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白川古事考 単  広瀬 典偏 <桑名市立図書館蔵>   

2024-10-01 22:25:56 | 歴史
白川古事考 単 桑名市立図書館之印 広瀬 典著   
王代之考
抑我が白川の古に証すべき者を求めるに類聚国史、聖武帝神亀四年四月、陸奥国白河郡名取郡に新たに軍団を置くと見え、令義解には軍団毎に大毅小毅等云う官人立てられたる事見ゆれば、白川にも此等の官を置かれ又軍団の名目は唐書兵志に八天下十道置府六百三十四府士以三百□為団団有校尉と見ゆ。若し其の制は人数も三百人計りも置かれたるにや是ぞ我が白川の事、古書にも見え始めなるべし(旧事記国造本記白河国造の下□志賀高穴穂朝□世天降天田都彦命十一世塩伊乃己自値定賜国造とあり、又和□三方図絵孝徳帝御代白河の開き始まりたりと云う旧事記は偽書と云う説もあり三方図絵の云うところ出所も疑わしければ今皆是に注書しす)
典按ずるに是地を白川と名付けしは今の旗宿村古関辺りの前を流れる小流を白川と云うそれより起こりし名と云え伝えれば此の水より郡名となりし成るべし。又此の水を白川と名付けし由は詳ならず、古関辺りの西二里程に白川郡と下野那須郡との境を流れるに遂に下野へ入る黒川と云う川あり、白黒の差別によりて考証の便有るに似れども、黒川の名の起こりは久しからぬ事にて、会津若松を元は黒川と称せしを蒲生氏郷入部して、故郷の伊勢松坂を慕い改めて若松と名付く。その頃(天正四年)藤兵衛半十郎と云う小田倉村の百姓、此の川辺へ移り一村を取り立て若松領なれば究明をそのまま是に名付けしとぞ又土人の言伝に白川法皇我が白川の地を御覧になって、平安城の形勢に似ている故に白川と名付け給うと云い、地形は実に似てはいるが、名は昔より伝唱えればその説も非なり。)
 
 続日本記
元正天皇養老二年五月巳未「割常陸国之石城標葉行方宇多亘理菊田六郡置石城国割白川石背会津安積信夫五群置石背国」と有り石背国は今の岩瀬なり。此の境界は又幾程となく改められたようで延喜式には「白川岩瀬等皆陸奥国三十六郡の中」に収めている。和名抄に白河(之良加波國分為高野郡今分大沼河沼二郡)と之良加波を國に登らせて注書しているが人同書本文では白河を郡としている。又大沼河沼はすでに延喜式の郡名なるに是まで白川に隷属する事は不審である。又高野は下にも載せたる如く郷名であるのに、此の二郡と言うのはこれまた誤りに似ているが中册に引いた書にも郡名と見え、拾芥抄郡名にも見える事でもあり、延喜式和名抄本文には無いからと云って否定するものではない。同書白川郡の下の郷名は、大村、丹波、松田、入野、鹿田、石川、長田、
白川、小野、駅家、松戸、小田、藤田、屋代、常世、高野、依上
典(著者)按ずるに此の地名は多く知り難いこと。大村今村名である石川は別に郡名となり、小野は今、小野新町となっている。松戸は今松滝村とあり、小田は小田川となっている。藤田は今石川郡の内に地名あり、屋代は社郷と称する数か村あり。高野は今棚倉城の辺り、中古に高野郡と称したものである。その余は考え難し。

延喜式に載せる白川郡七社あり。都々古和気(別)神社、伊波止和気神社、白川神社、八幡嶺神社、飯豊比賣神社、永倉神社、石都々古和気(別)神社なり。大日本国一宮記に都々古和気は大巳貴(おおなむち)の男高彦根を祀ると見え(典按ずるに当時仙台にて塩竃を奥州第一宮とすれども、一宮記に我都々古和気ばかりが載せたれば是陸奥の一宮なるべし)
神名帳頭書注にも都々古和介は手力男命とあり、その余は祭る所何神なることを知らず、その神社の在る所は都々古和気は棚倉にあり、白川神社は今城下の鹿島なり。飯豊比賣は今飯豊用村の鹿島、石都々古和気は今の石川郡須釜村、八幡永倉神社は城北長坂村に在り、土人も顕わに永倉神社と言え伝え、「延喜より前類聚国史斉衡二年二月陸奥永倉神列於宮柱」と見えるので、七社の内では最古とみられる。伊波止和気は何地に在るか詳ならず、八溝嶺神社は白川郡の東南の隅に当たる八溝山という絶頂に在り、何時の頃よりか常陸の管内となり、その社の後より陸奥の地となる。但し延喜式に白川郡に列するのみならず、続日本後紀に「仁明帝承和三年春正月巳丑詔奉充陸奥白川郡従五位下勲
十等八溝黄金神封戸二烟以応国司之祷令採砂金其数倍常船助遣唐使之資「此の時遣唐使は大使は藤原當嗣、副使は小野篁なり」と記す。天文七年此の山の鐘銘(此の銘中巻に載せる)に常陸へ属する如ク識るす。又延喜式兵部省陸奥国伝馬、白川、安積、信夫、刈田、柴田、宮城、郡各五疋とあり、
仁明帝昭和二年七月三日勅諸国守介四年為限但陸奥出羽太宰府等在千里書来多煩不可更改とあり、此の御法久しく行なわれた事であるとして、そうだとすれば白川も其の支配のもとに年を経てきたと云える。権威が次第に下に移ると、阿倍頼時等が如き王命を拒むに至れば、東鏡に頼時南郡を掠め領し西は白川の関を境に二十四日の行程たり。東は外浜によって又十余日の行程たりと見え、又同書に中尊寺建立のことを記して寺塔四十余宇、禅坊三百余宇也清衡六郡を管領の最初に是を草創して、先ず白川の関より外浜に至る迄二十余日の行程なり。その道一丁別に傘卒塔婆を立てその面に金色の阿弥陀の像を配図したとも見える。(今白川郡旗宿村に土民の唱える一丁佛の碑が是なるべし)
典按ずるに土人の伝わる白川古伝記には、藤原清衡の子基衡鎮守府将軍として、その北乱国ゆえ奥州の入り口白川へ関を据えて野州を押さえ又、棚倉大垬へ関を据え常陸下総を押さえ、両所に明神を祭り関の明神と崇め奉る。是を白川二所の関と云うとあり、年歴を以て考えてみれば、関の始めは是より前に起こるに似たり、勢に依って察すると奥州の固めの為に設けた形勢にして天下の大形に預かるものではない。然しながら諸関の内には名も秀でて明の太祖僧無逸を我が国へ遣わされた時、僧が初の詩に白河関高玉縄下の句もあり、又和積
院の泊翁が谷響集に交趾の鬼門関の事を引きて曰く、日本風騒士以奥州白河関在東北隅称鬼門関蓋取名於交趾矣とあり、能因法師が『都をば霞と共に出でしかと秋風ぞ吹く白川の関』の歌は京都にて読んだものだが、此の歌詠みたるに此の地過ぎさらんは無念なりとて後に奥へ下りたり、とも見える。中古歌仙三十六人伝という書、武田太夫国行は『下向陸奥の時白河関殊刷之間人奇問其故答曰古曽部入道(能因法師号古曽部入道)秋風ぞ吹く白川の関と読まれし所なり、「争いとなりては過ぎる哉」と云ったと見えるので、能因も実際に此の地へ下り、国行も関路を過ぎたものと思われる。

拾遺抄兼盛の歌に、みちのくの白川のせきこえ侍るによめりける『便りあらばいかで都へ告げやらんけふ白川の関はこへぬと』
前大納言公任卿集にミチサタガミチノクニクタルニ女ノシキフガヤリケル歌ヲキキ給テ『今更ニ霞ヘタツルシラ川ノ関ヲハシメテ尋ヌヘシヤハ』
橘為仲朝臣集に(按ずるに為仲は治承の頃の人なり)十一月七日白川の関を過ぎ侍りしに雪降り侍りしかば、『人づてに聞き渡りしを年ふりてけふ雪すぎぬしら川の関』又同集に白河の関をいづるあいだもみちいとおもしろし、紅葉のかかるをりにや白川の関のなをこのかつ(数)はかりけれ
後葉和歌集西行法師の歌に、修行してみちのくににまかりけるに白川のせきにて月あかかりければせき屋の柱に書付け侍りける。『白川の関やを月のもるからに人の心はとまる也けり』(此等の歌は皆我が地を経て詠んだものなれば此に収めぬ。此地にも到らないで詠まれたものは今はふきて取らず)
東鏡二位殿禁裏へ奉り給う事書きの中に一つ陸奥の白川領の(もとは信頼卿の知行、後は小松内府の領)事と云う一条見えたり、小松内府は重盛卿を云えしならんか。其の頃定めて信頼卿小松殿よりも奉行など云うものを置きて治められたものなるべし。
典按ずるに天正の頃、蘆名伊達など戦争を記したる書に「仙道六郡と云う名目所々に見えたり。白川もその一郡なれば仙道という訳、人に尋ね問いしに確かなる説もなし、合類節要を見ると、仙道を改めて山道(せんどう)と記しているのは考の端ある心地して、其の後水戸へ行きしに一書生の物語に奥州へ行くカイ道の異なる有りと語っていたので、推して尋ねれば岩城へ出るのを海道とし、白川へかかるを山道と云うと答えた。それより帰るとて岩城へ往きて驟雨に会い、怪しき家に暫く雨を避れていると焼麩売る男来て云うには、此の男は安達郡本宮の者にて麩商をして山道より下野国へ出て今戻るなりと云う。故に仙道とは何地をさして云うかと尋ねれば白川通りと答えた。又此の頃東鏡を見ると藤原基衡の毛越寺を造立して本尊を仏師運慶に作らせ、種々の謝物を人馬にて送ること山道海道の間に絶えざる事が見えている。此の山道も奥州より登る道すがらなれば、白川の道筋を指したものであろう。是を以て考えれば山道(せんどう)の名も古くから有ったようである。

  鎌倉時代の考
東鏡に文治五年頼朝卿奥州征伐の条を挙げ、二十九日丁亥白河関を越えたまい関の明神に御奉幣あり、ここに景季を召して「今已(すで)に秋の始めなり、能因法師がいにしえ(古)を想い出されるかと問えば、景季馬を控えて『秋風に草木の露を払わせて君が越えれば関守も無し』と詠んだ。仙道表鑑に結城七郎朝光伊達泰衡追討の功により白川岩瀬名取三郡を賜わりし、是よりして結城氏の所領となる。然れども朝光は下野の結城にありて此の地を遙かに領せしなり。
典按ずるに邦俗の説に朝光の先祖太田の別当行隆より白川を領せしなどと伝わるは大い に誤りなり。又白川古伝記には泰衡退治の功により葛西六郎清重を奥州の奉行として白川の関に残し置かれたものか、後建永元年清重を鎌倉へ召し、其の跡を結城上野入道朝広に白川を賜うとあれども、七郎朝光の時に白川を賜わりし事厳然と證あり、葛西は別に奥にて地を賜わりたる事諸書に見える。
朝光の子朝広も結城七郎と号した。後に従二位下大蔵権の少輔上野介に任ぜられ、下野に在って白川を領している。朝広の嫡子広綱は下野の結城を領し、次男祐広(弥七左衛門と号す)を分けて白川に住させ、白河結城として別家となれる。此の祐広の子は上野入道宗広なり。(宗広の事中巻に詳なり)
 典按ずるに祐広より白河結城となりし事は、大日本史に七家譜を載せて證とし、列封略伝等も皆祐広を始めとする。唯本朝通紀のみ朝光の男朝長は結城家を継ぎ、朝広を別に奥州に封じて白川結城と号し一流の祖としたとあり、朝長という人有る事は他の書に見えず、此の書何の掾によるものかを知らず恐らくは誤りであろう。
東鏡に「文治六年泰衡カ郎従大河次郎兼任謀叛セシ時、近国ノ御家人結城ノ七郎朝光以下奥州ニ所領有ルトモガラニオイテ一族をメシ具セス共メンメンニ急キ下向スベキ由仰遣サル」又、正治二年に工藤小次郎行光が郎従藤吾藤三郎兄弟奥州の所領より(典按ずるに工藤左衛門尉、泰衡追討の功により其の子孫天正の頃まで相続する事仙道表鑑等に見え古墟も今に存有している)鎌倉へ参向する途上、白河の関の辺りで御使芝田の「追討せらるべき」の由を聞き其所より駆け帰り、合戦の日彼の館の後ろより矢を射る事その数を知らず。又嘉禄年中に偽って公暁と称し奥州白川に於て謀叛する者あり。朝広は浅利知義と共に撃って平定した。又歴任二年正月十一日今日陸奥国の郡郷所當の事沙汰あり、これ準布の例沙汰人百姓等私に本進ノ備えを忘れ、銭賃を好み所済の貢年を追て不法の由、其の聞こえ有るによって白河の関より東は下向のトモガラの所持においては禁制に及ばず又絹布粗悪はなはだ云われなし、本の様弁済させるべきの旨定められ匠作の奉書を以て、前の武州へ触れ仰せ付けられとなり此等の数条白川の事に預かりすれば載せ置くなり。(典按ずるに白川農家の伝わる説に頼朝卿の二男弥左千代丸を結城朝光養って弥七左衛門の尉朝広と名付けたりと、此の朝広を頼朝卿の子なりと云う事其の家に伝わるのみにて他に考えもなけれども、御台政子嫉妬深き人故頼朝卿妾腹の子を隠し他家を継がしめ給う事のみ。島津、大友の類いも有れば朝広も又然るならんか)
新和歌集に(此の集は鎌倉時代の歌を記したる書也)権中納言の歌に前書きの曰く少将にて宇都宮へ下り侍りけるついでに白川の関に侍りて「しら川の関のあるじの宮はしらたがよに立てし誓いならん」と有れば、此の人も我が白川へ一度来たるものならん。


文化丙子歳春三月望写之      勝鳴

文献
桑名図書館蔵「白川古事考 単 広瀬典著」
 編集者註=原文をもとに送り仮名の改変が有ります。

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