一、忠平の嫡子下野守忠平は寛文二年家督を継いでから二十年を経て、延宝九年野川宇都宮へ移る。當武枝葉集には忠平を忠泰に作る。家紋は丸に立葵で童名は虎之助。承応元年十二月二十八日叙位五位下任下野守、其の後寛文二年十二月二十五日家督相続する。唐僧高泉禅師法苑略集に「謝本多下野守齊」と云う題で文書あり。
一、松平下総守忠弘が本多家の跡へ封を移す。此れによって江戸に在る家中の奥平金弥と黒屋数馬の双方が、老職二つに分かれて家は不治の騒動に到る。此の事が上聞に達し綱吉公の厳命によって、数馬が願い出た通りの忠弘の孫左膳を家督とし、封五万石を削られて十万石となり元禄五年、羽州山形へ移された。老職二人は例外の罪によって遠島となる。(此の始末を詳しく記した書物が有ると聞いたが、未だ手に入れていない)君臣言行録の諸国御城米の高を記した中に、「五千石奥州白河松平下総守」とある。
松平大和守直矩元禄五年入部、同八年四月十八日卒去。此の人は正しい人君で和歌を好み、初めて封内に入った時に詠んだ歌として
白川の関守神の我まちてちる紅葉はをとめて見すらん
今の圓妙寺の後山に葬る。その時は泰陽山孝顕寺と云う石塔に
前 空風火水地 天祐院殿鐵船道駕大居士
前和州太守従四位下行侍従松平氏源朝臣
直矩公元禄八乙亥歳四月十五冥逝亥當
後 此時領知白川小峰城故修造此塔以建置此地亥
典註=結城秀康卿の法号始めは孝顕寺殿と云う。後に淨光寺殿大和守殿結城家相続故に孝顕寺の菩提所を建てられたのではないだろうか。
一、其の子大和守基知が跡を継ぐ。當武枝葉集に幼名久太郎、此の人性質寛然と温和にして貪る心なく老母孝心深く、常に馬を好み下賤を近づけて愛心あり。斯くして性質美なりと云っても、物毎に過ぎたるは及ばざる如く、江戸往来の節は多くは馬に乗って馬上から左右を見、近くの士に話しかけながら往来する。君臣の親しみは非難するものでないが、諸侯の身を以て軽々しくするのは似合わない。
享保四巳亥年の冬より白川領の百姓が揃って一党し、翌年になると徒党が更に増して都合一万人ほどにもなった。訴訟を起こして大手へ詰めかけては、郡奉行杉浦徳左衛門を此方へ渡し下され、五分か一寸ずつ切って我らが此を食い本望を達しよう。その上で遠流死刑如何様とも成されるべき、と声を合わせて大願を叫んだので、家老と郡代は甚だ迷惑して、種々に扱うと云っても納得しない。後には数万人の土民共が赤裸になり、乞食非人の体となって城下往還の海道に拡がり、徳左衛門を渡せ!杉浦を渡せと大声で叫んでいる。若し徳左衛門を見かけようものなら鎌鉄で打ち殺される気色であるから、杉浦は勿論その外の諸士どもは登城することも出来なかった。往来の人馬の姿もなくなり、旅人も途絶える様となって穏やかでない状況が隣国までも伝わった。
動乱の本を尋ねれば、基知は近年殊の外家計が逼迫(ひっぱく)して、領内の百姓に課役を掛け収納を殊の外厳しくした。その上、出頭と云う役の土岐半之丞は政務を専任にしていたが、初めからの郡奉行や村方役人は百姓に贔屓して手ぬるいと、悉く役を取り上げて自分の気に入る者を跡役につけた。御為と云って収納を増やし、その上何とか米と名付けて一俵につき何升の余計を収めさせた。百姓が難渋したから訴訟したのであって、奇怪な取り計らいである。そうだとすれば向後は、納米に赤米一粒籾一つも交じるなら手を抜いた曲げ事と云うことになってしまい、百姓どもは大いに怒りながら盆に米を載せ、一粒づつ選び出しては搬出を遅らせるのだ。
冬となっても不納した不届き者と、その頭を取りなして百姓を捕らえ、牢に入れたことで総百姓が徒党に及んだのである。その後吟味の上土岐半之丞はお気に入りとなるものの、高縄猿町の下屋敷に蟄居を言いつけられ役儀も除かれた。杉浦徳左衛門も在所に禁牢となる。両人斯くなって百姓どもは本望と思い、怒りが静まった。基知は享保十四年八月十四日、五十歳で卒去する。石塔は直矩と同所にあり。
前 空風火水地 佈高院殿実性英堅大居士
前和州太守従四位下侍従松平氏源朝臣基知公
後 享保十四年巳酉天八月十四日冥也壽五十有一歳於
江府逝此時領白川小峰城故棺槨移于莅以造
立此塔於泰陽山中亥
一、松平大和守義知が継ぐ。また家中騒動あり。その節の書き付けに、享保十四年閏九月二十五日本家松平兵部大輔殿へ駆け込んだ九人の使者、庄司一平(西尾十蔵手代)、行方庄助、生沼十之丞、西尾十蔵、この外五人。
右の者は大和守様御家に奸曲の者が上に立ち、家困窮に及んで諸士難儀に到る。依って右の趣きを大和守様へ申し上げます。奸曲者は罷り出ても中々お聞きなさらず、右の者共は私式(法によらないで)に及び、面々殺害されようと身命は毛頭厭いません。左様ではありますが御家騒動の時は却(しりぞける)されたので、不忠にも罷り出て兵部大輔様の御耳へ達し、奸曲者の申し立たないお仕置きが相立ちますよう願い奉り申し上げます。
右九人は兵部大輔様へ留め置かれて御馳走され、御一家寄り合いのうえ三日間ご相談された。
先月中頃給人(俸給者)七人が江戸御屋敷を立ち退き、兵部大輔様へ相詰めて願い有ると罷り出た。右七人は渋谷助四郎、渋谷権内、牧市郎右衛門、須藤金左衛門、斉藤勘助、蠏江戸弥太、生沼十之丞である。
白川の侍九人が立ち退いた後、(俸給者七人は)江戸貝塚の御屋敷へ罷り越して詰め寄った。白川において願人の足軽二十三組一同、給人その外徒士に至るまで都合四百六十人一同の願いと云うことで、その願いの趣は、上に立つ者が奸曲に構え、私欲を専らにして御家中の上下困窮極まり、殊に当御代が幼少の故に何かと上に立つ者が奢り甚だしく、江戸御在所一同に願い出たと云う。江戸御留守居は西尾十蔵手代庄司一平始め九人の願人共の面々に、何かと教訓を垂れていたが、嘗て頭取が用を申さずに者共の面々に云うことは、討ち果たして家の御為にすべきである、と言うに及び、公辺に除かれて御家の御為に定めを宣べないとあれば、兼ねてよりの申し合わせにより、渋谷助四郎が諸事死身で罷り越し、お諫め致したが、中々手に申し及ばないので髪を切るべきかと思いもしたが、結局家を立ち退いて前後の始末を申し上げる者も少ないので、是非も無く御家に罷り越した由を兵部大輔様へ申し上げるのです。
御一家様方が三日寄り合って御会議の上、公辺に及ばずとして左の通り仰せられた。奸曲の張本人御家老山脇権之助、此の方は当大和守様御家督の時に、公儀へ御目見申し上げたところ、浪人を仰せつけられずに白川にて屋敷に押し込まれ、諸士それぞれ役に応じて勤番仰せつけられた。十石(御用人)、豊田登五百石(番頭)、杉浦志津摩二百石、(御在所留守居)、山口宗左衛門三百石(奥納戸)、三神助之丞百五十石(小納戸)、早川伴蔵二百石(馬役)、三神八大夫三百石(留守居)、笹治官兵衛、この者は鑓具足を御取り上げ、大小その外の道具を下された。
一、登、志津摩、宗左衛門、此の三人は兄弟である。その内志津摩は先の大和守様御小姓立ちなので、別けて出頭された。志津摩が申し上げることは、先の大和守様は是非の差別無く御用成されたので、威光甚だしく十五万の御家中が靡(なび、く)いたと云う。
当月七日何れもお暇を下され、同九日の夜、兵部大輔様は右の西尾十蔵、庄司一平始め九人の面々を、大和守様へ御返し遣わされて、送る留守居飯沼官兵衛の御口上によると、御家中の制法は何時も御一家中様が寄合い、御相談で決まるとのこと。
公辺にも仰せられるに及ばずと、右九人の者共は今まで通りの勤務に別状はない。若し、ご自分がお咎めを受けるようなら、屹度此方からご挨拶を致します。と仰せられたので事も済んだ。(原文は高林源右衛門筆とあり)
義知朝臣寛保二年三月二十八日姫路へ移られた。其の跡へ我が先公が北越高田より移られた。
棚倉城領主
赤館の城を廃して棚倉城を作ると云う。
一、立花飛騨守宗茂朝臣、列封界傳に慶長五年の役で逆徒に属した為、翌年筑後柳川の城を召上げられ当城一万石を賜う。元和六年閏八月棚倉を改めて本領柳川の城十一万石に復する。
按=丹羽長重朝臣に至って今の棚倉城が新築されたので、宗茂の時までは赤館を廃せずに居住していたものと思う。
一、丹羽五郎左衛門長重朝臣、列封界傳に慶長五年加州小松の城邑を除かれる。同八年(藩輸譜には十五年)常州古渡一万石を賜う。元和五年一万石を増し都合二万石賜わる。同八年棚倉を賜い三万石を増す寛永四年改めて白川城十万石を賜う。
一、長重朝臣、赤館より今の棚倉城地へ移られる。今棚倉の地はイノ郷と云って、馬場の近津明神の社地であったのを今の馬場へ替え地して与え、此の城を築かれた。神主の願書の略記を今の二本松家中より得たのによると、寛永元年、御先君宰相長重公当所御領地の砌、近津の社地を御城地に御見立てなされ、社地引き替え仰せられる。重い御用であるから黙し難く、一千年余鎮座の地であるけれども御引替えの義恐れ奉ります。御普請のその節は棟札を別紙に写しなされて下さいませ。(棟札は神社の部に出す)
按=昔のイノ郷を棚倉と改めたのは、長重朝臣城築の地が近津明神のお玉棚を釣った地であったから棚倉と名付けた。寛永前に棚倉と記した物は皆追書したものである。又一説には元より高野郡笹原庄近津ヵ里亀ヵ城とも云う。
一、内藤豊前守信照、當武枝葉集元和七年十二月二十五日従五位下に叙する。列封界傳に紀伊守信政の子とある。
当国及び常陸の内合わせて五万石余を領し、寛文五年正月十九日卒、武家堪忍記に、棚倉に居城する。本知五万石新走地を開き運上課役掛け物あって外に二万石余、年貢所納五つ又は六つ並んでいる。五つを家中へ回し、四つを物となり江戸に在勤する人への年扶持、雑用銀として下す。國に獣魚鳥柴薪有り、土地は中である。因って風俗は不冝仕置法に順である。信照は文武少学の義を糺すとともに美女を好む。それ以外のことは不詳。
江城年録に、寛永六年大徳寺の沢庵と玉室が流罪の時、玉室は内藤豊前守がお預かりとなって、那須郡までは同伴したが大田原で別れ、沢庵は土岐山城守にお預けとなり上の山へ趣かれる。
上の山へ趣く離別の詩がある。
芳春老輿罹官事己俘囚自野下州大田原分路 (芳春=玉室)
芳春趣奥州赤館之配予趣出羽上山賦一絶以
袖裏之
天分南北鳬飛何日旧棲双我帰聚散無常只如
此世情禽亦有摳機
南崇堂頭臨離袖有尊偈謹奉汗芳韵
草鞋竹杖傍空飛旧院何時把手帰水遠山長猶絶
信別離今日己忘機
寛永十四年に至って御免となり帰られる。棚倉の何方に滞留したかは、今に至っては知人もない。
一、内藤豊前守信良、當武枝葉集に寛永十八年十二月二十九日従五位下に叙し、豊前守に任じる。延宝二年十一月十六日隠居。列封界傳に信照の子元禄八年七月二十三日卒とある。
一、内藤紀伊守戎(?)信、當武枝葉集に信勝とあり、実は内藤紀伊守信充の子。延宝元年七月十八日信良の養子となる。同十二月二十八日従五位下に叙し紀伊守に任じる。同二年十一月家督相続する。列封略伝に信勝、実は内藤紀伊守信光の子である。信充は石見守信広(紀伊守信政の弟)の子であり、信勝と信良は再従弟である。宝永二年四月二十二日改めて駿州田中の城を賜わる。此の紀伊守殿の時に造られた鐘の銘文に
棚倉城鐘の銘
陸奥国白川郡棚倉城者
従五位下兼紀州太守藤原朝臣戎(?)信君就封之地
也城上嘗以無漏鐘之具延宝年中初鋳鳬(掛)鐘掛
之楼上報六時告諸人朝驚暮誡是亦授人事之
一端而可謂盛事矣雖然微響窈雨不応東西小声
乗風不競南北諸民方以為憂焉事以聞之有
命再令鋳洪鐘鳬氏運巧良吏勤事大器漸成鯨青
含霜早開赤館之曙色鴻音応律遠入白川之開雲
農夫耕于田官吏走于衙利於邦家益於民物原始
要終再為此挙其功偉哉若夫長楽之花湘水之月
即待人之得筆而巳非今日之事也伏願
邦君之声名永輿此鐘共鳴于無窮銘曰
東奥の固 棚倉之城 虚業俶載 戞撃報更
模廊瑣々 微声鏗々 洪鈞再轉 大器晩成
一莛(庭)茲動 萬聴忽驚 官吏待漏 農夫服耕
工人興芸 商旅登程 君施仁政 臣竭忠誠
徳青無盡 公道善鳴 千載不朽 世々泰平
元禄十二巳卯歳五月三日
上石井村住 石川文左衛門 正重
冶工 同 七 兵 衛 正幸
同 同 五左衛門 正俊
小臣阿波小笠原末流
十河 玄貞義喬
欽欽誌
一、太田備中守資晴宝永二年当城を領する。(列封略伝には資重に作る)駿州田中を改め当城を賜う。
一、松平右近将監武元享保十三年より当城を領する。
一、小笠原能登守長泰
一、小笠原佐渡守長堯
産物
一、土人の多くは牝馬を蓄える。三四疋又は五六疋を累々と連ねて一人で牽く。馬の子も綱を付けずに親馬に従って往く。
親元日記、寛正六年四月十三日の条に
また仙台白河氏にも馬御所望の文書を蔵している。その頃の白河は善馬を出していたようだ。
八槻大善院へ白河より馬を献じた者が、帰路の過所を伝えているけれど、年代が皆異なっていることから献馬も度々あったらしい。田村の庄などでは年貢馬として献じたとあり、年々京へ献じたかは知り難い。秋田の白河七郎の藏に足利氏満卿の文書がある。
その他三四通が皆同じ体の文であるのと、長尾能景、神保彦五郎慶良の二通がある。能景が越後の人ならば神保も能登國の神保では?水橋岩瀬も北国か不審である。また朝倉義景の十七ヵ条にも、「家中の者、格別な良い馬が出てくるまでは、奥白川などへ人を遣って、馬を買い求める事の無いように」との一条がある。
按=奥は昔より馬を産出するという。上方は田畑のみで牧地が少ないこともあり、草野の多い奥羽のように馬が食べる水草も得がたいであろう。
一、「埋もれ木」大隈川より産する。何れの世の如何なる時に、土砂中に入った大木なのか、洪水などで崖が崩れて出たもので、鋸で切り開いて板にする。安積郡辺りの水底から掘り出す物は、香気があって、九年も経っているそうだ。柔らかく泥のようであり、取り出して乾かせば黒々と玉のようである。
家隆卿の歌
君か世に逢隈川の埋木もこほりの下に春を待つ鳧(けり)
藤原康元歌
ふかき秋逢隈川原しくるれと名こそはみへ子瀬ゝの埋木
一、「木の葉石」甲子山中に産する物は質もろく肌が粗い。小田川村の枝村に出る物は、質やや密で硯材に適するものの量が少ない。木の葉の形は楢の葉のようなモノが多い。
一、「金壺石」常世北野村の山より岩を掘って取り出す。その形は丸く沙石を固めたようで、とても堅く砕けない。内に沙の残余を蓄える異品とするか、中に水を入れれば自然の鉄漿となり、婦人の歯を染めるのに良い。
一、水精石(水晶)、鎌田村、戸倉村等より出る。大抵形は小さめで五六株ずつ峯のように立ち、座している。
一、上の関、河内村、中石井、渡瀬村等に出る古瓦、又石弩あり。
一、硯材、片貝村石ホッコと云う所より出る黒石である。また旗宿村白川の水中からも出るが、善なる者にはとても 得難い。
一、含水石、甲子山より横に連なる山、及び八溝山より出る。紫根桔梗は原野に多く、その他草木類は一々数えることはしない。
一、石綿、棚倉東にある仏坂の岩間より出る。色白く手で揉むと綿のようになり、切り傷に当てれば能く治す。
一、白土、大垬村より出、水戸領へ数百駄売り出す。紙を漉くのに此の土を使って糊を補い、また屋壁の上塗りに用いる。
一、赤土、小田川村山間より出す。その赤さは殆ど丹に類する。壁の上塗りに用いる。
一、茶、渋井村に多く茶を製する。宇治の製法を伝得したと云う。
一、煙草、竹貫郷は松川村の産。上品の銘を松川四軒と云うが、竹貫郷は都で松川の名を冒して売り出す。赤坂郷で産する物は下品であるが、水気の湿りを含み易いので、東海漁家に喜ばれて喫する。山本村の産は香気やや水戸赤 土の趣きあるも、多く産しない。
一、上石井村一村は古より鍋釜鐘の類、銅鉄の器を鋳造し、棚倉竹貫近辺は皆これを用いる。(八溝山の鐘は天文七年銘に大工石井静阿弥とあり)
一、「鉄鍛冶」中古には近藤治部大夫と云う者が武士の業を嫌い、今棚倉の西にある大梅村に来て鍬鍛冶を始めた。それより台宿村阿伽澤と云う所に移り、また北郷小貫村に移り更には川下村に移って、業は関東諸邦に広まって二十三程の鍛冶場を立てた。二百余年不絶とある。
一、「椎茸」松菌岩菌の類いで、南郷は八溝山、山本村、台宿村、伊香村、植田村、関岡村、真木野村、山下村、下関上関村等の山々に多く産する。
一、「寒晒し米氷餅」白川城より出す。大竹氏と云う者は結城の旧臣であったが、世々土着して此の製産を掌る。
一、新刀銘盡後集に白川の刀鍛冶を載せて、「南郷」は奥州白川の住人本多家の御抱えに至り、地鉄細かにして上手である。別けても直刃は三原に見紛う乱れ刃も有る。「朝廣」は孫左衛門と号して、右同所の作である。「兼常」は善兵衛と号して此れも同所の作であるが、多くは直ぐに刃を折る。今時にも手柄山正繁が我が藩に仕え、江戸邸に在って多く折っている。
一、「黄金」古では八溝山より出ると神社部に見えている。
仙道
天正の頃、芦名伊達など戦争を記した書に、仙道六郡という名目が所々に見えている。また仙道七郡とも云い、白川、岩瀬、安積、安達、信夫、伊達、田村を言う。然しながら田村の郡と云うのは近世であって、内六郡は一條の大道を経た所に在るが、田村は安積安達の東に位置して大隈川を隔てていれば、田村を除いて六郡と云う方が、良いのではないだろうか。白河もその一郡であれば、仙道の名目の起こりを人に尋ねたが、確かな説もなかった。
合類節用には仙道を山道と改書している。守山大元明王の鐘銘に「奥州仲仙道田村庄」とあり、応永十三年丙戌の刻である。
東鏡には藤原基衡が毛越寺を造立し、本尊を仏師運慶に作らせて謝物を人馬にて送ること絶えない、と云うのも仙道の事であろう。
奥相茶話記に相馬系図讃岐守貞治元年東奥海道の檢断識に補せられる、とあるのは岩城四郡、相馬二郡を海道と云っているのであって、救援文書(参考文書)の内には、東海道においても、高野辺や那須界においても(海道)とあるが、此の海道である。
臣(典)嘗て水戸へ行ったとき、一書生に聞いたのは「奥州へ趣くには白河より行くのを山道と云い、岩城より行くのを海道と云う」と、俗間においてもこの様に云うのであるから、古の勿来の関を経て至るのを海道とし、白川の関より入るのを山道とすべきである。因って仙道の仙の字は山の字の字義にして、出羽国の仙北を山北という字義に同じである。
白川古事考六巻 井上残夢翁自写
白川古事考巻の六終り
(現代語的訳)全巻 完
序を含めて全七巻を終了しました。文体に修正の余地もありますが、ほぼ全巻を掲載できました。
白河を中心とした中世の民間資料を集めて、広範にわたる事柄を編纂された廣瀬典翁の記録を、如何にして現代の言葉に訳せるかとの思いでしたが、旧態のままに残したところもあります。何とか終末巻に辿り着く事が出来たことで了とします。