conparu blog

ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
[ブックマーク『conparuの白い航跡』もよろしく]

白川古事考 巻ノ三(全)廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-15 21:22:20 | 歴史



   
 

      

     

      

 按=系図中疑うところ多い。それを証明する者が補書する。
小峰より白河を奪うこと二度あり。永正七年小峰が謀って白河を逐い、二十五年経て還れば(会津四家合考旧事雑考に出ている)その間は小峰が主であるも同然で、顕頼は実に小峰氏であって永正七年より十六年前の明応四年に宮内少輔から左京亮に任じていることから、若年とも言い難い。永正七年に親族が大勢討死する。白川正統の政朝のみでなく、顕頼も独死している。白河の地を取った白河五郎が出奔し、大永二年に当主として居住する、子の義綱に代を譲ったのではないか。白河家の地を復したことも知れず、また義顕に至って小峰義親が白河を奪ったのであるが、親族の争い故に佐竹にも岩城にも多くの地を攻め取られ、太閤の小田原陣所へも出ず遂に祖先の跡を絶やしたことは、戒めとしなければならないだろう。


白川古事考巻ノ三 その1

 この巻は白河結城氏の系図に尽きる。頼朝の乳兄弟である朝光(頼朝の子とも云われる)を始祖とし、地頭識に任じられて権勢を振るう。南北朝時代に至り宗廣は南朝の北畠顕家顕信親子に従い、後醍醐天皇に味方した功績で結城総領の綸旨を賜わったとある。白河結城氏が尤も華やかな時代を迎え、後々までも存在を示した絶頂期ではなかったか。宗廣の子親朝は父の遺言に叛き、衰退の見えた北畠顕信を捨てて北朝の足利尊氏に鞍替えした。当時は家運隆盛の赴くところに従い、主筋を代えるのは当たり前であったようだ。この辺の歴史事情を廣瀬典の論考で述べてみよう。

 結城歴世の事実 上
仙道表鑑(二本松木代定左衛門の著述)に、結城七郎朝光は伊達泰衡等追討の功によって、白河、岩瀬、名取の三郡を源頼朝卿より賜わるとあり、此れより白河は結城氏の領するところとなるが、その身は下総の結城に在って遙かに白川を領したことになる。
 按=土人の説によると、朝光より六代の先祖太田別当行隆より白川を領すると有るのは誤伝であって、仙道表鑑の説の如くになるのである。また白河古伝記という土人の記伝には、泰衡対治の功により葛西六郎清重を奥州の奉行として白川の関に残し置いたが、後の建永元年に清重を鎌倉へ召し、結城上野入道朝広に白河を賜わったとあるけれど、朝光の時に葛西は奥において別の賞地を賜わったのであり、朝光は白河等を賜わったのである。


一、東鏡文治六年、泰衡は郎従大河原次郎兼任が謀叛した時、近国御家人結城ノ七郎朝光以下奥州に所領ある輩において、一族を召し具せずとも面々急ぎ下向するように、と仰せ遣わされた。
 按=この本文においても朝光が文治五年より白河を賜わったと見える。 

 朝広は朝光の長男である。結城七郎と号し後に従五位下大蔵権少輔上野介に任じる。(白川結城において上野を名乗るのは、此れを継ぐものである)頼朝卿の子であるが、尼御台の嫉妬の怒りを避けて密かに結城に養わせたのである。幼名をヤサ千代と申したという。これは白川民間旧家の者より、秋田の白河七郎へ由緒を書き出した説である。薩摩大友も頼朝卿の落とし種であるから同じ類いである。康元元年十一月二十三日、北条相模守時賴が出家せられた時、朝広も同時に白河で出家し法名を信佛と云ったのは、朝広が老いて白河に在していたということではないか。

一、東鏡嘉禄二年『詐称して公暁と称し、奥州白河において謀叛する者あり。朝広は浅利知義と共に撃って平らぐ』とある。
 祐廣は白河弥七左衛門と云う。兄広綱は父朝広の跡を継いで下総の結城に在り、次男祐廣は白河に在住して白河結城として別家となる。
 按=祐廣より白河結城となることは、大日本史にも家譜を載せて証しとしている。列封略伝併せて仙台の白河、秋田の白河等は皆祐廣を始めとしている。只本朝通鑑のみ朝光の男朝長は結城家を継ぎ、朝広は別に奥州に封じて白河結城と号し、一流の祖とするとあり、朝長のことは外の書に詳しく見えず、此の書が何の拠り所であるか知らない。


 宗廣は祐廣の子である。結城上野入道と云い、文保二年の文書には白河上野前司とあり、入道して上野入道と称したのであろう。今の城東搦村の墟に在って、其の頃は其処が白河と言われた地で、今の城は小峰と云われる処である。宗廣は武勇人に勝れ、奥州においては肩を並べる者も無い武士であった。弟が二人おり、片見彦三郎祐義、田島輿七左衛門廣尭が白河の内の片見村と田島村に在り。子は親朝と親光である。

 太平記元徳二年に「後醍醐帝関東を呪詛し玉う。北条高時是れを怒り、円観上人等の僧侶を鎌倉へ呼び下す。忠園僧正の白状によりそれぞれ罪過に処せられる。同年七月十三日円観の計らいは遠流一等を赦して、結城上野入道に預けられて奥州に具足し奉る。(この文によれば入道は鎌倉に在していたと見られる)上人が名取川を過ぎるときに一首の歌を詠まれた。(歌は略すとあり)名取川は名取郡にあり、白河より遙かに隔てて奥之地であるが、朝光の時に白河に添えて賜わったもので道忠(君山道忠は宗廣の号)の頃までは名取郡を領していた故に、円観をその地に遣ったものと思われる。今白河城下の永蔵寺由緒に「円観白河に在る時此の寺に居られた」と言い伝わるのは、名取へ往来の時に暫く滞留したものであろう。

一、桜雲記元弘二年八月、赤松円心は播州苔縄の城を構えて先帝の味方に属し、正成は千剣破城を築いて楯篭る。九月高時は一族大佛貞直、阿曽時治および二階堂道蘊等大軍を率いて上洛した。元弘三年(当今正慶二年を用いる)正月関東の大軍が相分かち、護良の皇子が守る吉野城と楠が守る千剣破城併せて正成の家人が籠る赤坂の城を攻める。この時道忠も関東の催促に応じて上京し在京していたのではないだろうか。白河七郎(白河結城本流であるが絶家の後秋田佐竹に奉仕)所蔵文書に二通あり、共に元弘の年号を用いている文書の故に、先帝の綸旨であると言っても先帝は隠岐に在して居たのだから、日吉臨幸のことなど有るべくもない。且つ先帝の御味方としては京都に当てはまらず、元弘の年号を用いて当今持明帝より賜わったものと思われる。

   

 続いて結城総領の綸旨を賜わる宗廣は、二男家にして庶流であるが当時年も高く、武勇も勝っていたことで格別の御恩遇であったのではないか。

      

 間もなく宗廣は関東に下り、鎌倉に在していたところへ後醍醐帝より綸旨を賜わる。新田義貞も千剣破城より引き帰り、鎌倉に在ったので謀り合わせて高時を討つ。その時の綸旨が次の通りである。

   

宗廣の嫡子親朝へも綸旨があった。文言は大抵同じようなものである(相類する)
これは下の親朝の条に出すのであるが、その宗廣の請文に

   
この請文によれば、太平記の中で宗廣が北条を撃って後、円観上人を伴って上洛した際は、君法体の不躾事を悦こび、思し召して聞き本領安堵の綸旨を下された。と言うのは誤りで、鎌倉に在って義貞に応援の功があったこと疑いない。また大塔宮の令旨、足利尊氏卿の書あり。道忠(宗廣)からも皆請け文を奉る。

 

   

   

 按=此の時、諸将共に綸旨を戴いたが、尊氏卿が先ず諸将に合力を申し遣わされた事は、既に諸将を指揮する気ありと窺える。以上の文書は白河七郎所蔵である。
鎌倉平定の後、道忠は上京して同年十月義良親王、併せて鎮守府将軍源顕家卿をもり立て陸奥へ下る。(関城書裏に道忠が補佐した故に速やかに功を著わしたと、道忠を讃えて記している)この時は陸奥の檢断識補をされていたのではないか。水戸結城家所持の文書に

   

 また白河七郎蔵に

   


 巻ノ三その2

 太平記建武三年正月陸奥勢山門に着き、その翌日三井寺の戦いに一番は千葉介、二番顕家卿、三番結城上野入道と伊達信夫の者ども五十余騎が入れ替えて面も振らず責め戦う。其の勢三百余騎であった。討たれて引き退く三井寺の敵を遂に敗れたと追い打ちにして進めたが、尊氏卿は三条河原に打出て将軍塚の敵を打つべし、と高師泰に下知し二万余騎が二手になって駆け上る。此れには脇屋右衛門佐、掘口美濃守、大館左馬助、結城上野入道、以下三千余騎で向かっていった。

 また同月二十七日軍に楠判官、結城入道伯耆守三千余騎が糺ノ森の前から押し寄せるとあり、梅松論には建武三年正月京都の軍に義貞白旗を差し、親光の父結城白河上野入道とともに一千騎を以て返し合いしながら、白川常住院の前や中御門河原口を駆け抜けた時は、いずれ溜まるとも見えぬ勢いであったが、そこへ小山結城一族二千余騎が入れ替わり火を放ちながら戦ってきたから、敵は(同族で敵味方に分かれた)打ち負けて鹿ノ谷の山に引き上っいった。残り少なく見えた敵の上野入道も味方の結城も共に一族であるほどに、互いに名乗り合って合戦している間に両方の討ち死に百余人となり、敵も味方も同家の紋であるから、子筋の直垂を着た後々の合戦では味方打もあるとして、小山結城の勢は右の袖を割いて冑(兜)に付けることを定めた。太平記には此の戦いに楠、結城、伯耆三千余騎が人馬を休めるために、宵より西坂を下り下松に陣を取るとある。

一、本朝通鑑延元元年三月、奥州の官軍唐橋経泰(按=顕家卿と共に奥州に至る人)及び相馬胤平が(按=胤平は相馬親族に引き分かれて官軍に属した人か、相馬系図には見えず奥相記に親類官軍に属すと云う)霊山(顕家卿の城であり名山で眺望の良い山である。土人が近頃碑を立てる)の兵を率いて敵将相馬光胤の小山保河俣(今の伊達郡霊山西南にあり)の城を攻める。光胤は敗走して結城道忠の家僕である中村氏(奥相記に中村六郎とあり白河の家臣に中村氏代々見えている)兵を宇多庄熊野堂へ出し光胤と戦う(熊野堂は今相馬城下中村の西南十丁許りにあり、川一つ隔てて城塁の跡がある)。光胤退いて小高の城(中村より三里ばかり南にある)へ入る。以下は奥相記を継いで書いてみる。

「この時光胤は遂に打たれ、甥の胤頼は山林に隠れ、官軍威を得ること甚だしい。尊氏卿より斯波式部大輔兼頼を探題として向かわせ、官軍の威を押し潰そうとした。胤頼は時を得て建武四年(南朝延元二年)一揆郎党を促し、熊野堂へ押し寄せ中村六郎を討ち取るとあり」按=建武延元の間、奥州の乱を書籍に見るのは稀であるとは言え、官軍には奥州宇津峯に親王二人迄相続いて下り玉わり、国司は顕家顕信、越後守秀仲、軍監有実、唐橋経泰、中納言顕時卿等下り、武家は斯波兼頼、畠山高國、同國氏、吉良貞家、石黨秀慶等追々下向し、伊達田村は始終官軍に志を固くし、白河は半ばにして武家へ属する。石川、岩城、相馬、蘆名等は親族が両方に引き分かれて、相共に隙を伺い戦闘する。若し詳らかに記録するなら戦いの止める日もなく虚しき月もなし、と云うべきか。(この年の戦いは親朝の伝にも見ることができる)
 太平記には「延元元年将軍より和議を申し上げられた故に、主上は十月十日京都へ還幸あり、一宮へ御位を譲りなされ義貞供奉して北国へ落ち、越前金崎へ入り奉る」その時の文書を白河七郎所蔵する。


「尊氏直義己下朝敵追討の先度仰せられ且つ裏(?ウチ)に綸旨を発して十月十日臨幸有る所越前国敦賀の津也云々」
 按=太平記に「一宮に従い奉り北国へ落ちたる人の姓名に洞院左衛門督實世卿あり、右衛門督なし。此の右衛門督は實世卿にして左右の字を誤るものである。別に同文字の綸旨あるが名氏は左中将と計りあり、義貞朝臣であろうか同じ詞ゆえに記載せず。
主上吉野へ還られた御文の写し白河七郎蔵する。

   


 

   

 武家感帳記を偶々(たまたま)見るとこの時の請文あり。
「勅書併綸旨回状跪(ひざまづいて)拝見候記 臨幸吉野天下大慶社稷(しょく=きびしい)安全甚以此事候頃馳参之處当国擾乱之間令對治彼餘賊忽可企参洛候去比新田方申送候間先達致用意千今延引失本意候此間親王御座灵山(霊山)候虜凶徒円城候之間近日可遂合戦候綸旨到来之後諸人成勇候毎事期上洛之時候也
   正月二十五日         顕家
     千葉とのへ」(下総の千葉一家は引き分かれ、南朝へ属した人もある。その人宛であろう)

 桜雲記に「延元二年正月八日結城上野入道源秀、熊野堂に至る。同二十六日於熊野堂白河入道道忠武家方相馬松鶴丸一族と合戦日々に及んで双方討死甚だ多し」とあり、また奥相記に「宇多郡は相馬の本領なれども国司顕家に奪い取られ、顕家の城である霊山の搦手であるから、白河入道道忠の知行として(別に道忠に賜わる文書あり)熊野堂に城を構えて五十五年の間、合戦の止む時も無し」按ずるに南北朝の間五十七年であり、親朝武家へ下った後は相馬と戦争は稀である。何を指して言うのであろうか。此の春は北国において義貞の軍甚だ窮迫であることを太平記に見えている如くであり、金崎に籠らせ玉える一宮より賜れる綸旨(次ぎに掲げる)

   

 その3

 太平記に「奥州の国司顕家系は去る元弘三年、鎮守府の将軍になり又奥州へ下る。其の翌年に官軍は破れて君は山門より還幸されて花山院の故宮に幽閉せられた。金崎の城は攻略されて義貞朝臣も自害したと聞かされるに及び、終に伊達郡霊山の城一つを守るのみ。守るべき城が無いような状態に居られた處で、主上は吉野へ潜幸されて、義貞は北国へ打ち出たと披露されたので、何時の日か人の心も替り(綸旨の)催促に従う人も多くなった。顕家卿は時を得たと悦んで回文を以て便宣の輩を催されると、結城上野入道道忠を始めとして伊達信夫南部下山の六千余騎が馳せ加わる。国司其の勢を併せて三万余騎が白川の関へ打越して来ると、奥州五十四郡の勢が共に多く馳せつけて程なく十万余騎となった。其れを聞いて鎌倉を責め落として上洛すべきだとして、八月十九日白河の関を立ち下野國へ打ち越された」(八月十九日白河の関を出て、十二月二十八日鎌倉を攻め、正月八日鎌倉を立ち南都へ着かれる。道忠は半年も経て所々に多くの戦いをしてきた。太平記に載るだけの戦いではない。道中に顕家卿と道忠より親朝へ与えた文書は親朝の紀に詳述している)

〈これより途中抜粋の項を抜き書きします。三巻の冒頭に結城家の系図がありましたが省略しました〉

「南朝紀傳」に「七月十二日一品の宮、刑部大輔秀仲に仰せて白河親朝を修理権大夫に任ず」とある。
然しながら南朝の御勢は次第に衰え、武家の威が日々に高まるにつれ、親朝は父の遺訓をも顧みず武家へ心を通わせている。常陸の小田も高師冬に攻められて降参してしまったので、親房卿は関の城(今どの辺の地であるか不明、常陸国誌にも不詳という)を守って書簡を送り、親朝に援兵を求められた。(書簡の)詞の忠誠に人を感じさせるものがある。(註=この書簡の文面は文書の部にあるという)親房卿が斯くまで勧められたにも拘わらず、親朝は軍兵が少ないので助けられないと辞退した。親房卿は宣宗と云う僧を顕信卿に遣わして後援を送るよう告げたが、親朝はこれを差し押さえた故に親朝は終に武家へ属することになった。
白河、武家に属するに因って足利家より所職の事命じられる。この節奥州の探題畠山右馬頭國氏、吉良右京大夫貞家よりの文書、白河七郎所持。
奥州郡々検断奉行事任先例不可有相違但於安積郡者追可有其沙汰之状如件
  貞和二年七月十六日  右京大夫 花押
  結城大蔵大輔殿

興国五年関の城が陥落したので親房卿は吉野へ帰り、顕信卿と宇津峯親王は猶陸奥に留まり在したので田村、伊達等守り奉る。(この条白河に預けられるものが陸奥の勢に預かるとは)
一、太平記文和元年の所に、「将軍小手指原の合戦に事故無く石浜に居わすと聞いて、馳せ参じる人々には」と云う内に白河権少輔とあるのは親朝であろう。

顕朝は親朝の嫡子であり七郎という。白河民間系図には大膳太夫とあり、白河七郎系図には左兵衛尉、弾正少弼等に叙任するとある。桜雲記には大蔵太輔と称している。顕朝に朝常、朝胤と云う二人の弟あり、子孫相続するにも系図には出てこない。親朝没後であろうが兄弟三人に、南朝へ興し候へと綸旨を賜わった。
白河七郎蔵に綸旨書状あり。

一、本朝通鑑正平二年春夏の際、奥州の管領畠山高國、吉良貞家の二人が、白河結城顕朝及び相馬氏伊賀氏(桜雲記に式部入道とあり)等を率いて、南朝の藤田霊山、田村宇津峯等を攻め陥る。是れより奥州は大半が武家の有となる。
一、正平五年(北朝感応元年)より尊氏公、恵源(直義)と兄弟不和になり、恵源南方へ属する。この時上方では畠山国清は其の一族直宗が誅されるに及び、武家を背き南朝へ降参する。是れに因ってまた奥州に於いても畠山高國、其の子國氏も南方へ属して岩切の城に籠り、吉良右京大夫と合戦する。白河は始めより将軍方に属していることで、貞家よりの文書を白河七郎が蔵している。


   

(此の年師直師恭誅せられる、二月十四日なり。岩切は今の岩城郡岩切村に城跡があり、是ではないか。又二本松の城を今も霧ヶ城と云っていて、畠山は安積安達の辺りに始終居た故に、二本松なら事実に合う。また岩城の内にも岩切と云う所がある)


 桜雲記正平七年二月十二日岩切の城を貞家攻め破り、畠山高国父子自害する。三月二十四日源顕信と吉良貞家が合戦し、顕信軍は敗れて田村庄宇津峰城へ入る。仙道表鑑積達古館弁等に、高国父子が宮方と戦って死んだと云うのは誤りである。

 園大歴に正平十年三月奥州国司到着、白河関先懸け勢に宇都宮相伴って一方発向同年五月大納言守親(顕信卿の次男)陸奥の国司に任じる。陸奥にあって白河結城氏(桜雲記には弾正少弼とあり、顕朝であろう)戦うと見える。桜雲記には天授五年守親大納言を綬せられるとあり、その前に奥州より南山へ帰られたと見られる。その後は奥州に南方の将軍なし。大に南朝方勢いなく、皆武家へ属したものと思う。
祖父宗広は所領を親朝に与えず顕朝に授ける。

 満朝は顕朝の子である。中務丞系図には左兵衛尉応永二十四年八槻文書に沙弥道久と云う鎌倉大草紙(九代後記にも出ている)応永三年小山犬若丸奥州に逃げ下り、住人田村庄司清包を頼み新田義宗の子息相模守並びに其の従弟刑部少輔、白河辺りへ打ち出した。鎌倉殿(氏満朝臣)此れを聞いて十二カ国の軍兵を率いて二月二十九日に打ち立て、同六月朔日白河城へ御下向し、結城修理大夫館に御座した。(修理大夫満朝であろうか、満朝も修理大夫と云うのだろうか)大勢下向の由を聞き悉く退散したので六月十九日白川を御立ちになると見えた。(鎌倉管領九代記に鎌倉満兼応永六年七月出羽奥州巡行の為に鎌倉を立ち、奥州白川に赴き稲村の御所に逗留されたとあり)

 会津塔寺日記に応永十八年十月十一日小山悪四郎隆政と鎌倉上杉右衛門佐氏憲の下知による藤田十郎、小山新左衛門、結城中務允満朝、長沼若狭守政連、宇都宮等一万余騎で攻め戦う。
 按=満朝関東の諸家と列するは下総の結城に紛らわしい、疑いを持つ。

一、鎌倉大草子応永二十三年持氏が上杉禅秀と合戦の時、禅秀方人数に陸奥では笹川殿を頼み中間、蘆名盛久(系図に三郎左衛門盛久=文安元年率、子は無く弟盛信に譲る)、白川結城、石川、南部、葛西、海道太郎の者ども皆同心する。鎌倉九代後記には此の乱に持氏方に結城弾正少弼あり。禅秀方に白川結城とあるが、持氏方の結城弾正少弼は氏朝ではないか、白川結城とは満朝のこと。父子両方へ分かれて戦うとは不審である。応永の末に一旦、京都将軍と持氏とで不快の事あり(応永二十九年)一年ばかり経って和睦したがその節の事であろう。
 氏朝は満朝の子である。弾正少弼道号義秀系に普光院殿義持将軍の八坂の塔供養の桟敷へ参候するとあり、京に於いて屋地を賜わった文書が仙台白川家に蔵している

「大炊御門万里小路(東西十丈南北二十丈)屋地事早任去十日御教書同月十四日御施行○之有可被沙汰付白川弾正少弼氏朝代々之状如件   永享十一年十月十六日   兵衛尉 花押
岡本勘解由左衛門尉殿
譲与所領等之事(左に諸知行分が記される=省略)

「岩﨑以  牟呂以  草間以
右於彼所領等者相副手銭証文所譲与氏朝也不可有他妨為後日譲状如件
 応永二年十月二十一日   満朝 花押
 按=氏朝が依上を領すること依上部に見え、下野茂武を領すること八槻文書に見える。下総結城を領することは譲り状に見られる。然しながら下総結城には同時に中務大輔氏朝があって、持氏朝臣の御子安王春王を介抱し、永享十二年より嘉吉元年まで結城に籠り討ち死にする。同姓にして同名且つ領地同じくして領することは理なし。同人であることは疑わしい。故に本朝通紀には安王春王を守ったのは満朝氏朝父子とする。証拠がないのに斯く分明に言うのも如何かと思う。臣(典自身のこと)もまた其の一人に似たものの一である。氏朝の文書所々に載せているが、永享十一年迄で止まり、その後の文書なし。籠城以後文書を出していないことも臣が一人に似たものその二である。

 結城戦場等書に氏朝の子成朝と云う。白川に於いては氏朝の次を直朝と云う。然しながら直朝は永享四年修理大夫に任じ結城の城攻め、寄せ手の内に加わっている。氏朝は寄せ手の内には見えていないところから、氏朝は直朝の父ではなく、氏朝が白河を出て下総の結城に居て籠城した折り、成朝が別に(下総の)跡を継いだ。直朝は親族の内より氏朝の後の白河を領したとも知り難い。此のことは一人に似たものその三である。然しながら結城中務大輔は本朝通紀付録に、持氏朝臣の政所に応永三十三年任之とあって、もとより中務大輔である。白河の氏朝は弾正少弼であり父満朝は中務允である。諸書にある中務大夫氏朝という確とした説でも無いようだ。結城物語鎌倉管領九代記等には氏朝を七郎と計り記し、九代記七郎の伯父結城中務大輔と記しているのは、本朝通紀の白河結城中務丞満朝と書くのに似たところもあり、又前に載せた譲り状の面に於いても氏朝は白河郡も南方のみ領している。此等は半信半疑で決しがたい。果たして同人ならば世に名高き義士であるのに、我が郡の人である事を知らないとは口惜しい。
直朝は氏朝の次なり、道号海蔵関川寺殿と云う、今の関川寺の開基である。永享四年修理大夫に任じる。仙台白河氏の書蔵に
               義政公花押
 上卿   三条大納言
  永享四年五月二日       宣旨
   藤原直朝
    宣任修理大夫
     蔵人頭右大辨兼長門権守藤原忠長奉

一、鎌倉持氏朝臣が将軍義教公と不和になったことで、上杉憲実が度々諫めたが聞き入れず永享十年義教公奏して持氏朝臣を打たせられる。詔書本朝通鑑にあり。曰く「従三位持氏累年積悪今達天聴鬨左武士等随従憲実不日可令誅伐持氏也」とあり、その時の御教書を仙台白河氏が蔵する。

   

一、本朝通鑑に嘉吉元年四月(結城落城の後)将軍義政公より書を賜わり、伊達大膳大夫持宗、白河結城修理大夫直朝、二本松畠山七郎、蘆名下総守等の軍期に怠けて兵を出さないのを責め、また同年十月御教書を奥州羽州へ遣わして塩松松寿(意味不明原文のまま)二本松畠山七郎、伊達持宗、小峰下野守、信夫族、石川族等出陣の晩期(遅れ)を攻められる。(按=これは結城の軍である。小峰は白河の分家であることは諸書に見えているけれども、定かではない。此の本文に拠れば小峰は始めに記した朝常の家であって、系図には嫡流をも小峰と書いているのは誤りである)この節白川は石川と私の合戦があって、彼の出軍を引き延ばした故に催促があったのではないか。

石川家所蔵の古書
   

 足利成氏朝臣が京都と不仲になってからは、関東の諸将は両端を持して左右へ荷担することが多くなった。義政公が度々成氏朝臣を討つために直朝へ出勢を申し越され、宇都宮等綱でさえ成氏朝臣に敵対すると申しているところへ、直朝は反って等綱にも勧めて共に古河へ属したことで、愈々出軍しなかった。京からは尚更に出勢を責められる。京の屋地等は(将軍家から)下されたものであり、これに因って等綱はついにまた京方になってしまった。直朝は成氏から旗など賜わって味方と頼まれるので、容易に京方にはなれないでいる有様は、始終如何であったろうか。直朝の京の屋地については、直朝の後の沙汰が無いところを見ると、京の命に快く従わなかった為に召上げられたものか、事の始末は詳らかでないけれど、仙台白川の文書等を照らし合わせてみると、大凡の様相を知る事が出来る。

一、錦小路東洞院与四条間東類四町之屋地事早任当知行有白川修理大夫直朝領掌不可有相違之状如件
  長禄二年十一月六日


(訳者付記) 巻末に至っては鎌倉の持氏が敗死した後、残された春王丸安王丸の二遺児は、下総結城に楯篭った氏朝満朝に守られるが、その甲斐もなく敗戦によって氏朝と父満朝は自害し、二遺児は囚われて遇えない最後を遂げてしまいます。生き延びた成氏は赦されて鎌倉公方に任じますが、再び京都との関係が悪化して関東は蜂の巣をつついたように動揺していきます。其の一端を示す成氏の戦いぶりが記されて巻ノ三は終ります。

 鎌倉大草紙に「成氏、小栗の城を攻略すれば、上杉方悉く敗軍して野州へ落ちて行った。とはあれ京都の御沙汰等閑ならず急ぎ早で、千葉入道常瑞同じく舎弟中務入道了心、宇都宮下総守等綱、山河兵部少補、真壁兵部少補等上杉に一味して所々に蜂起する。此の宇都宮等綱は去る応永の頃、小栗よう(羊に辶)心の時に一味同心して逆意を企て、塩舎に打たれた右馬頭持綱の子であろうか、御免を蒙り本領を安堵されたのに今度も最前に敵となって籠城した。成氏は他の敵を差し置き怒って自身で押し寄せたが難義して、芳賀守紀清が両政の婿であるところから、これを頼み宇都宮の家を絶やさずに済まそうとしたが、叶う様もなければ(宇都宮は)出家入道して命だけは助かり、黒衣を着た姿で城を出て奥州白川へ落ち行かれたと見える。





 巻の三終り




コメント    この記事についてブログを書く
« 白川古事考 巻ノ二(全)廣瀬... | トップ | 白川古事考 巻ノ四 前編 廣... »

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事