老いると人は自己の内面化に向かっていく。若いときは他者と相対することで己の位置づけを探ってきたが、内面の構築によって洞察力が高まり、やがて社会に対する判断力を身につけて、何の迷いも無く、、、と云いたいところだが、ちょっとした異見に出会うと直ぐに信念が崩れて、液状化の傾向を辿るといった、砂上の楼閣時代が若年時代ではなかったか。人生は生涯修行の場だと云うから完璧に全うすることもないのだが、死を迎えたときに人の評価が決まるとは、なんともヤルセナイ。
人物の偉大さ、卑小さと云うのは確かにある。社会への貢献度や影響力が結果として評価される場合と、自分のことに汲々として他者の事など構っていられない場合とでは、評価は雲泥の格差となって子孫にも受け継がれるだろう。よい影響を与えて感謝されるか、迷惑ばかり掛けて憎まれるかで振り分けられてしまう。
最近は『人が死んだ後に魂は残るか』とか、『死という最後の未来』と題した本も出ている。後者は石原慎太郎と曾野綾子の対談であるが、内容については語る資格がない。読んでいないのだから、此所に載せるのも気が引ける。死後の世界については憶測で語るものはあっても、死を経験した者はいないから、全ては仮定の話である。臨死体験を語るにしても、死に際まで行ったが死ななかった人が語るものであって、死んだ後は音信途絶の無明空間に浮遊するだけの、いわば宇宙組成の原子レベルに収まってしまうのだから、物質としての還元だ。これさえも仮定の話であって、哲学者の書の中でも真面目に饒舌に仮説を述べているのだから、素人が含蓄を垂れても何ら差し支えないだろう。
『死とは何か』――魂は存在するか、多岐にわたるDr.シェリー・ケーガンの題目と解析は面白いのだが、何処か実体のない暗中模索の体で、胃の中に空気をため込んだ感がする。「血に潜む遺伝的過去の記憶」なんてのも一考したら如何だろう。