾権四郎、山本寺庄蔵、大崎筑前守、長井丹後守、田原左衛門、色部長門守、黒川右衛門、斉藤下野守、千坂対馬、飯森摂津、小田切治部、長尾兵衛尉、村上国清、烏山因幡守、竹俣三河守、吉江中務、諏訪次郎右衛門、平賀志摩、守沼掃部等を陣取らせ白川の城を丈夫に拵え、安田上総、双順易、島津左京進、入道月下齊を大将として人数四万が此れに属する。

 一番合戦は安田上総介、二番合戦は島津月下齊と定め、先に本庄越前守繁長其の子弥次郎この時改名して出羽守と号したが、この父子屈強の兵八千が南山口より朴坂へかかり、根子鷹助を過ぎ白坂の西に至り、父繁長は四千余で此の山に伏し其の子出羽守は四千で野州芦野辺へ打って出、嗣君(秀忠であろう)御着陣なされたなら態として一合戦して颯と引き取る。御勢は勝に乗って追い来たり、白坂を過ぎて押し込んで参ったならば皮篭原で待ち受けて、一番合戦を安田上総介、二番合戦は月下齊が引き受けるとした。これ又譜代二万の兵に地侍四万となれば寄せ手が大勢であってもそうは容易に打ち負けない。景勝は兼ねて、背炙りを越して勢至堂を後ろにし、長沼に待ち受けてそれより古田川布馬瀬に移る。(これも地の理において周辺を云い、大概を云ったのではないか)皮篭原の合戦半ばに関山の陰を回り、小井堀老野髪(下野国那須郡)を過ぎて嗣君御陣の後ろに回り、景勝旗本を以て切り掛かる。

 その時関山より中条、千坂、山本寺、松木等横合いを入れつつ安田、島津が揉み合いをする。然る時は景勝旗本が推し掛かり、前には安田島津が切り掛かり関山より千坂、斉藤、中条、竹俣等横槍を入れれば、寄せ手の大軍は是非もなく白川城の西南に向かって谷田川の深沼へ追い込まれる。この沼は二里余りで深いこと底なし、若し御人数で駆け入るときは人も馬も助かるもの一人もなし。谷田の沼を遁れ西へ落ちる敵は又西原の野川に逃げ掛かるであろう。本庄越前守繁長は四千を具して南山より鑓を入れるや西原へ追いかけよ。寄せ手は川と心得て人馬渡り掛かれば、埋めて置いた酒桶へ駆け込んで悉く滅ぶであろう。

 その時佐竹の先勢渋井内膳は五千ばかりで、御大将御父子の間を取り切るであろう。(北越軍記に、景勝加勢として奥鐘城が来るのを待っていると見える。鐘城が何地と云うこと詳にせず)御所は御先の嗣君が御合戦始められると聞き召され、急に鬼怒川(下野塩谷郡と河内郡の間に流れる)を渡り推し参られる。その左右と聞けば直江山城手勢一万、牢人二万ばかりで、会津山ノ内より出て高原塩原へ掛かり、那須ヶ嶽の麓、高林加野(今、加野とは頼朝卿の那須ノ狩り場の跡と云い伝える)は田地(那須郡大田原の西に有り)、佐久山大田原の間へ打って出る。佐竹勢は梅津半右衛門、戸村豊後が一万の兵で富田道場宿より石井を渡り姥ヶ井筋へ押通り、此れも佐久山大田原の間に推し出して合図の烽火を上げ、直江山城と東西より御所の旗本を立ち挟み、真ん中に取り囲み打ち取る。

 此の間一里半の所は野山森林や深田が多い。御所の御人数は案内を知らずに沼沢へ馳せ入り、ここで彼の谷崖へ墜とせば過半は此所において討たれる。その時御所は江戸の方へ志して退き行かれるだろうが、烏山千本口や鬼怒川の難があり、その上、直江、梅津、戸村の勢が跡を取り切って攻め立てれば是非もなく終わってしまう。

 御所勢は那須嶽の方へ退くであろうから、その時佐竹義宣は棚倉を打って出、強梨(今の地名)伊王野へかかり、芦野口へ推し出して渋井内膳と手を合わせ、直江戸村と立ち挟んで御所の真ん中に取り込み打ち取るであろう。
御所さえ討ち奉れば天下は図るに足りずと景勝と直江が内談して、何とか御所御父子を思いのまま白河表へ引き入れたいとの評定の外はなかった。景勝は自身ただ一騎と歩士二、三人を連れて密かに会津を出、背炙り山へ登り這坂の峠に馬を立たせて、山川の形勢を考えてから勢至堂へ下る。それから長沼へ懸かり井伊に出て古田川、布馬瀬、関山小井堀、老野髪へ出、騎兵を回すべき道筋を見積もり、それから白坂、堺明神までの間、樵(きこり)夫を案内として山中の道を通り、人も知らない山路を過ぎて堺の明神迄乗り廻す。それより鷹助根子、朴坂へ廻り南山口を経て又会津へ帰られた。

その1終わり

白川古事考 巻の六前編 その2

一、北越軍記にも前条の事を載せ、少異同はあるものの大概同じである。その内の一事の記をみると、前条のように手立てを整えたが、奥州棚倉領前の地頭赤館源七郎と云う牢人のその父伊賀守は、御所様から当分の召しに応じて伏見に篭っていたが、使者を下して「御所へ忠節を申し上げよ」との申し越しに因って、父の命を受けた源七郎は三千騎ばかりで奥州を忍び出てお迎えに登ったところ、御先手の皆川山城守廣照(下野国皆川の城主)が陣所である宇治江(氏家のこと)岩屋の地蔵堂に来られたので、(陣屋の跡今にあり)御所に申し上げるべき旨があって来た、と申し述べると皆川は人を添えて小山の御陣へ遣わしてくれた。

 赤館は小山に参られて本多弥八郎正純を介し、白川城の義御導(導きがあった)もあったので、赤館は辺りの人を除けられて一間に呼び入れられ、密かに子細を申し上げることは「上杉勢譜代三万に奥州牢人四、五万も馳せ着いて御所御父子を白川表へ引きつけ、四方から引き包んで討ち取ろうと巧みに謀っています。詳しくは存じませんが大抵の見分けはついています。景勝始め家中残らず白川を基所と定め、討死を覚悟で各神水を呑み、経帷子(きょうかたびら)を着て血脈をかけ死を掛けて待っています。(御所御父子が)白川表へ御着陣為されば、十に九つは御敗軍か若しくはご人数の大方は残り少なく討たれるでしょう。率爾に(軽率に)取りかからないように乙度(危難を越えて)為されますよう申し上げた。この旨が密かに御所の御耳に達して御了聞なされ、御譜代の諸大名を召されて密かに江戸へ戻られた。


萬世家譜に、「関ヶ原前景勝押(領)での白川城案内見に『那須の者度々遣わされたが、一人も帰って来ないので伊賀の者三人を白川へ遣わされ、案内を見届けて帰って云うには、那須の者共は白川大手口に、磔に上がっているのを見届けたと言う。

一、那須記に、其の頃芦野五郎左衛門は那須修理大夫資晴の小舅であるから、那須中の大方が彼の云うままに従おうと思っていたところに、景勝が一通の書状を贈った。その文は

   
此れに因って五郎左衛門は那須衆へ勧めたものの、還って那須から打たれるとして会津へ走った。今の芦野家とは別である。

一、御所様は小山より江戸迄お引き帰り遊ばされ、八月七日の日付にて伊達政宗へ下向為され、御書に曰く

    
一、元和八年開山地主秋場雅楽、穂積重右衛門より領主へ書き出したものに、「慶長五年庚子上杉景勝会津居城の時、中条越前長尾権四郎、又白川の城代五百川修理が下知として、河東田大膳、中牧将監を武頭に地の侍、新馬を上げ、その上鉄砲百挺と隣郷の百姓を関山の麓、中野、内松、番沢、夏梨、十文字辺りに小屋を掛け、人数千余七月始めより九月中旬まで居た」とある。


一、その後関ヶ原にて西軍敗走し、景勝は米沢へ移された。其の跡へ東照宮の御婿である蒲生飛騨守秀行が再び六十万石を賜わり会津を領して、白川は町野左近吉氏が城付き高三万九千九百二十二石六斗五升で合(合致)なりと云う。
蒲生軍記に二万八千三百石とあり。この時白川の町割直しが有ったようで、中町高田屋に正保年中の書き付けあり、「秀行卒去其の子下野守忠郷(奉識従四位上)の代に城代町野氏が死し、平野目氏の支配となったが寛永四年正月四日忠郷二十五才で卒去する。実子なく弟松平中務少輔忠知が二十四万石に減地されて予州松山へ移される。其の跡会津は加藤左馬助嘉明へ四十万石下されて入部となり、この時より白川は会津領を離れて別に丹羽五郎左衛門尉長重へ下される。棚倉城より移る雄藩雑話という丹羽家の事を記した書に、藤堂高虎より長重へ内意に話があり、
『加藤左馬助には十万石から四十万石になされて会津へ移され、貴様は十万石になされて白川へ遣わされた義は、松平下野守六十万石の跡を両人へ仰せつけられ、奥州の押さえに成される為であるから、左馬助と別れて御入魂に成されるべき』と云われ、長重は奥州の押さえである勤めとして急いで築城もいたされた。(慶長年中、町野の時の城図を見ると、今とは異なり丹羽の増築により大堅固を加えている)普請が済んだ頃、左馬助が白川を通行なさった折り、長重も同道して場内を回る際に左馬助が申すことは、貴様には御武功の事に当たられる間、縄張りの内不足の所があれば、他所とは違うのだから遠慮なく所存を申し聞かせ賜われとのこと。左馬助の挨拶に、何ぞという節は御一同の事であるから少しも遠慮すべきに非ずと云い、何れも縄張りの残るところが無く感じ入ったと賞される。

 長重のたっての所望について、小口の所で少し申し述べられた所もあり。(この普請は寛永六年より九年までかかり成就した。大塚村の庄屋など肝煎りによって人足を指揮し、堀水に浸って日々精を出した後には、腰がひび割れて血流れたとその技に言い伝える)奥羽の諸大名の通行の節は、場内に立ち寄って物語などされた中に、伊達政宗とは相口とあって度々立ち寄られ、式事や酒宴の上で申されるには、「左馬助と貴様とで奥羽の押城を担うと云うが、我ら数万の勢で押し通せばチと難儀されるだろうな」と云いば、長重は挨拶を返して『如何に少勢であっても貴様の旗本を突き崩しさえすれば、ノソノソとは御通り難しかろう』と云ったので互いに大笑いしたそうである。ある書には政宗が白川の城下を通る時に、片倉小十郎に向かい、この城も朝食う前(朝飯前)に有ると云えば片倉は、いや、城中に江口三郎兵衛が居る間は昼前はかかるでしょうと言われた。江口は小松陣にも武功を顕わした丹羽家の勇臣である。また最上駿河守は尺八が上手で、白川泊まりで朝立ちというのに尺八の音が流れるのを聞いた長重は、駿河の尺八は自慢だから早々に吹いているな、と言われた。

按=雄藩雑話に斯く有るけれども、元和三年三月六日に駿河守家親が卒する。源五郎義俊元和八年御改易なれば本文を疑う。若しかして別人の誤りかも知れない。
長重朝臣の詠んだ和歌として 

 千とせまでながれはつきし白川の波とや見えし堀のさざ波
と詠まれることもあったと云う。寛永十四年三月四日卒去、今の圓妙寺の後山に葬る。その時は曹洞宗巨法山大麟寺と云い、五輪の石塔がある。
            傑俊淨英大居士
  前  万里一條鐵  寛永十四丁丑
            三月初四日逝

            前三品藤原朝臣
  後         丹羽家譜長重公

一、長重の嫡子従四位下侍従左京大夫光重晩年致仕号玉峯性瑤、當武枝葉集に寛永十一年十二月二十八日叙従五位下任左京大夫十四年継家督、同十九年十二月晦日叙従四位下となる。丹羽と会津の加藤とで境目の事について不平が多く、加藤家御改易となる。此れに付いて丹羽家が城受け取りの事命じられたが、兼ねての意趣を挟み過分の取り計らいも有って、寛永二十年当城を改めて二本松へ封を移される。

一、松平式部大輔忠次寛永二十年入部、六年を経て慶安二年八月姫路へ移られる。榊原出羽守忠政の実子初の子であったが、大須賀五郎左衛門康勝の養子とした後、榊原家に嗣子が無くて困った。因って実家に帰る。一代松平の称号を名乗ると云えども井伊、本多、酒井、榊原は御当代の名姓であるとして、又榊原の氏に戻った。
寛文五年三月二十九日卒する。此の人は和歌を好んだたようで、白川年貢町庄屋大竹孫三郎の書き留めにも、初入部の時の歌として
 今も吹き音はかわらし秋風にむかしを思ふしら川の関
また鎮守鹿島明神へ詣でて
 にこりなき神の心を是そこのあふくま川の流れなるへし
林道春より前書きなどととのえて
 むさし野ゝ月も流れを導きてあふくま川のすみわたるらん
忠次朝臣返し
 むさし野を照らすあまりやみちのくの逢隈川の月は澄むらん
岩瀬郡須賀川北岩瀬の森という封内にて
 敷島ややまとことはの外にさえいえはいはせの森をこそみれ
連歌師昌佐が忠次の見回りとして白川へ下向して
 都出し春や関路の神無月
それを聞いた忠次はその跡を
 花かとまかふもみち散りかけ
と付けられる。また昌佐が江戸へ赴ける餞別に
 治れる君か代なれは白川の関にも留めぬわかれとをしれ
昌佐が返しに
 幾たひか君にあひ見んしら川の関もとゝめぬゆきゝ成りけり
また昌佐が此所の外に見るところは松島かなと云えば
 松島やおしまもおなしみちのくに又もきて見ん白川のせき
昌佐が返す
 陸奥の松しまならは又もきてあふくま川は絶しとそ思ふ
これ等を詠ませるのを見ると風流であったようである。

一、鵞峯文集に
  源吏部大郷君去林新徒食邑白川城
  今春在城行令之暇詠難日高歌二首見寄焉乃撮
  其尾字為唐詩韻奉呈焉
  累世先鋒来鉄鍼東奥要衝誰唐突春風吹越白川
  関幾見使君興馬越
  恩賜白河新就封東風寄語報歓悰春来雖隅関山
  雪舊約不渝花下逢

一、忠次の封を移した跡へ本多能登守忠義が慶安二年八月入部。美濃守忠政の第三子従五位下延宝四年九月二十六日卒。當武詩葉集に常照院と号する。寛文二年十二月二十九日隠居剃髪而号鉄齊号九景寺男子五人女子六人あり、至って強気の人で手荒いことが多かった。沢田九郎兵衛と云う家老の計らいで領地に竿入れ、高三万七千石を打ち出して男子へ配分した。今、白川の地の畠までも縄が詰まり民間難儀する。この時より家中の騒ぎあり。

一、武家堪忍記に、本多能登守藤原忠義奥州白河に居する。本知十三万五千石新地を開き運上課役掛け物あり、都合十七万余の土地上げとなる。年貢所納は六つ或いは七つ、八つ並び、七つ半は家中へ、四つは在江戸の年百石につき四人扶持、それに雑用銀少し渡す。國に獣魚鳥柴薪が多く、忠義文武を知らずに利欲が有って、サンカンを能く考えせこを入れ、民をむさぼり侫曲にして行跡不義である。家人を召し使うこと無理非道にして、或いは改易式に殺害する事数を知らず。故に侍を疎(うと)むところ甚だしい。暇乞いし家を捨てて去ること繁多である。国家の仕置きが悪いこと言うに及ばず民は困窮する。

一、藩輪譜には能登守藤原忠義は美濃守忠政の二男也(十三才にして父に従い大坂の軍に向かうとも云う)寛永四年播磨の國にて初めて所領を給わる(四万石)同八年加恩の事あり(一万石)。寛永十六年十二月遠江國掛川の城を賜わる(七万石)。正保元年正月十一日越後國村上の城に移る(十万石)。慶安三年六月九日陸奥国白川の城に移る(十二万石その後開発の田一万五千石を加え領する)卒年は七十五才である。
 真田古伊豆守信之の牢人松崎太郎左衛門と云う武勇剛強の士あり、則ち此れを召し抱えられたが子供三人居り、
嫡子松崎六之允には大小姓に召し仕えられ、女子二人のうち一人は奥州五十四郡にその名を知られた鑓の達人竹村治左衛門の妻で、もう一人は河崎甚五左衛門と云う者の妻となる。

 能登守殿家来知行取りで勤めていた処に、此の度の不慮の騒動が有って能登守殿侍に余り多く、計る子細は彼の六之允が常々能州在国の節は、鷹野の供に離れず召し連れられて勢子を申しつけられていたが、或る時また能州鷹野に出るという時に、六之允が如何したものか供支度が遅れ、待ち兼ねた能登守は外の者に申しつけて、終にその日は傍輩の指摘を受ける羽目になった。

 此れに依り六之允は己の遅引を尤もとせず、主君能州を恨み自余の面目一生の恥はここに極まる、と心得て家に立ち返り父太郎左衛門に此の事を述べると、聞いた太郎左衛門は左様なことは親に伺うまでもなく早々に暇を願えと申し伝えれば、六之允は尤もだと思い右の旨を頻りに願い出たが、能登守は此れを聞かず仰せになるのは、たとえ脇の者が申しても其の方は暇を取るべき者ではないと、色々精を込めた後に御息長門守殿弾正少弼殿など御相談して兎に角留まらせようとしたが、承服しないので能州は立腹して六之允の大小を取り上げて押さえ込み、番人として大西輿左衛門、大谷作九衛門、雨森弥之助同じく牛右衛門兄弟、関仁右衛門その外山田某等が交替しながら守っていた。

 数日が過ぎて番人の隙を伺っていた六之允は、番人がこっくりと居眠りしているのを見て、これ幸いと密かに番人の側に寄って彼の刀を奪い取り、直ちに引き抜きざまに一人を切り伏せた。残る番人が立ち騒ぐところを更に切り殺し、その外二、三人に深手を負わせて父の処へ逃げ帰った。
 家へ帰ると父と一所になって篭り、討手の来るのを待ち受けながら、道場小路(今の小峰寺で昔この小路は東城門の際にあった。侍屋敷となった今でも小路の名前が残る)に住む婿の竹村治左衛門と内々に相談すると、隣家と云うこともあり夫婦共に駆け込んで来て、舅と一所になって控えていた。

 治左衛門は此の度の発端の節から色々と教訓を得て、その異なる状に及び諫めにかかったが、太郎左衛門は承服しないので治左衛門は是非もなく此の度の存じ切りとなった。一方同じ婿の川崎仁五左衛門も、この期に及んで此の典(人の道を記した書物)を働かさなければ、末代までの名を汚すとして一筋に存じ切りした(六之允が切られた)。

 舅と相計り、我が屋敷は会津町で(丹羽長重棚倉五万石から白川十万石となった時、会津の蒲生家減地されるにつき浪人多い。丹羽は百軒の家を作って百人の会津士を抱えたので会津町と名付けた)太郎左衛門の処より四、五町余も離れているということで、夫婦共に篭って合図を待っていた。その所へ伝え聞いた家中の面々が駆けつけて来て、軽率に押し入ることも出来ず門外で控えていた中にも、勇ある侍が我れ先にと駆け入り切り結ぶ者、また入るなり切られる者もあり、此所に奥平甚五左衛門と云う者が、その日の昇る一番乗りしたところを、彼の竹村の鑓玉に上がって死んでしまった。大谷作左衛門という者は六之允の番人であったが、此の事が起こってから早速駈けて来て、間に入ろうとしているところを塀越しに鑓付けられて死ぬ。(これを本多内記政勝が聞いて、左衛門の為には治左衛門は摩利支天であると言った)

 早川勘平と云う者(白石に領)は進んで内に入ったところを、治左衛門の妻に切られ深手を負って働くことも出来なくなった。平癒した後は女に切られた不届きとして暇を出された。坂崎治部左衛門という者は宿へ帰り、そのまま出て来なかったのでこれも暇を出された。長谷団右衛門と云う者は城より宿へ帰るに際し、太郎左衛門の門前で傍輩に別れて意趣はないものをと言って、そのまま通り過ぎた。池田孫四郎と云う侍は松崎竹村などと隣り合わせで、後れを取ったと人の口に掛かり、その節暇を願い申し出たが、能登守殿が云うには、一度後れを取った者でも重ねて武功あるものと、そのまま差し置かれたのは尤もなことである。古屋次郎左衛門も右に同じく同断である。斯くて此の度の夥しい騒動とあって、上を下へと返している内に死人手負いは多かった。けれども松崎竹村の両人は討たれなかったが、続けて切り入りする者がないので最早此れまでと心得て、夫婦子供も一緒になって家に火を掛け、それぞれが猛火と共に自害して果てた。

 勿論、彼の川崎夫婦の者共も少なく人に渡り合い、互いに手疵を被ったが、兼々合図の火事であるから吾も家に火を掛け、心のままに自害して終にはむなしい結末となった。此所において不憫な事があり、竹村治左衛門の嫡子で竹村出兵衛と号し生年十四五歳になっていたが、その節は近所へ遊びに行っていて此の由を聞きつけ、我が家に帰るところを道で捕らえられ、大小を請け取られた上押し込み置かれ、その後土橋へ磔に懸けられた。

 実に不思議な出来事で、能登守殿も良き侍を多く殺された。元来能州は武道の励みを第一としたので、家中倍者(陪臣)にも口上「行跡能登守流」とする一派もあった。(この屋は道場門外南側角の屋敷だという)
列封界傳に、忠義が所領の内二万石を嫡子忠平の家督の時に与え、忠平の弟長門守忠利と其の弟越中守忠次にもそれぞれ賜わる。忠利には石川に一万石、忠次には浅川に一万石の領とした。忠義は今の八幡小路、谷田川の崖に別荘を構えて『九景地』と名付け、國隠居して住んでいられた。石川郡矢吹村にも屋敷があった。其の家譜に墳墓始めは白川にあったが、後に大和郡山の玉龍寺に改葬すると見える。今白川において葬地を訪ねても何ら認める地はない。

 巻の六 前編終り

 

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白川古事考 巻ノ五 後編 廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-16 14:22:15 | 歴史

 巻ノ五 追加記載


白川古事考 巻ノ五 その3

 会津四家合考に一年盛氏は佐竹義重と南郷にて対陣する。互いに合戦に掛かる頃合いで佐瀬源兵衛が斥候に出る。
敵陣と味方との間に小さな山があり、会津勢はその山の彼方へ打ち越して合戦すべき場であるが、思いの外に敵陣は遠いので引き退いて備えようとした。しかし此れは彼の小山の陰に伏兵を忍ばせ、此方の勢に深入りさせてから頃合いを見て、後を遮り刈りとる謀らいと思って子細に様子を見れば、案の如く一塊り三百ほどが茂みの陰に隠れていた。

 源兵衛はそれを見て引き返し、味方の陣に堅く下知して静かに控えていた。佐竹の陣には太田三楽齊が居て成り行きを計っていたが、源兵衛の見透かしによって其の図に落ちない。佐竹勢は今か今かと待ち兼ねて徒に機を費やし、余りにも時が過ぎたので三楽齊が斥候(せっこう=前線の敵の様子を視察する)に出てみると、会津勢の陣張りが此方の思いを見透かして動く様子もない。三楽の深い計らいも徒労となって、小高い辻堂の縁に上がり無念とばかり足を踏み鳴らした。

 敵を深々と引き入れて思惑通りに勝ち軍になるはずだったが、痴れ者の源兵衛に見透かされた悔しさは何としようも無い。源兵衛とは多年にわたる無二の知友であることから、思い直して源兵衛に使いを出し、此の軍の事を含め物語などしたいと使者を送ると、源兵衛も心得て鎧を脱いだ姿になり、歩者三十人を伴って早々と三楽の方へ馳せつけて行った。三楽齊ともども互いに近寄って越方近況の事など語らい、時が過ぎて互いに引き別れた。

 源兵衛が味方の陣に帰ると、この様を見ていた親しい者共が、無事ご帰着お目出たいと云いつつも、歩者に具を付けたとは云え、素肌で行かれるのは余りに軽々しい、騎馬の二、三十騎も召し連れて行かれるべきだと云えば、イヤそうでは無い、我は三楽とは多年に渡る無二の知音であればこそ、今の此の戦場で対談したいと云うときに鎧を着けては、万一三楽の方に便よく寄って討たれることもあるかも知れないが、討たれない程に近寄った処であれば、万が一の場でも差し違えて三楽ともども源兵衛死して損はない。若し帰り際に討たれそうになったなら、彼の一物に一鞭当てる程は誰かしら見て居ることだ。

 楽齊坊が事々しく鎧武者二十人ばかりを居並ばせ、我が身も隙間無く鎧での対面は今更恥ずかしいことです、と会釈する。彼の推量のように「三楽も今日は鎧ながら源兵衛に対面して、一生の恥をかいた。我が形勢を有りの儘に彼の盛氏に語られる事こそ、恥ずかしいことと深く悔やんでいたそうである。

一、棚倉に伝えられる冊子に、佐竹義宣の謀りによって赤館の鹿子三河守(白川旗下)を降参させた。此の事を蘆名盛氏が聞いて大いに怒り、南郷を水攻めにしようと玉の堰を掘切った。今、根小屋と云う。義宣は赤館に羽田摂津守、松野上総介(那須郡茂武郷に世々松野氏あり、後に佐竹へ属)、流館に常陸十二郡の先達の今宮浄蓮院を差し置き、塙の羽黒館には河野丹波守、石川近江守(石川大和守昭光の一族)、田崎相模守、(佐竹親族、今秋田にあり)、大塚越前守、天野上総守、柴田越後守、家老矢吹左源太、大塚大膳は狐館(中石井村)に、江田八左衛門油館(伊香村)に、鈴木大蔵は石館(石ヶ作北関岡村)に、秋山七郎は関岡館に、」中村大学は保木山館(高野館とも云う)に、東中務大輔は東館に東美濃守を差し置き、千戸館には(今富岡村にあり)富岡若狭守を差し置く。その外の館には諸士を差し置いた。この時の境は久慈川を境にして西は馬乗川、東は大草川を界とする。

一、仙道表鑑に天正二年の秋、佐竹常陸介義重は石川大和守昭光と約を取り交わし、四千余騎を率いて仙道表を掌握しようとした。義重は棚倉へ出馬して南郷寺山、羽黒の城に人数を篭らせて置き、近々仙道へ出馬した節は白川、須賀川、田村等の城々を攻め落とし、その威力に乗って会津も手に入れようと夏から支度をしていたが、会津に聞こえて蘆名修理大夫盛氏、嫡子判官盛興は、先手を打たれる前に此方から仕掛けようと、白河大蔵少輔義親(義親が大蔵少輔に任じたこと他の書には見えず)、田村安芸守隆顕嫡子大膳大夫清顕父子が一味して、都合一万三千余騎の勢で高野郡へ発向した。

 二階堂遠江守盛義(岩瀬郡須賀川城主弾正少弼照行の子)も浜尾筑後守と須田美濃守に千余騎を指し添えて加勢する。佐竹勢が会津の旗先を見ると均しく太鼓を打ちながら攻め掛かかってくる。武州岩築城主太田美濃守資正、入道三楽齊道誉は其の頃佐竹に属していたが、六百余人を引き連れて一陣に追い進めれば、佐竹中務少輔義久を始めとして緒貫大蔵少輔、河合甲斐守、大縄式部少輔、茂武左馬助(那須記には那須郡茂武に茂武上総介守綱と云う人佐竹に属するとあり、その族ではないか)、同じく但馬守、平井薩摩守が二千余騎で道誉より後に押続き、会津勢に打って掛かる。

 蘆名方には佐瀬源兵衛本名左衛門佐、沼澤出雲守、鵜浦甲斐守、中野目式部大輔等が先頭に進んで、雌雄を決するべく挑んで戦ったが、互いに勝負は見えなかった。蘆名盛興と田村清顕父子は馬廻りの勢ばかりで、寺山の敵を押さえて居られたが、雑兵を少し出して敵地の作毛を薙ぎ捨て、引き取るところへ佐竹方石川、千石、板橋、沢尻、下河辺の一類等が(按=皆石川の親類。千石村は今白川郡となる。板橋、沢尻、川辺は皆石川掃部助と云う人の領であったこともあり、川辺に雲鳥の城と云う城跡あり。後ろは高山に連なり、前は平田広野に臨んで甚だ地理を得ている。石川郡泉の石川の親族である)二千ばかりで二手になり、ひたひたと付け従って食い留めれば、盛興と隆顕は一同に引き返しながら相戦った。隆顕は旗下共に崩れかかった兵を下知し、自ら敵に総当たりした。七転八倒して戦ったが、石川方が突き崩されて羽黒の城主石川近江守と云う者が討たれた。その外屈強の首級が五十三、雑兵五百余人が討たれたので、石川千石等悉く敗北して引き返した。

 盛興は父の許へ、生け捕り十一人有る事、首五十三級を相添えると共に、田村父子の働き次第を委細に云い送れば、盛氏は喜んで佐瀬大和守を使者として隆顕の元へ遣わし、今日のお手柄は感心少なからずと謝礼を述べたが、隆顕には以前から病に悩むところが有り、二三日の間に陣中から田村の地へ引き退いて医薬養生を尽くされたが、叶わずに天正二年九月六日卒去した。
 按=この合戦について盛氏より鵜浦入道と云う、会津の留守する人へ贈る書簡を、四家合考に載せる。




一、会津四家合考に、或る時盛氏と佐竹義重とが南郷において対陣する。佐瀬源兵衛が物見に出たところ、その地は敵に場が良く味方に悪所であることから、今日の合戦は引き延ばすべきとして、本名杢丞を使いとして盛氏へ申し上げると、それならば汝がその旨を諸手へ触れよとの下知があり、段々と触れ行くところに江湖衆と云って諸牢人共の寄り合い同志の一隊で備え、武士修行の為の江湖僧如き一隊の中にも、大将の触れを伝えて引き取らせようとする処を、敵に食い留められて物分かれしかねない故に、杢丞も取って返し共に敵を追い払うのを旗本より見れば、本名は法を破って軍(いくさ)するとは悪しき奴かな、と怒られる。盛氏は勝ちの軍法に密な大将であるならば、彼は法の如くに言い付けよと源兵衛へ下知したゆえに、源兵衛は人手に懸かる事もないと自ら馳せて行き、兎にも角にも成し遂げた。その後は事を分明に申し分けしたので帰参させよと許される。

   依上
一、和名抄にある白川郡の郷名に依上(よりがみ)あり、今は常陸国久慈郡の内に入って保内と云い、四十余か忖ある。中古には依上の保と云って保名を以て呼んだ故に、今の保内と呼ばれる所以であり、寄神とも書く。保内を常陸の境界に収めたのは、恐らく永正の頃の白川結城の領地を岩城氏が攻め取り、また保内の都会である大子の城主、芳賀氏をも降参させて(常陸国誌に載せている)その後佐竹氏の所有となった時から、常陸の領となったものであろう。

 今はこの保内の西にある下野の国へ出て、常陸の小里の郷に出る所に堺明神の古い祠がある。古の国界に明神の祠を建てる由縁は如何なる理由によるものか詳らかでない。だが、我が奥州の界のみに有る明神祠であり、常陸国には有るべき理由がないので、依上が白川郡であった遺証とも云える。
白川七郎の蔵に

   

 上の如く白河結城へ賜わったものである。佐竹は元々足利方であって、結城より攻め取って佐竹の物となり、後に庶流依上三郎宗義が領して、応永二十三年鎌倉において上杉禅秀の謀叛の時に、持氏に敵対して宗義の父佐竹(初めは山入氏と称した)上総介興義入道の嫡子、刑部大輔祐義舎弟尾張守玄義等が禅秀に一味した。禅秀亡き後に降参する。また幾程もなく応永二十九年十月三日、上総介入道家督について持氏の不審を蒙り、比企谷の上杉淡路守憲直によって討たれる。佐竹は法華堂において自害する。(鎌倉大草紙、鎌倉物語等に出ている)依上三郎宗義も父子の間であれば同罪を蒙り、所領も離れたのではないか。また白川弾正少弼氏朝は、禅秀の乱にも持氏卿に属して鎌倉で戦った。(此れも鎌倉草紙)故に佐竹の欠け地を白河へ賜わったものである。仙台の白河家の蔵に

  



   




           
 上の領地を賜わったことによって、管領上杉憲実へ進物を贈ったようだ。憲実は応永二十五年養父上杉憲永の跡を継ぎ、安房守に任じて此の節の執権であった。同人の藏に
   
 その後の鎌倉大草紙にある応永三年、白河へ打ち出た南朝の余類、里見刑部大輔が依上に在って戦争したようだが、事実のほどは定かでない。我が藩家士、佐藤市兵衛の藏に
 
   


 また年代は分からないが、依上が未だ白河領であった時の事と見える、源義行(此の人未考)の白川へ与えた書が水戸結城家に蔵する。文中の生瀬、袋田は共に依上にある村名である。



 それにしても何れの頃か佐竹の物となり、永禄天正の頃の佐竹との戦争によって、依上の此方である白河郡南郷の地までも、次第に蚕食されて、依上を失ったことは伝書さえもなく、白河の堺内である事を知る人も稀である。古今の変遷のさまを茫乎とさせるものである。文献の乏しい故も有って、天文の頃は早くも八溝山まで常州と称され、当今の形勢となっている。
 八溝山下の坊鐘の銘に曰く、

 唐有八丈溝矣常州八溝山亦據此境淂名乎寺日
 南院須闕苾朔申百八鐘声者久分故化縁苾蒭児
 鐵鞋不倦霜辛雪苦募十方衆縁功情命鐵匠鐵洪
 洪鐘成就揚雲興岫求我願既満之語因為銘其詞
 日常陽勝境 八溝山雄 絶頂安立 大士圓通
  作家手改 □祾鐘洪 煉碧眼鑛 脱白丁?(艹かんむりに取)
  上界下界 尊躬下躬 壽傳萬代 功響無窮
 天文竜集戊戌冬十月七年也吉辰謹銘佛日増輝諸
 天威従銷魔外降
  前福源晨初挿叟比丘周瞳書乎平等下
  皇帝萬歳重臣千秋風調雨順國泰民安
  大檀那源朝臣義篤(佐竹也)謹白 慈雲寺法印宥
  意別当善蔵坊 松渓齊昌訓 勤縁江州住比
  丘尼妙心 小聖善心并妙善 大工石井静阿
  弥奥州白川大檀那藤原朝臣直廣 地頭深谷
  顕衡并重安 金藤掃部助

 慈雲寺は依上の内、町付村にあり真言宗である。顕衡は佐竹の臣で町付村の内に舘跡あり。町付は昔黒沢と云った。掃部助も佐竹の臣で常州上の宮村の内野瀬という所に館跡あり。  


  竹貫
白河郡の内にあり、岩城の菊多郡と石川郡との境である。山が高く谷間には村落が十三村あるが、元は六村であったものを十三村に分けたものである。竹貫村はその親村である。竹貫氏が数世此れを領し、その系図を民間寺院に求めたが無かった。光の字を用いて名乗るところを見ると、石川氏の族であろう。中頃に一度、白川結城氏へ賜わったことが白河七郎蔵の文書に

   

 坂地、矢沢は今も石川郡の村であり、竹貫へ続く地である。
一、明徳の頃、竹貫三河四郎光貞と云う人あり。石川郡須釜大安寺由緒に、石川大寺安芸守光義入道道悦と光貞が吉村の地を争ったと云う由緒の文書がある。

   

 天文の頃の竹貫氏は石川に属さず岩城へ付いた。岩城は下総入道可山と云って、親隆(岩城に二人の親隆あり)は殊に武威を盛んにして常陸国の多賀郡を完全に攻め取り、久慈郡へも手を掛けるなど、佐竹氏の地を狭めた程の人であるから、此の人などの世に竹貫をも服させたのではないか。白川愛宕町の佐七と云う者は竹貫の出で、横川氏が蔵する文書を知る。



 文中の田原谷は田村郡にあり、岩城より兵を出す要路であり、重隆の孫左京大夫常隆が天正十七年伊達政宗朝臣と戦うために仙道へ向かう時も、先ず一番に田原谷を攻略したことが会津四家合考に見えている。
 竹貫三河守重光は何時も岩城の先手として仙道へ打ち出たが、中でも天正十三年安積郡高倉合戦は、佐竹、岩城、蘆名、白川、石川の諸将が伊達を攻め打つという、奥州においては稀な大合戦であった。竹貫三河守は猶予しないで一陣を進め、己の精兵の手練れの者に下知して、「敵の真っ先へ足軽の雑兵を進ませよ、必ず前面の者に目掛けて唯繰り矢挙げに高く指し挙げ、飛ぶ鳥を射るように深く引いて一斉に放て」と前後左右に心を奮って下知した。

 元より握りに余るカマボコ弓で、猫潜(ねこくぐり)りと云う格別な大狩俣の矢束を、矢継ぎ早に射出す好手六百余人が一度にパっと放つのであるから、敵は物怖じして、今まで勇進していた者共が後ろ様になるのを見て、竹貫は其れとばかり下知して抜き連ねて切り掛かる。中でも窪田十郎と言う者は茂庭左内を追いかけて組み伏せ、易々と首を掻いた。三河守も能く敵を討った(三河守の臣水野勘解由左衛門は殊に勝れた強弓の射手で、今大久田村の水野清左衛門家に彼のカマボコ弓と思われる、外は竹ばかりで内に丸木を削り立てた分厚い弓に、箟は(きん?)手の大指よりも太い物を差しわたして六寸に余る。実に鎮西八郎の弓矢かと思うばかりで、箱に入れて屋の棟に結ばれている。尋ねてみたが主人は不在で箱のみを見た。)

 天正十七年伊達政宗朝臣は三河守を味方に招いたが、忠を守り敢えて岩城氏に背を向けなかった。須賀川落城の時にも二階堂へ加勢として、岩城より植田但馬守、水野中務少輔(三河守の子)が罷越宿より三丁ほど打ち出たところ、袋川大黒石(須賀川の西)の辺りに支えて待つことにした。伊達勢が矢丈(矢に備える距離か)になるのは、竹貫の手の者が水野勘解由を初め六百余人が強弓の精兵であり、矢種を惜しまず差し詰め引き詰めして散々に射るので、伊達信夫の兵は夥しく射殺されて手負い死人は数え切れず、累々と人塚を築いた。

 然しながら謀反人があって城が落ちたからには、中務少輔は栗谷沢という所を落ち行き、但馬守が早討死した事も有って鬼神の如くそこから去った。三河守の子息であり何処の國まで引き行かれたのか、と独言し追いかけたものの、朱に染まった太刀を真甲に差しかざして、駒の鼻を返すかと見えたが、敵の二騎を切り落とし大勢と渡り合って終に討死した。三河守は長らえて天正十八年に太閤秀吉公によって竹貫の地を召上げられた後、岩城の富岡へ移る。慶長五年関ヶ原の乱では、最上義光から最上手として会津勢を攻め破った事、詳らかに書簡に記して三河守に贈った、と四家合考に載っている。

一、山上村に竹貫氏の菩提所廣覚寺がある。竹貫歴代碑十二基があり、老臣箭田和泉の子孫が建てる。寺にある遺物は鞍、鑓(槍)、文庫、短刀類がある。竹貫四家老を矢吹、箭田、小野、岡部と云う。

一、竹貫八千石の地は歴代々に持ったが、後に流浪して旧領の者に養われるようになった。三河守重光の孫権太夫が士官を志して此の地を去ったが、その後は音信も無かったと云う。別に臨んで山上村庄屋へ遺す二品あり、譲り状に

   
 (橋本治右衛門方へとある)

一、此の郷、松川村内小名横川に住む横川氏の後のこと、今白河町佐七蔵に

     
典の註=泉は石川氏の居処であるから石川氏か。 
牧野も考えるところ無し。(右は典の考証を示したもの)

   


      

 鎌田村観音堂山に阿部貞任のために建てたと云う碑があり年号は嘉歴である。また同村八幡宮石段下に嘉歴三年四月の字、梵文の下に刻んである碑あり。


 赤坂
 赤坂の郷は六か村あり、此れを山野赤坂と呼ぶ。別に常世赤坂と云う地もあるが、常世赤坂は別に出さず。草高三千石あり、中野村という所を親村とする。赤坂尾張守と云う藤原姓の人が数世住み、民間にその類族が多い。菅生氏と親族で結城ノ臣であったが後に佐竹へ服属した。中野村に建て跡があり、禅宗恵命山長遠寺に位牌がある。

茂林院殿天文元年赤坂下総守藤原常道
恵命院殿長遠常久天正五年赤坂下総守藤原常久  
清厳院殿慶長元年赤坂助七郎藤原道貞
玉山院殿元和三年赤坂下総守藤原常通

 赤坂城代は舟木大隅守橘光辰其子掃部常全である。また赤坂七騎とは佐藤輿左衛門常信、緑川筑前守信貞、芳賀帯刀正光、森筑後守光時、蛭田帯刀常吉、高木伊賀守重直に舟木を合わせる。
 按=竹貫郷の入山上村、岡部次郎左衛門蔵の古軍書抜きに、天文二十三年正月吉日舟尾拾郎平隆相とあり、亦別巻抜に船尾安房守平隆相とある。赤坂の隣郷であるから大隅守の親族ではないか。

 巻の五 その3終り

白川古事考巻五 全終 

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白川古事考 巻ノ五 前編 廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-16 12:58:02 | 歴史

 白川古事考 巻ノ五 前編 


(その1)
  古墟
一、搦目村城跡は結城宗広が居た。皇子義良と北畠顕家同じく顕信も暫くの間、ここに入っておられた。と光明寺残編にある。古の白川城と云うのが是れであり、永禄年中に小峰氏が白河を奪った時より廃した墟である。今の白川は小峰城である。臣(典)かつて宗廣、親光の為にその忠壮を感じて、「定信公」の三大字を請け奉り、その下に文章を綴って古墟の北崖、石壁の半腹に彫る。

   

一、菅生館は搦目古墟の西に当たる山に在り、菅生傳右衛門と云う者の墟であった。結城内に菅生氏は多いが年代不詳である。
一、舟田村の城跡の広さ、二丁四方(218m四方)ばかりの空堀あり。結城の旗下、常松関入道と云う者が居た。天文年中、石川郡龍﨑村館主須田紀伊守(岩瀬郡須賀川二階堂盛義の臣)の二男松五郎という者を、舟田善右衛門の養子とした。天正十七年舟田入道真海(関物語に舟田輿七郎友綱、後に舟田入道真海とあり)其の子與十郎友継、岩瀬郡大里村の城を伊達政宗に従って攻める。この城跡の下の大隈川に入道淵と云うところあり、何時の頃か城主舟田入道は敵の急な攻めに遭い、防戦利無くして自ら淵に身を投げて死んだ。それよりこの処を入道淵と名付けたとある。

一、同村小字百目木(とうめき)と云う所に、結城ノ臣百目木修理亮が居た。修理亮の忠死は実に古人に恥じない事であった。結城義親の条に採録する。

一、田島村は結城宗広の弟、田島輿七左衛門廣尭の館跡あり。其の子の田島信濃と云う数世の後に田島信濃守景久あり、佐竹と戦争して討死する。景久の時に此の虚において大蛇を害し、北面の崖に埋めて□(木偏に厭)を植えたので龍害の館とも云う。今でも古木の□あり。(蛇を害したのは親類の大塚宮内左衛門であるとも云う)景久の子田島信濃守は結城義親が白川修理大夫義顕を害しようとしたのを救った事によって、義親の為に攻め寄られた。信濃守は自ら城に火を掛け、打って出て切り死にした。それ以後は城を廃する。信濃守景久を法戦道閑と云い、田島村清光寺に位牌がある。清光寺に古碑多いものの字は皆堙没している。白川の地は石を出すこと多いが至って粗悪で、清光寺に限ったことでなく双石村坊の入り松林庵の跡にも、嘉歴二年の字のみ存する碑あり。この類いを惜しむに堪えない。

一、借宿村新地山は石井丹波という人の館跡であると云う。天正の始めより佐竹氏が度々白川を攻め、この道筋より兵を出したことで結城氏がこの墟に大塚宮内左衛門を置き、大隈川を隔てた木ノ内の館と呼応して防戦したと云う。宮内左衛門尉始めは同郡塙の羽黒の館に居たが、攻め落とされて関和久村に潜んで居た折り、結城氏がこの城を授けて防いだという。宮内左衛門の子同佐太郎は、佐竹が白河を攻めた時に加勢として大勢の枉内(=まがる、囲みの中か)へ切り入って戦ったが、今で云う波多下という所の深田へ誤って馬を駈け落してしまい、もはや叶わずと覚悟して「敵も味方も良く聞き候得、武士の戦場で叶わぬ時は斯くこそ仕り候へ」と手本を見せ置くとばかり腹を掻き切って死んだ。

 又その弟小十郎は天正十八年岩瀬郡大黒の城主矢田野阿波を攻めた時に、伊達政宗朝臣の催促に応じた結城義親により、小十郎をも加勢の衆に加えて遣ったが、大勢と戦ったあげく叶わぬ時を迎えて討死する。兄にも劣らぬ働をして家名を揚げた。その弟甚九郎も度々戦功を顕わしたが、結城家没落の時より関和久へ引き篭って農夫となり、その子孫は今にある。その弟の小八郎は合戦坂の軍に功を顕わしたが、後の今の白河町年寄り大塚半左衛門の先祖である。

一、本沼村の南羽黒という館は義家朝臣が奥州下向の時、人馬調練の為に暫く此所に滞留したという。結城を侵した佐竹勢が大隈川に沿って攻め上り、遂に此の館をも攻め落としたことが板橋農家の旧記にある。館主の姓名は伝わっていない。

一、同村民家の地で半ばより北は空堀を回せる館跡と言われるが、誰氏の居であるか詳ならず。天正の頃結城旗下に本沼下野守あり、此の人の館跡ではないだろうか。

一、泉崎村の墟は方九十間ほどで結城ノ臣辺見(人見とも云う)主膳正が居住した。天正十六年石川郡中畠城上野介二男右馬頭を家督に約束したが、主膳正が兄の下野國烏山の城主何某へ告げて知らせると、「他族より家督を迎えること有ってはならない」と許容されなかった。中畠上野介は此れを聞いて大いに怒り、軍勢を差し向けて泉﨑を乗っ取る。しかし一度は子と為し父と定めたこともあり、主膳正を助けて別の所に押し込めて置いた。今その所を『殿の入り』と云う小字になっている。
 その時の家老は、富窪と云う所に小林筑後、根岸に野崎筑前、枉内に三村若狭、中ノ内に鈴木若狭と、村の中四カ所に居していたと云う。
 按=下野烏山は那須家累世の居城であり、中頃他家に奪われる事も聞かず。佐竹の臣にも人見主膳と云う人あり、此の人が若しかしたら泉﨑の主膳と兄弟なのか、又はそうではないとしても同じ主膳を名乗る別人とも知りがたい。佐竹は那須の地を攻め取って烏山近くまで領した故に、人見をその近辺に置いていたのを、誤って烏山城主と云ったのかは未だ詳でない。

一、関和久村伊賀館は熊田伊賀の居、結城の老臣で忠氏と名乗る。子孫に若狭助兼氏あり。関物語には熊田輿惣左衛門光行、後に若狭と号する。佐竹勢後切りの時、河東田上総介、高田玄蕃、高橋安芸守等と烏峠に忍んで居て功を顕わす。この始終未だ詳しく聞かない。

一、同村上野館は回り三丁余、四方に堀跡あり。館主不詳(会津四家合考に義親が関和久に城を築き、伊達政宗、伊達成実に加勢した事あり、この城であろうか)

一、同村西端に館跡あり、家田刑部正居住する。
一、同村戌亥の方(北西)に館跡一ヵ所あり。東西一丁余溝跡があり、結城ノ臣加東田上総介家治居住する。
一、同村木ノ内山館=佐竹氏が結城氏を攻める時、此所で防いだ事古記に見える。
一、大和田村小屋ガ上の館は山上に空堀を巡らし、中央に石を積んだ亀のような跡あり。白石出雲守館跡と云う此の人の年代は不詳である。永禄の頃白石刑部大輔が此所に住んだ。(今の石川郡内白石村に住んだものか、石川昭光が佐竹に対抗して段々に土地を縮めた故に、刑部大輔も白石村を去って此の地に移ったのであろうか)南郷においては佐竹との戦い、浅川においては石川の臣浅川次郎左衛門との戦いに見える。永禄三年遂に新城の合戦に討たれる。その子孫の有無は聞かないが、その時より廃墟になったのではないか。

一、新小萱村に新小萱雅楽頭䔍綱の墟、東西一丁南北四十間あり。永禄三年新城の新城備後守須田源治郎が白川結城に叛いて、岩瀬郡の二階堂の旗下に属したのを、結城晴綱が怒って䔍綱を大将に白石刑部大輔を先陣として新城須田を攻める。この時白川勢は打ち負けて、白石は保土原江南齊の従兵、小松源六小松新介の為に討たれる。䔍綱は鎧の隙間に矢三筋を負って引き退いたが、その疵のために終に死んだ。この村の石雲寺の山後に䔍綱の碑があり、後の人の建立である。石雲寺は新小萱氏の建てる所と言われる。
 按=保土原江南齊は岩瀬郡保土原に居り、二階堂氏のもと代々此の地を有する。父兵部大輔行有は和歌を善くした人であり、江南齊は左近行藤と云われた人である。須賀川落城の後は伊達政宗に属して朝鮮陣へ赴き、大坂陣にも功ある事は系譜に詳らかである。

一、三城目村鷹巣館は往古は伊藤大学なる者が和州(大和)より来て館主になった。(今の村長である伊藤某の先祖であると、その家に言い伝わる。祐の字を代々用いる因を考えると、安積郡は文治五年に工藤左衛門尉祐経に頼朝卿より賜わってより、安積郡の村々に伊藤氏がある。この郡には他の姓が無いほどで皆祐の字を名乗る。「仙道表鑑、積達古館弁」等を見て知ると善い。其れならば大学も大和より来たのでは無く、隣郷の安積の内より来てこの城に住んだのではないか)石川郡中畠の上野介晴辰は永禄年中に是れを攻め取り、天正十八年白川結城没落後に廃城となる。晴辰は結城の家を継ぐべきなのを避け、中畠へ養子となって小家を継いだ。小田原参陣も義親に申し出て、太閤へ謁見するのを勧めた謀も議もある人である。義親の為に石川昭光に番うなど主のために尽くした。水戸結城の藏に(義親没落後の窮状が忍ばれ、石川との取りなしをした中畠上野介への労いの一筆=訳者註)

  

一、同村に陣ヶ岡館、郷蔵地館、和田ヶ館、古館、沢尻館、小松館等あり、館主は皆詳ならず。
一、長坂村小館山の館は安良勘解由という人が住んだ。羽太村大龍寺の由緒に「長福寺殿大安吉龍」の法号とある。此の人の年代事跡は不詳。
一、柏野村館跡は和知近江が住んだ。白川結城の臣である。
一、鶴生村の小名高助には結城の旗下斑目信濃守則常の館跡あり、岩瀬郡泉田村庄屋の斑目氏の由緒に『源頼朝公の御子が結城家へ養子となって参られた時、鎌倉より付き添われた四天王の随一、斑目越後守の末葉で増見村の城主斑目信濃守が後に鶴生の館に卒去する。法号を斑宗寺殿心翁淨位と云い、今の斑宗寺は此の人の位牌を納める所であり、十郎廣基の父である。廣基は別に南郷の城に居られたが、二男の越中は後に泉田の庄屋となる。

一、米村館跡あり、館岡入道という人が住んだ。年代不詳。
一、小田倉村西平野に館跡あり、事実不詳。結城歴代事実の部に載せた、蘆名盛氏が那須と合戦した時の館である。共側山の懐に岩山あり、喚く石と云って此方に喚けば彼方に答える所あり、その合戦の時も矢叫びの声が此れに響いて夥しく聞こえた。
一、飯土用村に高徳清光という者の館跡あり、其の人の事不詳。
一、益見村館跡は和知駿河守一慶が居た。永正年中に討死した人と云われ、源姓で実名は朝昌。法名は福正寺殿圓山大鏡。今その村に正福寺と云う寺あり、鶴生の高助に載せた斑目もこの村に住んだが、和知と前後するかは不詳。
一、下羽田村館跡は結城の臣南大膳という人が住んだ。
一、小田川岩久保切岸館=結城治部大輔義顕は白川城を義親に乗っ取られ、後は此所に居した。また殿上と云う所にも居たと伝えられる。同村山館館主不詳。
一、双石村館跡は結城の臣本名佐藤大隅守忠胤が居た。後に双石駿河守とも云い、関物語に「此の人上方より武者修行に来たのを、晴綱が留めて軍師にした」とあり、子孫は今双石村の庄屋である。伊達政宗の文書、白河町商家に伝わる。

 右文書は大隅守が白川に仕えた後か、又は浪人の間のものか知らない。伊達と岩城は元来親族であるが、中頃において不和のことがあり、大隅守が和平を取り持ちした。双石村坊ノ入りの熊野祠の上に故墟あり、佐竹と白川が合戦坂の軍の時、大隅守討死したと関物語に見えている。

一、白河城下関川寺の地は館跡である。土居空堀の跡が西南を回り、東南は本田能登守忠義が隠棲几景地を経営する時に切り開いてより土居等は存していない。元は誰氏の遺墟かは詳ならず。

南郷中ノ丸館、今は大清水と云い、結城旗下上遠野美濃守盛秀が居た。
按=上遠野は今菊多郡の地である。白川結城の旗下に上遠野氏多く南郷を領した。白川仲町高田屋伊兵衛の藏に
(義親号=不説からの文書、上辺に典の添え書きで『棚倉の近所にアマヤ《雨谷》と云う地あり』と記されている)


   

一、金井館は佐竹より高野八郎兼貞と云う者を差し置いて守らせた。白河結城義親に攻められて士卒多く死に、館も破却する。金井の城と云うのは、古より井戸型の石がある故に名付けて、今城跡に八竜神を勧請する。堀越村に在るので堀越八郎とも云う。高野八郎のことである。

一、新城村古墟二カ所あるが何人が居たのか詳にならず。白河郡と岩瀬郡の境目であるが、須賀川の二階堂に取られたことも有るのでは?二階堂続義と云うのは盛義の祖父であり、須賀川寺社或いは旧家に伝えられる系図には此の人見えず、仙台の家臣保土原氏も二階堂氏であり系図を伝えている。保土原氏と須賀川の二階堂の分かれを詳らかに載せて続義も載っている。此の人より天文五年、家人へ新城の内を与えたことで、須賀川領であることを知るべきである。借宿村農夫市右衛門所蔵に

   

後の永禄三年新城備後守須田源治郎は此の地に在って、白河勢新小萱䔍綱討死の事あり。上の新小萱の古城に詳らかである。その時暫くは白河に属し、再び須賀川に奪われたのに似ている。この城跡はその時の城ではないか。白川と須賀川とは界を接していれば、度々の治乱に付けて交じりもあるだろうに、この村の合戦のみ外に伝わることもなし。盛義の父二階堂照行の文書を仙台の白川家が蔵する。








一、南郷塙村羽黒館は天喜二甲午年源義家朝臣が始めて築かれたと云う。後に常陸大掾国香領する。関物語に『永正二年佐竹氏の属大塚氏が佐竹に背き、結城に属してこの城に居る』とあり、大塚系図には掃部介国久、越前守、大膳大夫、宮内左衛門尉と四代居たが宮内左衛門尉に至って佐竹に攻め落とされたと云う。佐竹に属して後は共に臣である阿野丹波守、天野下野守、柴田越後守、石川近江守、田崎相模守と相続いて居た。石川近江守は石川昭光の親族である。仙道表鑑に芦名田村この城を攻め落とし、近江守討たれる。田崎は東館をも領していた。その子孫は佐竹候の臣であった。

一、板庭村古舘、川下村古舘、中野村古舘、西川内村古舘、この四カ所は羽黒館に属し、勢援の為に築いたと云う。年代不詳。
一、中塚村に舘ヶ岡館あり、湯本因幡守が居る。因幡守の後はその村の長だと云う。大永二年の頃迄は白川結城の番城であったそうである。

一、中石井村の狐館は江田八右衛門という人が居たという。
一、伊香村に油館あり、鈴木大藏が居た。その前には湯本内匠之介居住したと云うが年代不詳。
一、関岡村の内、天神沢古舘は佐竹の臣秋山七郎が居た。同村に関岡館と云うがあり、中村大学正則が居た。白川の臣に中村氏多い。入道道忠の時には今の相馬の地迄も領したが、その節に中村氏が臣であったものの次第に土地は狭められ、後に猶臣として南郷の内を領したものである。また當基と云う人もあり、白河中町高田屋伊兵衛の藏に





一、高野村保木山館は白川と佐竹が戦争の時、佐竹より出張った館であると云う。
一、東館村に東館あり。結城ノ臣斑目十郎廣基、其の子能登守が居た。佐竹の為に攻め落とされた後、佐竹の親族の東中務大輔義久、同じく美濃守が居る。義久はこの城に居て、佐竹より軍を奥州仙道に出す時には、何時も先手の大将である。田崎氏も此れに居るという。

一、下河内村物見峠館は佳老山の北にあり、結城ノ臣斑目十郎廣基が居た。
一、赤館は今棚倉の城北にあり、何時の築城であるか、「鎌倉大草子」応永の頃に見えるのが始めで、其れより白川結城庶流が居たこと度々見えている。文明年中赤館源七郎という者が居たが、此れも白川の庶流といえる。後に白川より鹿子三河守を置く。佐竹より攻め取って和田大隅守及び其の子安房守為照に代わる。また松野上総介に代わる。慶長五年の乱には佐竹義宣が上杉景勝となれ合い、此所に出勢して暫く在陣していた。安房守為照の子玄蕃丞と云う。天正十七年伊達政宗会津を攻める。佐竹義宣は会津を救い、政宗方である田村の大平の城を攻め落とし、玄蕃は佐竹の先陣東中務大輔に従い功あり。白河中町近藤伝蔵の藏に和田玄蕃に当てた東義久の文書。


   

  巻ノ五 その2

その2
 丹羽長重棚倉を築いて移り、この城(赤館)を廃する。・
一、流村寺山舘は元亀の頃結城より深谷伊豆守治行、班目能登守両将を置く。天正年中佐竹より羽田摂津守を大将として秋山、横山等都合五百騎が百日程攻戦した。城中では手立ても尽きて終に明け渡す。これによって秋山と横山の二人は城中に楯篭もる(天神沢の館に居る秋山七郎のことか)。結城義親大いに憤り、兵を遣わして夜攻めを掛け、矢倉まで攻め上った上、門柱をも切り折りして無二無三に切り入った。郭内では馬を切り放して急に駆け出させると馬は驚いて突き立ち、白川勢へと向かって踏み荒らした。寄せ手が乱れて引き退く。
その後羽田氏に誤りあって呼び返され切腹する。四家合考に足利義氏朝臣の文書を挙げているが、この時のことではないか。

      

今宮浄蓮院と云って、常陸十二郡の山伏の先達に武勇あり、武士の業を事としていたので、佐竹によってこの城に置かれた。慶長二丁酉正月、天下の山城停止に付、山を下り館を営んでより廃した。
一、渡良瀬村古館は館主時代とも不詳。
一、富田村に菅生館あり。菅生伯耆守が居た。結城の旗下である。赤坂郷の赤坂尾張守の分家と云う。関物語に菅生舎人友国居城不分明。棚倉の押(領)であるが後に仙台へ行くとあり、棚倉は佐竹の押(領)であろう。元禄の頃迄は富田を菅生村と云っていたという。
一、硯石村古館は結城の臣穂積大学が居た。地名に因って硯石大学とも云う。赤館合戦に案内者であった大功者である。天正十八年廃城の後同村峯全院において死去する。
一、川下村狐屋(こや)館は船尾下野守(滑津村の方では山城守と云う)同郡滑津村より隠居して此の地に千石を領する。天正年中佐竹の招きにより佐竹へ属する。河上山賢瑞寺は船尾氏の開基にして位牌あり。
一、福井村仲丸館は往古田村姓の人が築いた。(田村郡田村氏の祖であろうが不詳)文亀年中城代として主将であったようで、文禄の頃断絶したという。
一、釜子村手城塚館は館主年代姓氏不詳。
一、須乗村物見城は昔小針山城守頼廣という人が住む。
一、川東田村天王寺山館は天正年中川東田大膳が住む。白川の旗下である。川東田上総守(或いは介)白川臣に見える。
 伊達郡上郡村農夫所蔵の文書
 
      

一、上野手島村御殿跡は本多弾正少弼が住んだと云う。白川に本多能登守が居られた時に分家された事が白川にある。分家の始めに住んだ所ではないか。
一、下野手島村坂本館は館主年号不詳。
栃本村小屋館は館主年号不詳。(白川親族に栃木右衛門と云う人あり、恐らく此の人の居館ではないか)
一、小貫村三城館は天正年中近藤若狭守が居る。
一、築森村城ノ越館は館主年号不詳。
一、滑津村館は船尾山城守が居た。天正十八年四月十八日落城する。その時領地二万石余で白河郡両野、出島、滑津、川東田、二子塚、小田川、太田川、泉﨑、松倉、鞜瀬、新城、石川郡澤井、赤羽、新屋敷、中野目、明岡、松崎、神田、中畑、外に川上、川下等が千石隠居の領であると云う。
一、踏瀬村の上ノ小谷村館は和田平内が住んだ。長陳場館、石関館、陳退沢館の三所は館主年暦不詳。
一、太田川村古館は三所あり。一カ所は結城の臣石射近江住む。村申酉(西南西)方に一所、寅卯(東北東)方一所は館主年代不詳。
太和久村館は多賀谷左兵衛尉住む。結城の長臣に多賀谷あり、下野國の結城にもある。この城は永禄年中に落城と云う。石川岩瀬二郡の境界であるから、須賀川の二階堂か又は石川の石川家の為に、攻め落とされたのであろうか。
一、堤村薬師館は角田伊賀守が居る。紋は松皮菱だとして今も村の鎮守、羽黒の社の箱棟に松皮菱の紋を付けてある。



一、  高野郡分合  南郷戦闘附き

高野の事は和名抄に白河の郷名高野と出て、又一カ所の注に『之良加波國分為高野郡』と既に郡を以て称していることも見える。また中古に高野へ属したのは十八郷で、今の棚倉を境にして南九郷北九郷があったと云う。今に八槻明神田植え祭の祝詞に『明神様の御田植え、殿様の御田植え、南郷九郷北郷九郷合わせて高野十八郷の殿原達、一人も残らず御出でヤレヤレ』と呼ぶ。これを田ウナイ触れと云い、また『高野十八郷の殿原達と五月女共に一人も残らず御出でヤレヤレ』とも呼び、これも田植え触れと云って久しく伝えられた祝詞である。
白川七郎の蔵に(幕府から結城親朝宛の書状)

      

一、南朝紀傳に斯波陸奥守家長と相馬胤平兄弟建武二年十二月二十三日高野郡において合戦あり。
上野入道と親朝宛ての文書

   

白河七郎の蔵に結城顕朝宛ての文書

   



   

↑文書の下にある添え書き「按、笹川殿と云っても鎌倉の満兼卿の弟を、奥州官軍の威を折らんが為に奥州安積郷笹川へ下し、その弟満直を岩瀬郡稲村に下された。応永六年の事である。其の翌年に此の旧領安堵の文書を下されたのではないか。此れは笹川殿の花押である。今の二両所に御所と唱える館あり」
 また岩瀬郡須賀川宿相楽七郎右衛門の藏に

   

上記の添え書き「経泰は唐橋肥後守也南朝紀傳に源為貞が男也、また修理亮とも古書にあり」


   

典の注書には「八ツキ明神鉢の銘に沙弥宗心あり、年号は応永十八年
十月十五日也」とある。

つづく

 これらの文書は全て高野郡と称していた時の事であり、高野郡を白川へ賜わって後に、伊達の領となり、平賀景貞の領となり、藤蔵人の領ともなった事実を知るべきである。伊達氏が此の地を領したことは絶えて知る人もなかったので、文書によって昔のことを証明されるのである。

一、鎌倉大草子応永九年に「宮方の余類、伊達大膳大夫政宗法名圓孝は隠課を企て、篠川殿の下知に従わず一味同心の族が蜂起する。同年五月二十一日上杉右衛門佐入道禅秀が大将となって発向する。伊達は兼ねてより赤館と云う所に城を構えて合戦となり、鎌倉勢を追い返して悉く討ち取る。然しながら近国の大勢が重ねて馳せ向うと、伊達は打ち負けて九月五日兜を脱いで降参した。(鎌倉九代後記、南朝紀傳にもこの赤館合戦のことを記す)
 按=赤館と云うのは、今棚倉城の北五、六丁隔てて遺墟ある所が此れである。この時笹川の御所より軍兵を催された文書を白河七郎蔵する。この文書に因れば応永七年の事で九年とは大草子の誤りか。

     


この合戦があって満貞朝臣より鎌倉へ告げられ、満兼卿からこの感状を賜わったのではないか。

     


 文書と地勢とに因って考えると、上杉は決まって常州を経て南方より向かい、白河結城は笹川御所足利四郎満貞に従い北方より挟んで打ったのである。故に伊達氏も遂には打ち負かされたのではないか。伊達氏が高野を失ったのは此の時であろうか、その跡は悉く白河の領となって来たのであろう。

一、「拾芥抄弁環翠軒節要集」にも高野郡の名は見えている。佐竹氏の勢が盛んな頃は、別部に出した依上の地を白河から斬り取り、下野那須郡茂武(モボ)の郷を那須家から斬り取る。
 (按=那須記に茂武郷の武士は皆佐竹に属し、烏山近く迄攻め寄せる事度々見えている。今の水戸御領が下野に及んでいるのは、佐竹氏の時の境界をそのまま領されたからである)

 その勢いは席を巻く如くで遂に高野の地へも兵を進め、白河と戦争数年に及ぶと見えている。結城義綱の時までは猶一力を以て佐竹と雌雄を争ったが、晴綱は蘆名盛氏の助力を頼み、義親は芦名の聟となって援兵の力を借りる事によって、漸く高野を持ち堪えていた。が、盛氏が死去してからは赤坂までも攻め取られ、一度は生け虜にまでなった義親は赤館を境に佐竹に領せられた上、会津の芦名と共に佐竹に服して、石川昭光や岩瀬郡の二階堂等と共に、佐竹の先手として安積田村の辺りまで打ち出て伊達と争った。

 土人の説に、大永年中暫く高野は蘆名盛氏に属した。と云うのは盛氏が白河に加勢して、度々佐竹を防いだ故に盛氏へ属したと口碑に残っている。その戦争の時に佐竹で切り取る時は高野郡と呼び、白河により取り戻す時は白河郡を以て唯南郷と称した故に、郡名の分合すること度々にして紛々とした事であった。(これは八槻大善院隠居幽墨齊の説を記す)そのような事で和名抄の時の以前のように、高野を合わせて白河の中に復したのは寛文年中、白河城下雨宝山龍蔵寺と八槻大善院が、霞同行の事で論争あって追々手広になり、終には両山の坊官先達越家等が江戸に召し出されて宗祇を糺され、郡中支配の義に争論相及び郡名をも上古に復される。

寛文八
戌申十二月二十六日御載許状を両山へ渡される。此のことは天下修験の大嶽訟である故に、将軍家御判物により寛文五年迄は高野郡を以て称せられ、貞享二年以後は改めて白河郡と書きしめして賜わる。そうであれば郡名復古は寛文八年と云う事になる。今、依上の境に高野村あり、コウヤ村と読む。これは郷名郡名となる本である。

一、関八州古戦録、佐竹常陸介義重は奥州の地を略する為に、陸奥常陸の国境、南郷と云う所まで出馬して駐屯した。此れを聞いた蘆名盛氏入道止々齊は、子息平四郎盛興を相伴って軍を発し、白河の結城左衛門佐義親を巨魁として彼の地へ出張り対陣した。標葉郡手越の相馬弾正少弼盛胤や石川郡泉の石川大和守昭光が詮議して、双方に講を申し入れた。佐竹は初め同心しなかったが、下妻の多賀谷を攻めようとする北条氏政が近日小田原を発つと云う風聞を得て、義重は多賀谷を救うため盛氏との和解に応じ、互いに軍を収めた。太田三楽父子が一方の武将として南郷表に在陣したものか、和談が成って双方振旅(触れ合う事か)の砌に至って、蘆名の先隊佐瀬源兵衛とは無二の旧故であり、老後でもありることから今生の暇乞いにと面会した。この時の軍であろうか出陣の前に祈願の書を八槻へ。大善院の藏に

      


     巻ノ五 前編終り

その3
 丹羽長重棚倉を築いて移り、この城(赤館)を廃する。・
一、流村寺山舘は元亀の頃結城より深谷伊豆守治行、班目能登守両将を置く。天正年中佐竹より羽田摂津守を大将として秋山、横山等都合五百騎が百日程攻戦した。城中では手立ても尽きて終に明け渡す。これによって秋山と横山の二人は城中に楯篭もる(天神沢の館に居る秋山七郎のことか)。結城義親大いに憤り、兵を遣わして夜攻めを掛け、矢倉まで攻め上った上、門柱をも切り折りして無二無三に切り入った。郭内では馬を切り放して急に駆け出させると馬は驚いて突き立ち、白川勢へと向かって踏み荒らした。寄せ手が乱れて引き退く。
その後羽田氏に誤りあって呼び返され切腹する。四家合考に足利義氏朝臣の文書を挙げているが、この時のことではないか。

      

今宮浄蓮院と云って、常陸十二郡の山伏の先達に武勇あり、武士の業を事としていたので、佐竹によってこの城に置かれた。慶長二丁酉正月、天下の山城停止に付、山を下り館を営んでより廃した。
一、渡良瀬村古館は館主時代とも不詳。
一、富田村に菅生館あり。菅生伯耆守が居た。結城の旗下である。赤坂郷の赤坂尾張守の分家と云う。関物語に菅生舎人友国居城不分明。棚倉の押(領)であるが後に仙台へ行くとあり、棚倉は佐竹の押(領)であろう。元禄の頃迄は富田を菅生村と云っていたという。
一、硯石村古館は結城の臣穂積大学が居た。地名に因って硯石大学とも云う。赤館合戦に案内者であった大功者である。天正十八年廃城の後同村峯全院において死去する。
一、川下村狐屋(こや)館は船尾下野守(滑津村の方では山城守と云う)同郡滑津村より隠居して此の地に千石を領する。天正年中佐竹の招きにより佐竹へ属する。河上山賢瑞寺は船尾氏の開基にして位牌あり。
一、福井村仲丸館は往古田村姓の人が築いた。(田村郡田村氏の祖であろうが不詳)文亀年中城代として主将であったようで、文禄の頃断絶したという。
一、釜子村手城塚館は館主年代姓氏不詳。
一、須乗村物見城は昔小針山城守頼廣という人が住む。
一、川東田村天王寺山館は天正年中川東田大膳が住む。白川の旗下である。川東田上総守(或いは介)白川臣に見える。
 伊達郡上郡村農夫所蔵の文書
 
      

一、上野手島村御殿跡は本多弾正少弼が住んだと云う。白川に本多能登守が居られた時に分家された事が白川にある。分家の始めに住んだ所ではないか。
一、下野手島村坂本館は館主年号不詳。
栃本村小屋館は館主年号不詳。(白川親族に栃木右衛門と云う人あり、恐らく此の人の居館ではないか)
一、小貫村三城館は天正年中近藤若狭守が居る。
一、築森村城ノ越館は館主年号不詳。
一、滑津村館は船尾山城守が居た。天正十八年四月十八日落城する。その時領地二万石余で白河郡両野、出島、滑津、川東田、二子塚、小田川、太田川、泉﨑、松倉、鞜瀬、新城、石川郡澤井、赤羽、新屋敷、中野目、明岡、松崎、神田、中畑、外に川上、川下等が千石隠居の領であると云う。
一、踏瀬村の上ノ小谷村館は和田平内が住んだ。長陳場館、石関館、陳退沢館の三所は館主年暦不詳。
一、太田川村古館は三所あり。一カ所は結城の臣石射近江住む。村申酉(西南西)方に一所、寅卯(東北東)方一所は館主年代不詳。
太和久村館は多賀谷左兵衛尉住む。結城の長臣に多賀谷あり、下野國の結城にもある。この城は永禄年中に落城と云う。石川岩瀬二郡の境界であるから、須賀川の二階堂か又は石川の石川家の為に、攻め落とされたのであろうか。
一、堤村薬師館は角田伊賀守が居る。紋は松皮菱だとして今も村の鎮守、羽黒の社の箱棟に松皮菱の紋を付けてある。



一、  高野郡分合  南郷戦闘附き

高野の事は和名抄に白河の郷名高野と出て、又一カ所の注に『之良加波國分為高野郡』と既に郡を以て称していることも見える。また中古に高野へ属したのは十八郷で、今の棚倉を境にして南九郷北九郷があったと云う。今に八槻明神田植え祭の祝詞に『明神様の御田植え、殿様の御田植え、南郷九郷北郷九郷合わせて高野十八郷の殿原達、一人も残らず御出でヤレヤレ』と呼ぶ。これを田ウナイ触れと云い、また『高野十八郷の殿原達と五月女共に一人も残らず御出でヤレヤレ』とも呼び、これも田植え触れと云って久しく伝えられた祝詞である。
白川七郎の蔵に(幕府から結城親朝宛の書状)

      

一、南朝紀傳に斯波陸奥守家長と相馬胤平兄弟建武二年十二月二十三日高野郡において合戦あり。
上野入道と親朝宛ての文書

   

白河七郎の蔵に結城顕朝宛ての文書

   



   

↑文書の下にある添え書き「按、笹川殿と云っても鎌倉の満兼卿の弟を、奥州官軍の威を折らんが為に奥州安積郷笹川へ下し、その弟満直を岩瀬郡稲村に下された。応永六年の事である。其の翌年に此の旧領安堵の文書を下されたのではないか。此れは笹川殿の花押である。今の二両所に御所と唱える館あり」
 また岩瀬郡須賀川宿相楽七郎右衛門の藏に

   

上記の添え書き「経泰は唐橋肥後守也南朝紀傳に源為貞が男也、また修理亮とも古書にあり」


   

典の注書には「八ツキ明神鉢の銘に沙弥宗心あり、年号は応永十八年
十月十五日也」とある。

つづく

 これらの文書は全て高野郡と称していた時の事であり、高野郡を白川へ賜わって後に、伊達の領となり、平賀景貞の領となり、藤蔵人の領ともなった事実を知るべきである。伊達氏が此の地を領したことは絶えて知る人もなかったので、文書によって昔のことを証明されるのである。

一、鎌倉大草子応永九年に「宮方の余類、伊達大膳大夫政宗法名圓孝は隠課を企て、篠川殿の下知に従わず一味同心の族が蜂起する。同年五月二十一日上杉右衛門佐入道禅秀が大将となって発向する。伊達は兼ねてより赤館と云う所に城を構えて合戦となり、鎌倉勢を追い返して悉く討ち取る。然しながら近国の大勢が重ねて馳せ向うと、伊達は打ち負けて九月五日兜を脱いで降参した。(鎌倉九代後記、南朝紀傳にもこの赤館合戦のことを記す)
 按=赤館と云うのは、今棚倉城の北五、六丁隔てて遺墟ある所が此れである。この時笹川の御所より軍兵を催された文書を白河七郎蔵する。この文書に因れば応永七年の事で九年とは大草子の誤りか。

     


この合戦があって満貞朝臣より鎌倉へ告げられ、満兼卿からこの感状を賜わったのではないか。

     


 文書と地勢とに因って考えると、上杉は決まって常州を経て南方より向かい、白河結城は笹川御所足利四郎満貞に従い北方より挟んで打ったのである。故に伊達氏も遂には打ち負かされたのではないか。伊達氏が高野を失ったのは此の時であろうか、その跡は悉く白河の領となって来たのであろう。

一、「拾芥抄弁環翠軒節要集」にも高野郡の名は見えている。佐竹氏の勢が盛んな頃は、別部に出した依上の地を白河から斬り取り、下野那須郡茂武(モボ)の郷を那須家から斬り取る。
 (按=那須記に茂武郷の武士は皆佐竹に属し、烏山近く迄攻め寄せる事度々見えている。今の水戸御領が下野に及んでいるのは、佐竹氏の時の境界をそのまま領されたからである)

 その勢いは席を巻く如くで遂に高野の地へも兵を進め、白河と戦争数年に及ぶと見えている。結城義綱の時までは猶一力を以て佐竹と雌雄を争ったが、晴綱は蘆名盛氏の助力を頼み、義親は芦名の聟となって援兵の力を借りる事によって、漸く高野を持ち堪えていた。が、盛氏が死去してからは赤坂までも攻め取られ、一度は生け虜にまでなった義親は赤館を境に佐竹に領せられた上、会津の芦名と共に佐竹に服して、石川昭光や岩瀬郡の二階堂等と共に、佐竹の先手として安積田村の辺りまで打ち出て伊達と争った。

 土人の説に、大永年中暫く高野は蘆名盛氏に属した。と云うのは盛氏が白河に加勢して、度々佐竹を防いだ故に盛氏へ属したと口碑に残っている。その戦争の時に佐竹で切り取る時は高野郡と呼び、白河により取り戻す時は白河郡を以て唯南郷と称した故に、郡名の分合すること度々にして紛々とした事であった。(これは八槻大善院隠居幽墨齊の説を記す)そのような事で和名抄の時の以前のように、高野を合わせて白河の中に復したのは寛文年中、白河城下雨宝山龍蔵寺と八槻大善院が、霞同行の事で論争あって追々手広になり、終には両山の坊官先達越家等が江戸に召し出されて宗祇を糺され、郡中支配の義に争論相及び郡名をも上古に復される。

寛文八
戌申十二月二十六日御載許状を両山へ渡される。此のことは天下修験の大嶽訟である故に、将軍家御判物により寛文五年迄は高野郡を以て称せられ、貞享二年以後は改めて白河郡と書きしめして賜わる。そうであれば郡名復古は寛文八年と云う事になる。今、依上の境に高野村あり、コウヤ村と読む。これは郷名郡名となる本である。

一、関八州古戦録、佐竹常陸介義重は奥州の地を略する為に、陸奥常陸の国境、南郷と云う所まで出馬して駐屯した。此れを聞いた蘆名盛氏入道止々齊は、子息平四郎盛興を相伴って軍を発し、白河の結城左衛門佐義親を巨魁として彼の地へ出張り対陣した。標葉郡手越の相馬弾正少弼盛胤や石川郡泉の石川大和守昭光が詮議して、双方に講を申し入れた。佐竹は初め同心しなかったが、下妻の多賀谷を攻めようとする北条氏政が近日小田原を発つと云う風聞を得て、義重は多賀谷を救うため盛氏との和解に応じ、互いに軍を収めた。太田三楽父子が一方の武将として南郷表に在陣したものか、和談が成って双方振旅(触れ合う事か)の砌に至って、蘆名の先隊佐瀬源兵衛とは無二の旧故であり、老後でもありることから今生の暇乞いにと面会した。この時の軍であろうか出陣の前に祈願の書を八槻へ。大善院の藏に

   

      
   

 

  









  

    






   

  








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白川古事考 巻ノ四 後編 廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-16 11:46:41 | 歴史

 白川古事考 巻ノ四 後編

 その1

一、板橋村農家の古記に「流伊豆守治行は奥(州)石ノ巻という処に親者(親戚)があり、彼の計らいでその親者から『飛び入り』という名馬を求めた。この馬は頭が黒く胸腹は紅の如くで、所々に島のような白黒の色がある故に飛び入りと名付ける。治行はこの馬を義親に参らせると上野入道は大変喜び、類い希な名馬は武門の宝であるとして、郷主馬介、岡部民部、菅生隼人正、芳賀和泉守を召して馬を見せた。小針半左衛門親利が馬の上手であるところから、彼を召して庭乗りするように言ったところ、菅生隼人が『この馬は一時に二十里を走ると見当て、君ばかり出馬いたして臣下が同じく奉らないのであれば(追い付いて行けなかったなら)反って危うい事になります。是れはお返しして然るべき』と申し上げれば、義親は尤もであるとこの馬を返した」

 元和八年関山の地主より出された書に、「天正十一年佐竹義宣出馬有之砌那須ノ薄葉備中守人数二千許りにて攻候へども、旗宿中野内松に於て佐竹勢手痛く戦い候故、那須勢敗北する。備中守も那須へ立ち返る」(按=那須記を考えると、天正十一年頃の佐竹と那須は不和であり、戦争絶え無い時である)

一、板橋村農家古記に天正十六年の春(古記に記すところ只天正十六年の事ばかりではなく、それ以前のことより記して「白河記」と同じ事を別の人の手によって記したものであり、異同があるので全てを記して置く)
 佐竹は赤館、東館、流館へ向かう。その経緯を聞くと、先年佐竹義重の領地である常陸国太田の境を、東館讃岐守(白川の臣北讃岐守のこと。東館に居する故に斯く言うのであろう)が押領したことを遺恨にして白川へ攻め来ると云う。(此れは佐竹白川の確執の始め、永正の頃よりの事であろうか)数カ所の館々を攻め落とし、赤館を本陣として上台ガ原(今、棚倉の北に有り堀切の跡がある。上台村は今、棚倉新町へ人家を移す)数百丁を掘り切って陣を取る佐竹方、竹貫勘解由(竹貫三河守の臣水野勘解由左衛門のことであろう)渋江(渋井)内膳、小田帯刀、山本勘兵衛、水野隼人助、武田信濃守その勢三千余騎の佐竹勢が赤館目指して集まる。
 
 此の事が白河に聞こえて義親が出馬される。従軍は家の子郎党で斑目十郎廣基の子能登守、郷主馬介、芳賀和泉守、和知常陸介勝昌、菅生隼人正、この五人は家臣なり。大名分の諸侍には河東田上総介、流伊豆守治行、岡部民部少補、大塚越前守、菅生舎人、双石主馬介信広、舟田入道真海、硯石大学正伊(穂積大学棚倉赤館落城後硯石村に居)、本沼下野守、大和田主計、その外諸侍に遠藤八郎大夫、青柳対馬、小針半左衛門親利、鈴木弥六、熊田兵庫、板橋将監、大塚左八郎、中宿将監を始めとして二千余騎が評定して郷渡しを越え、逆川という所(今の逆川村と云う所)を挟んで陣を取る。先陣の硯石大学正伊は上台より攻め入り、赤館の陣所へ向けて散々に戦う。この時佐竹方では所々館々に兵共を遣わしていたので、赤館には漸く三百余騎を出ない数であったため、散々に打ち負けて八槻という所まで陣を引いた。

 正伊は勝ちに乗って追いかけ寺山という所に至った際に、何処よりともなく鏑矢一本が飛んできて弓手の肘に当たった。正伊は上台の出張りへ引き退く。この大学の先祖は紀州藤代の主であった鈴木三郎であり、四男の四郎兵衛と云った。同国穂積村に住んで今でも定紋は稲穂に丸である。十三代の祖穂積孫太郎正光以後は代々結城の臣である。

 大学が上台に引き退いた後、佐竹勢は又郷渡しへ打出て陣を取る。(白河方が)評定したのは藤ノ川大沼の辺りに伏兵を百騎余り回して置き、佐竹が橋を渡り坂下まで切り出すなら味方は坂より陰へ引いて、敵が勝ちに乗り追いかけて来れば、その間に伏兵共が藤の川の橋を引いて来て一度に矢前を揃えて射るがよい。的が後へ引けば川岸に忍んでいた伏兵共が、一文字に射向かうべきであると評定極まって、小坂を前に当て控えていた(今の合戦坂である)。然る処で竹貫勘解由左衛門安政は武勇に長けた者で、藤ノ川の坂上に登って坂下の双石主馬介信広目掛けて戦う。信広は川の深瀬へ馬を乗り入れ、終に討ち死にしてしまった。義親は此れを見て一度に切り掛かるが、兼ねてより示し置いた事であり、坂半分より引く風情を見せると、佐竹方は勝ちに乗り追いかけて来る。考えた通りその間に伏兵共が藤ノ川の橋を切り落とし、時の声を発した。坂駈けよりも味方の兵共が時を合わせて矢前を揃え、詰め掛けて散々に射たので佐竹は叶わず引こうとしたけれど、橋が無ければ渡ることも出来ず、川へ逃げ陥れて死ぬも有り、二時ばかりの間に二百三十余人討ち死にの敗軍として引き返す。白川方には討死が三十八人であった。

一、同年三月六日佐竹は阿武隈川に沿って攻め登り、百目木(とうめき=舟田村と田島村との分かれ路の所で安永の頃迄農家二軒あった。今に館跡あり)と川を隔てて向いの本沼村の八幡館を攻め落とし、白川へ迫ろうとしていた。百目木修理亮が此れを見て一大変だ、この大勢が白川へ時を経ず攻め寄せれば、結城の存亡は計り知れない。我が此所にある限りは容易に白川へ寄させるものかと舟田入道真海、その子與十郎友純を我が館に入らせて、我が身は僅かに家人五十余人を従えて道を遮り必死になって戦ったが、敵は大勢であるから叶わず、その夜の明ける頃には深手を二カ所負って、漸く松林庵の門前まで退き其の処で終に死ぬ。(松林庵は今の搦村松林寺のことで、此の地の東の坊の入りと云う所である。天正の頃は早松林寺と云ったと古記にある)法名を春栄武船居士と号した。妻は芳賀和泉守の娘であったが、夫の死を聞くと時世の和歌を詠じて自殺して死んだ。(和歌が見当たらないのは惜しい)年は二十七才であった。夫ともに恥じることのない烈婦である。

一、何れの年の戦であろうか、佐竹より白川を攻めるときに、石川郡白石村の城主白石相模守晴光が、白川へ加勢すると向井主殿という者を遣わした。その帰路を伺って佐竹五百余騎が主殿を討ち取った。土人はその屍を埋めた地として主殿塚と云い、今下野手嶋村の北方にこの塚あり。相模守晴光も佐竹に亡ぼされて、今は城跡に八幡宮を勧請している。城内に向井郭本田郭と云う屋敷跡あり。
 按=竹貫郷入山上岡部次郎左衛門が天文天正年中、軍学の書を蔵したが、伝来の次第に白岩治部朝長と花押を署してあり、この晴光の一族が付録として考古の人の便に資するよう残した。

一、白河七郎の家伝に、佐竹の臣和田安房守(赤館に居る)の計策によって義親は常州太田へ虜となり、後に出家してその罪を謝され不説齊と号した。
佐竹の赦しを得て再び本国白川へ帰り、義顕と和睦して義親百年の後には白川の城を義顕に渡す事を契約した。義親より曷食丸と云う人質を出し置いたようである。二本松町松本新蔵と云う者の藏に

    

 また同人の藏に

    
 文中「八丁目」は政宗の臣、伊達兵部大輔真之が居する。太郎左衛門は安達郡四保松の大内備前の子である。会當とは会津と田村であり、南方は北条である。此の節、奥州までも北条と手を合わせて佐竹を挟み打つ事から南方と称するようになった。白河も田村とともに北条へ興し頃(日偏に之)の書、仙台白河家の藏に
(田村から白川への書状)

   

(添え書き=関宿の梁田、下妻の多賀谷、常に北条と佐竹の間にあって、双方に苦しめられたようで、白川の佐竹と芦名の間にあるのと同じである)
以下氏康が白川への書状の中に、景虎が岩付陣を追散して、利根川端まで軍を進めたこと、謙信と佐竹の合力で北条を攻める動きなどを記したものがある。

   

一、会津四家合考に「芦名亀王丸天正十四年十一月卒、翌年老臣が寄り合い養子の事計る。伊達政宗の御舎弟こそ宜しかろうと云い、金上盛備、沼沢出雲守、渋川助左衛門等は佐竹義広が然るべきと言って詮議不究。白川結城七郎義親は幕下と云いながら、殊に盛氏の婿であるところから何につけても等閑ならず中(幕内)に居て、『誠に伊達も良いが佐竹義広を養子に乞い請けてこそ事は宜しかろう』と異見が有って、程なく彼の人を会津へ迎え取る」とあり。義親は近年佐竹に手痛く攻めつけられているので、義広を取り持って佐竹の心を取ろうとしたのであろう。

一、或る家の記録に「芦名亀王丸天正十四年十一月卒、翌年老臣が寄り合い養子の事計る。伊達政宗の御舎弟こそ宜しかろうと云い、金上盛備、沼沢出雲守、渋川助左衛門等は佐竹義広が然るべきと言って詮議不究。白川結城七郎義親は幕下と云いながら、殊に盛氏の婿であるところから何につけても等閑ならず中(幕内)に居て、『誠に伊達も良いが佐竹義広を養子に乞い請けてこそ事は宜しかろう』と異見が有って、程なく彼の人を会津へ迎え取る」とあり。義親は近年佐竹に手痛く攻めつけられているので、義広を取り持って佐竹の心を取ろうとしたのであろう。

一、或る家の記録に『伊達政宗は佐竹常陸介義重、芦名平四郎義広、岩城右京大夫常隆、相馬長門守義胤、白川七郎義親、石川大和守昭光、大崎左衛門督義隆等と取り合い(戦)仕る所、天正十六年権現様総無事御取(おんとりあい)然るべき由、秀吉公御指図に従い以て御使者を政宗へ仰せ下されて御噯遊びくだされると思し召され候処、奥州安積郡にて佐竹義重、芦名義広と政宗が対陣の節、岩城常隆が無事に取扱い相馬義胤、白川義親も和議する』此の時高倉合戦は四家合考に載せ、久保田合戦は仙道表鑑にあり、共に白川の人数出でたること見えて、白川の人数の戦いを詳しく記しているので、是を以て此れに録する。

一、会津旧事雑考、天正十七年白川義親、石川昭光が伊達政宗へ降るとあり。
   按=此の節白河郡三城目村東光院景政寺の僧は、政宗の意に叶い頗る軍国の㕝(?)に預かっていたらしく、その寺に石川昭光の文書を蔵する。

   
一、板橋村の農家旧記に『斯くて須賀川も落城に及んで(須賀川は二階堂盛義の後室が伊達政宗に城を攻め落とされた事を云う)討ち漏らされた者百余人が大里村(岩瀬郡の内にある)牛ガ城に籠る。佐竹より水野勘解由左衛門安政同隼人助、河合甲斐守竹貫中務少輔(此の二人須賀川落城の時既に討死しているので此れに出すのは誤りである)を大将として、都合六百余騎で楯篭る(二階堂後室にとって佐竹義宣は甥であり、岩城常隆の聟であると、或る家の記録に出ている)と聞いて討手の大将田村中務大輔(四家合考には石川昭光とあり)諸侍三十騎雑兵百余で大里へ向かう。

 白川より加勢として郷主馬介、岡部民部少輔、芳賀和泉守、大塚左八郎、菅生蔵人、益子駿河、中宿監物、双石左近右衛門、舟田真海、青木半左衛門等義親加勢として田村の旗下に属した。籠城には此の由(加勢)が聞こえたので大里の山上まで出張る。先陣松本讃岐が山陰より切り入って水野隼人と暫く戦っていた。中務がこれを見て味方の勢を一度に駆け入り、逆寄せするよう下知すれば、田村勢も白川勢も一度に山陰より攻め入って散々に戦い、双方手負い討死数十人となった。

 過ぎてみれば佐竹方は多勢であり、叶わずに矢田野下野カ館まで引き退く。(矢田野に僅かな館跡あり)田村方にも侍百七十七騎が討死し、白川加勢の兵共も手負い討死十一人で悉く敗軍となって、田村は政宗の本陣へ引いていった。
 按=此の戦いは他の書には載せていない。翌年矢田野伊豆守が政宗の供をして小田原へ登り、底倉より逃げ帰るのであるが、大里に楯篭ったその軍は、四家合考藤葉栄衰記に載せてある。その時は白川の加勢の事は見えていないので、此の書には載せず。矢田野は須賀川二階堂の親族にして、矢田野大里等を領して矢田野を氏とする。

一、四家合考に『政宗は須賀川を攻落とし四十余日逗留されている内に、白川義親は那須ノ境関和久と云う所へ俄に要害を構え、人数を入れ置いて警固の勢を政宗に乞うた。政宗は伊達成実の手の者を分け出すべく下知をする。
 按=これは佐竹より那須を語らい(働きかけて)須賀川の仇を報いるだろうと見て、人数を出すべきだと慮って要害を拵えたものである。
 今の地理を以て見れば、関和久那須の界は四里も隔たっているが、佐竹は何時も此の筋より兵を出しているから、此の地に要害を設けたものであろう。
須賀川を石川昭光に恩補して(手柄に報えたか)政宗は黒川へ帰られた。

一、東太平記小田原陣の時、義親の一族中畠上野介が義親に諫言したのは、秀吉公鎮西南海北陸に威を震っている事は、五、六年の間聞き召した事であります。殊に今度坂東一の大名北条の一族も滅亡の期が近づくと伝えられる由も承っています。殿にも日を置かずに小田原へ御越あって秀吉公の御味方に属されることが当家中興の先表われに存じますと申し上げれば、義親は「我もそう思いながら家貧なれば行程の費、土産の品も沙汰し難く、徒に時日を移している」と云う。

 上野介申し上げて「此度の御ところ(古の下に又)の間は、旅費土産料は傍輩の面々に課役を掛けて調えます。先の土産の品は、秀吉公も遠境の御陣中であるから、米二百俵を献じられて然るべきです。その内の百俵ほどは某が調えて進ぜ、その余り百俵は傍輩共が調えます。但し遠地の旅程苦労に思し召されるなら、恐れながら某を御代官として罷り上がり、申し宣べることが叶えられますなら」と言い出したが、義親は同意せずに傍らの近習を集めて此の事如何かと談せられる。

 面々兵糧の運送の課役を厭がって言を巧みに申すことは、「今この乱世ですから諸民は草臥して貧しております。白米二百俵の課役運送の人夫費も莫大であります。その上彼の(中畠)上野は尋常を越えて利口第一の人でありますから、御代官にこと寄せて秀吉公御前で如何ように申し上げるか計り難いです」と申したので、(以下は四家合考の文である)義親は政宗に頼んで、使者一人を添えて「海松黒」と云う馬に逸物の鷹を添えて太閤へ進ぜられた。が、政宗は子細を承知して某の事は良きように披露するとして、会津を立って小田原へ登っていった。政宗は思いの外太閤より御不審を蒙り、底倉という山中に蟄居されていたが、身の上さえも案じられて煩わしく、義親のことは一向に沙汰もない。あまつさえ義親が太閤へ進ぜられた馬鷹も政宗が自身の土産と披露して、義親が上らせた使者を政宗御辺の事と、随分良いように太閤へ申し上げたものの、陣中の動きが如何ようになっているのか、未だ明らかでない上御沙汰もなく、結局、政宗身の上さえ云々の次第であるからと、言を返し遣わされた。委細の沙汰は向後承って、後より申し遣わせると白川へ下されたので、義親は誠であると心得て所領安堵の事は子細もないと政宗の下りを心待ちして日を送っていた。

 ところが政宗は会津仙道を没収せられ、本領ばかりは安堵されて下られたが、義親の許へ使いを立て御辺の事を強く申し上げても如何なる子細なのか一向に御沙汰に及ばず、結局我が身の上さえこの様に罷りなったのだから此の上は力も無い。御辺その城の住居も如何になるのか、一先ず何処かの地を開いて居住し、他日殿下より御赦されて後に復されるべきと案外のことであったので、義親は如何にしようかと思案して太閤の御辺に出てお詫びを申し上げたが、許容無く領地を没収されてしまった。
 按=土人所伝ではこの処に少し異同あるとしても、皆此の時始めて白川が太閤へ通わせた如く云っているが、その前に通わせた文書を仙台の白川家に蔵す
る。 
                    
   

  
                                                     

 この文によれば白川の改易は御迎えに出なかったことだけではなく、他に子細あり。東太平記、白川記等に記されるのは一端であり、詳らかではない。




巻ノ四後編 その2

 不説祚(訴)  人情
 義親は城西の金勝寺と云う禅刹に忍住して居られたが、(小峰)城を賜わった勢州人(伊勢)の関右兵衛尉が使いを立て、「由緒ある御身が地下に居られては下郎の推参も覚束ないでしょう、一先ず何れかの地へお退きいただきたい」と申したが余りにも痛々しく思われたので、公儀を恐れ斯く申し入れたのですと云って送る際に、義親は「某も左様に思っていたけれど暫くの間、住所を求めている内に延び延びになってしまった。近々立ち退き致します」と云って、那須の内湯本と云う所へ移られた。

 さて義親は累代の所領を離れ、古郷の青澳川(阿武隈川)に澄んだ月も如何かと萬(よろず)越方のことも懐かしく、それとなく往来の旅人に紛れて白河へ行ったが、関川寺は結城代々の墓所であるゆえ、得峯和尚に見参して今昔の物語をしていた。その内に義親に志しを抱いた郎従の先手より、地下に忍んで居た者共の方へ此のことを知らせると、十人ばかり酒肴を持参して関川寺へ参られた。始めの程は静かに忍びやかにあったが夜が更けるにつれて声高になり、哀れ世の騒ぎにもなってきて、『某(それがし)も一方の大将を承りたい。我も御為に思いを曝したい』などと、今すぐに企てをするような物言いであった。

 ここに小峰寺の僧が還俗して関右兵衛尉に奉公している者が居て、関川寺の喝食と馴染になりその夜も忍んで来ていたが、義親御座しているとあって潜めいて話をしているので、詮方なく仏壇の下に潜り込んで件の者共の話しぶりを聞いていたが、さては此の者共は謀叛の企てをしているのだと決め込んで、右兵衛尉に告知して恩賞に預かろうと思い、執事者方へ行った。執事者方に「昨日、謀叛の談合を聞きました。始めより承っています。先ずは住寺得峯を始め、武士には斑目信濃、遠藤某等であり、地下には当宿検断土橋但馬、星参河同じく孫三郎、矢部主税と申す者です」と談合の始終を真に迫って語ったので、皆は悉く絡め取られて終には首を刎ねられ、三十三間堂の前(今の桜町の端に昔三十三間堂があったという。今に小字となる)に獄門さらしとなった。

一、蒲生氏郷下向の後、関川寺へ所領を寄付されることあり。その子細は氏郷が未だ伊勢に居た頃、此の奥より馬を求めて上られる時に、白川にて難渋の子細があって滞っていた折、得峯の口入れで通された事もあり、此の馬が逸物であるところから氏郷秘蔵の馬として、関川寺栗毛と名付けられ、管領の地となった後に旧恩を思い寄せられたものである。

一、世俗の言い伝いに、昔此の地に毒蛇が居たのを、関川寺の住僧が法力を以て調伏した事を喜び、銭百文の内より四文ずつ往来の者より此の寺に納めたと云う。四家合考には太閤秀吉公の時、所々の関の役目が破れたので関銭を改め、川の字の関川に作ったとある。然しながら是より先に結城直朝の法名関川寺殿と云う、直朝の菩提所の為に営んだ寺であって、関銭というのは伝い混じりである。
今、関東では我が地に至る迄九十六銭を百文とするのは、天文の頃上杉憲政の家老長尾意玄が通用に利便だとして、関東の国々へ令して九十六文を百文とした。白川は関東に隣接しているので白川迄は省百文を用いたのであろう。



   結城氏庶流
盛廣=結城摂津守入道道栄と云う。白川の内数か村を領しその族系を詳らかにせず。証拠文書の文保二年の書に見る。後に坂東武家に属し亡くなる。

祐義=片見彦三郎は上野介宗廣の代元弘三年宗廣請け文に見る。鎌倉に在って義兵を挙げ北条高時を討つ。白河郡に片見村があり、祐義がその地に在った故に名乗ったものであろう。子息もあったようであるが後のことは詳らかならず。

廣尭=但馬与七左衛門尉と云い、白河郡田島村清光寺の開基にして清光寺殿鉄関宗無と云う。位牌今に存有する。牌子に「廣尭前常陸國住篠原城也延慶年中本領七ヶ村、知行高一万三千石而同年中陸奥住
田島城也元弘三年依』とある。
後醍醐帝の詔にして兄結城入道宗廣並びに一族相共に相州北条入道高時を征伐して軍功あり。暦応元年二月二十日卒と書してある。墳墓も寺の後ろにあるが、古碑多くの文字を滅している。子孫は天正の頃まで田島村を領し、結城ノ臣として田島信濃守と云う忠義を結城義顕に尽くしたことは「義顕」の條に見えている。此の信濃守の前に与七左衛門尭重と云う人が板橋村旧記に見えている。

 親光=太田判官又は結城七郎左衛門尉とも云う。親光の代であるが太田と名乗る事詳らかならず。常陸国太田を領したのか其の頃白河より常陸の内を所々領していた。親光は兄親朝とは打って替わり、和田、楠にも劣らず忠を尽くした。太平記元弘二年秋、畿内近国の凶徒が蜂起する由を注進する。相模入道大いに驚き一族その外を東八カ国の中に、然るべき大名を催して差し上げた。その内に結城七郎左衛門も加わっている。

 同三年四月後醍醐帝は伯耆国船上より人数を差し向け、京を攻められた時に両六波羅は度々の合戦に打ち勝っているので西国の敵は恐れるに不足と欺きながら、宗徒の勇士と取り憑かれている。結城九郎(七郎の誤りであろう)左衛門尉は敵になって山崎の勢に加わると見えている。同月二十七日には八幡山崎の合戦と兼ねてより定められていたのを、官軍これを聞いて難所に出会って不慮に戦いを決せよと、千種頭中将忠顕朝臣は五百余騎を赤井河原に控えられ、結城九郎左衛門尉親光は三百余騎で狐河辺に向かうとある。

 北条悉く平らげての後、六月六日東寺より二条の内裏へ還幸の時、親光御供仕った。竹内慈厳僧正を召されて天下安鎭の法を行なわれた時には、甲冑の士四門を固めるがその警固には結城七郎左衛門親光、楠河内守正成、塩谷判官高貞、名和伯耆守長年であった。大塔宮を流罪に処せられる時、宮御参内されたが、結城判官、伯耆守二人が兼ねてより勅を承る用意していたので、鈴の間に待ち受けて奉捕した。又西園寺大納言公宗は北条刑部少輔時典を大将として謀叛の企てありが露見したからには、結城判官親光、伯耆守長年を差し副えて大納言公宗、橋本中将俊季並びに文衡入道を召し捕って参るよう仰せ下されて、勅宣の御使い其の勢二千余騎が追手搦手より押し寄せて取り巻いた。

 俊季朝臣は退いた後の山より何地へともなく落ちて行った。公宗卿と文衡入道を召し捕って、文衡入道を結城判官に預けられ三日三晩の拷問に付されて、残すところ無く白状した。この頃天下に唱えられたのは、結城、伯耆、楠千種、頭中将を三木一草と云われ、朝恩に誇れる人々だと記されている。建武三年正月足利尊氏が関東より攻め上がった時、親光は新田義貞と共に大渡において東兵を防いでいたが、叶わずに引き退いた。建武年間記に恩賞方番文と云う下に、親光 太田判官 と見えている。朝廷の要職を務めていたものか梅松論に親光討死の事を記して曰く(太平記と異同あり、梅松論が詳述しているので記す)

 建武三年正月十一日午の刻将軍都に攻め入り、洞院殿公賢公が御所に御座していたが、降参している輩は注進する暇も無いところに、結城太田判官親光が触れ回って忠臣の義を表したので、見る人は勿論のこと聞き伝える族迄も賞賛しない者は無かった。十日の夜山門に臨幸の時に追いついて奉り、馬を下りて兜を脱ぎ御輿の前に畏まって申し上げたことは、「此の度官軍が近く鎌倉へ攻め下るも、太平を致すべきところにも無く、天下がこのような成り行きであり、併せて大友左近将監が佐野において心変わりしたこともあり、故があるにしても一度は君の為に命を奉るべきと御暇を給わり、偽りの降参をして大友と打ち違え、死を以て忠を致すべきと思い切って下賀茂より打ち帰ったけれども、龍顏を拝し奉らんこと今を限りと存じますれば、このように引き返して来ました」と不覚の涙で鎧の袖を濡らした。

 君も遙かに御覧して送り、頼もしくも哀れにも思し召したので御衣の袖を絞られていた。去る程に東寺の南大門には大友の手勢二百余騎が打ち出てきた。親光一族益戸下野守(関八州古戦録に、益子は竹内大臣苗裔大納言紀古佐美十五世、紀八郎貞頼が始めて常州信太郡を賜わり信太庄司と称し、子孫連綿として今の益子紀四郎重綱に至る。

 四万三千石の所知を領している《天正の頃の事である》)家人一両輩召し連れ、残る勢は九条辺りに留め置いてから大友に付き偽って降参の由を言うと、大友は子細に及ばずと言って東の洞院の小川を越えて打ち連れて行くところで、大友が「将軍の御陣に近いので法によって御具足を預かりいたします」と言ったので、親光は「我ら御味方に参ったからには、やがて一方をも仰せを蒙り忠節を致すべきもの、戦場において具足を差し出すことの面目なし」と云いつつも、「御辺を頼り奉る上は恥辱とならぬように計らってください」と云って帯びた太刀を差し上げて川の西へ渡る時に、大友が「ご対面の後にお返しします」と言って太刀を受け取ろうとするところを抜き打ちに切り掛かった。

 大友は隙を与えずに駆け出しながら切り合ったので、親光はその場で討たれてしまった。同じく親類も十余人が一所に組み合って討死する。大友は目の上を横様に切られたが、大事な場合なので鉢巻きを頭にからげて輿に乗り、親光の頭を持参して参上した。事の次第は誠にゆゆしく痛ましいと見えて、「親光の忠節を尽くした最後の振り回し姿は、昔も今もそう有るものではないと覚え。弓矢取る者は皆天晴れな勇士であり、誰もが斯く有りたしと涙を流し讃えない者はなかった。益子下野守も討死し、大友は翌日になって死んだ。(関城書に其の跡の続きがあり、『忠と言えば親光の子孫もあるのでは?その名の聞こえないのは恨むべきである』と、太平記二十四巻に結城太田三郎とあるのは親光の後か)

朝常=結城三河守と云い親朝の次男である。高野郡に住んで居たと見えるが、本朝通鑑に此の人は小峰を名乗るとあり、才略は兄の顕朝にも優るほどであったらしく、文書に因って見ても本家白川よりも盛んだったように覚える。祖父や父と同じく南朝へ属していたが、後に父と同じく武家へ興した。その始めの文書、水戸結城家に蔵する。

    


 桜雲記に「正平五年九月二十五日奥州白川の住人、結城三河守が兄大蔵大輔に叛いて、再び南方に属し北畠顕信卿に従い、石堂秀慶を討つ。十二月に於て(註=この十二月は翌年の正平六年)奥州五辻源少納言右馬頭清顕と石堂秀慶が合戦し、石堂等敗軍となる。尊氏卿より朝常を招く為に与えた文書が相来七郎右衛門の蔵にある。

 
 此の書の康永二年は朝常の父親朝が始めて南朝へ属した年月である。親朝の条に載せる大蔵少輔へ与えた康永二年二月二十五日の書と符合する。合わせて見ると良い。朝常が南方の志を強く抱いて、簡単には翻さなかったのではないか。右馬頭清顕等と共に策応したその返書が白河七郎の蔵にある。

   


斯く有るけれど後に武家として、懇ろに味方に属せよと尊氏卿から招かれる書あり。相来七郎右衛門の蔵する書には、幾度も叛いている者をも招かれる当時の事情は、これらの書を以て知るべきである。

   


 此の人は会津の内、又は名取の内を領する。白河七郎の蔵に



 朝胤=朝常の弟で讃岐守と云う。沙弥宗心の文書に、田村一族穴澤左衛門茂季の任官の事を論じて、朝胤等のことは他に準じてはならないと、衆に異なる事を論じている。また、仙台白河蔵には ↓



 満政=白川辺りの古事記とも云える冊子に、朝常の孫満政と仙道の諸将で、誓紙を書いて笹川殿へ奉った図がある。白川の嫡家よりもれた故は不詳。

朝修=修理大夫に任じる。後土御門院宣を白川七郎家蔵する。朝修系図にも白川の庶流に見える。文書等にも常州の方を領したことが見えている。一万句連には既に修理大夫とあるが、この文書に拠れば文明十三年は未だ左衛門佐であるから、後より追書したものである。

直廣=系図に結城の庶流とある。文明十三年一万句連となる。八溝山鐘銘(依上の部に載る)天文七年奥州白川大檀那藤原朝臣直廣とあり。八槻大善院大盤若箱にも天文八年に寄付があり、白川を領して嫡流に似ている。文明と天文にかけて五十年ばかり(嫡流を)隔てた。直廣が二人存在したのか、又は長生きしたものか盤若箱の銘は

  大檀那奥州白川藤原朝臣直廣  斑目

 本願高野郷八槻近津別当権少僧都淳良
        番匠草壁左惣四郎
        塗師薄葉 新六
  出日天文八巳亥八月十三日筆者太白山之正悟
  生母山長廣寺 八槻近津之宮大盤若

 盤若の筆者姓名は石川末孫皇徳寺住侶才雲正首座六十二歳天文六年戊戌十月二十四日より同九年庚子蕤賓下澣日畢
按=直廣庶流であり白川郡の南方を領したようである。文書に白川南殿と有るのはこの家へ送ったものであろう。

直親=小峰下野守と云い、系図に拠れば三河守朝親の男である。本朝通鑑に上杉へ興し成氏朝臣を攻めた時、将軍義政公より御教書を下されて戦功を励ましたことを賞されるとあり、御内書の写しもある。その前後のことであろう。

   

   
   

  存疑(疑問
 会津塔寺日記に「貞治六年会津南の山川路音金村と那須板室村の間、十文字原にて、白川の地頭石堂民部大輔能高と音金本九九布郷地頭星刑部少輔廣盛が合戦する。九月七日石堂利無くして帰る」とあり、石堂の白川地頭と云う事考えられない。同書に「応安三年出羽国人兼頼白川に住む。今年結城親政を討つ」とあり、兼頼は斯波左京大夫家兼の二男修理大夫兼頼である。足利家より出羽の国司として下られて最上氏の祖となる。結城親政については疑いも無い。

 又康暦二年五月白川住人小山義政と宇都宮基綱が戦い、基綱討死とあり。小山義政が白川に住む理由は無い。そうではあるが下野粟ノ宮神主小野寺氏所持の小山系図に、下野守義政陸奥国東海道七郡検校職とあり、白川に住んだとしても計り難い。東海道七郡は未詳である。岩城相馬を東海道と云っても六郡しかない、若しくは仙道七郡の事か。同書応永三年奥州田村刑部大輔入道淨入と白川結城小山刑部少輔義景が合戦し、田村が利無く退く。文明十一年に仙道五十峯城主石川氏謀叛により白川結城政親が正月十一日合戦とあり。五十峯(いじみね)は石川氏世々居城していた泉(いずみ)のことではないか。語感が似ているので誤るか。

 巻ノ四後編終り
 白川古事考 巻ノ四(全)

 


 

 




     
                                                                                                                                                                

   

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