Creator's Blog,record of the Designer's thinking

毎月、おおよそドローイング&小説(上旬)、フィールド映像(中旬)、エッセイ(下旬)の3部構成で描き、撮り、書いてます。

京都暮らし281. 聞き書き

2010年04月12日 | Kyoto city
 京都も桜の季節が終わり、一段落である。あとは御室仁和寺の桜が、今週末位に咲くだろう。
 ある小さなプロジェクトの関連で、最近の若者消費性向を調べてみた。それは、まさに地味の一言である。特に結婚すると早い時期に双方の親元から軍資金を調達し、早々とマンションを購入し、安泰生活である。その安泰さなのだが、お呼ばれしてでかけても、出てくるのはスパゲッティ一皿でサラダもない。つくるのが面倒だというわけだ。そんな話を聞いた。
 昔の田舎は、人寄せがあると近所の人が集まり、独特の巻物寿司や自慢の地元の料理や鯛などがだされ、食べきれないとお土産に持ち帰った記憶がある。つまり田舎の催事は派手なのであった。そういうものを身につけて育つと、スパゲッティ一皿では、人寄せにはならないだろうと思うのだが、最近の若者は大変な地味さを好むようだ。もちろん料理をつくるために、周りの人達に声をかけるコミュニケーションすらないのだから、これはいたしかたない。
 そういえば、最近暴走族も見かけないという声を聞く。道路を派手なクラクションを鳴らし、あの馬鹿!と周囲から罵声をあびるあの行為もみられなくなり、それ以前に、車やバイクを買おうとする若者も少なくなったと聞く。これでは、これからの中国やインドの勢力に太刀打ちできない。太刀打ちできなければ、今の若者の安泰志向も幻想でしかない。
 そう思っていたら、政治家の与謝野馨氏をはじめとする老獪な政治家達が、「たちあがれ日本」という新政党を立ち上げた。
 この新政党は次回の参院選である程度の議席を確保したら、民主党と連立政権を組むことになるという新説を聞いた。いまの頼りなく素人臭い民主党の閣僚の面々に比べれば、はるかに国政が見えているプロ政策集団であるから、当然海外市場の評価も高く株も上がるというわけだ。与謝野さんと小沢さんとが囲碁仲間らしいので、ことさらにそう思われるらしい。鳩ぽっぽだけではあかんとする説を聞いた。

京都市,平安神宮,2010年4月10日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Distagon25mm/f2.8,ZF.
シャッター:1/70,絞りf4,ISO1600,カラーモードF2.
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京都暮らし280. 紅しだれ

2010年04月11日 | Kyoto city
 朝晩の肌寒さを残しながら、少し風が冷たく感じる春らしい気候である。
 昨日は、平安神宮の紅しだれコンサートに出かけてきた。予想通り多くの人手であるが、ここの枝垂れ桜は大変美しいと私は思う。世の中の多くの桜が、染井吉野ばかりになってしまい、こちらとしは食傷気味になる昨今では、特に、ここの紅しだれが新鮮である。
 コンサートは、東神苑貴賓館の池に面したステージで行われるので、水に映る紅しだれとともに大変赴きがあるランドスケープとなっている。こうした環境を活かしきった演出は、他所ではあまり見られない。京都は、優れた環境があると共に、それを使いこなすところが巧みだ。
 私は、平安神宮の紅しだれが京都市内では一番美しいと思われる。それ以前に、文豪谷崎潤一郎がこれを愛でており、そして彼の小説「細雪」にも、四姉妹が平安神宮の紅しだれを見に出かけるくだりが描かれている。
 桜の時期の京都は、どこに出かけたら良いかと東京人から尋ねられれば、私は次のように応えるだろう。
 東京を遅がけの新幹線に乗り、お昼は「ちもと」のお弁当を楽しみ、それから芸妓・舞妓さんがお手前をしてくるお茶席付祗園歌舞練場の「都をどり」を鑑賞し、そして夕方平安神宮の紅しだれコンサートにでかけ、夜9時の最終の新幹線で戻ればよい。これで春の京都を十分堪能できるのである。
 ただし紅しだれコンサートの開催は、4月9~11日の三日間だけなので、それ以外のときは、朝の平安神宮、ちもと、都をどりと回れば良いだろう。それでも染井吉野を見飽きた眼には、紅しだれは少しだけ新鮮にうつるだろう。

京都市,平安神宮,2010年4月10日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Distagon25mm/f2.8,ZF.
シャッター:1/40,絞りf4,ISO1600,カラーモードF2.
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京都暮らし279. マクロプラナー

2010年04月10日 | Kyoto city

 マクロプラナーのレンズは、私が使用してきたニコンのどのレンズよりも優れた写り方をしてくれる。このレンズとFujiのS5のボディとの組み合わせが、近年一番私のお気に入りの仕様となっている。
 ただし、このレンズは厳密なピント合わせを要求されるので、ファィンダーが優れたボディが欲しいところだ。最適はニコンD700以上のボディなのだが、個人的にはデザインと発色の悪さで、ニコンには手を出す意欲が湧かない。他方Fujiは、ファインダーが小さく今一であるので、ライブビューを時折使用している。これを使えばピントは、バッチリというわけだ。
 そんなわけで、最近このレンズをよく持ち出している。何と言ってもボケ方が綺麗であり、その分ピントの合ったところのシャープさは、素晴らしい。それはアーカイブから昨年の12月4日のこのブログを見ていただければわかるだろう。
 といいながら最近は、ライブビューも面倒なので、ファインダーをじっくり睨みながら撮影している。もちろん目測だとS5の小さなファインダーでは半分位は、ピントが合っていない。そこは面倒がらずにライブビューを使いましょうねと自分に言い聞かせる他ない。今日の画像も、少しピントが甘い。
 それ位にこだわりたいほど、群を抜いた優れたレンズとボディである。

京都市,清水寺,2010年4月8日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/250,絞りf4,ISO320,カラーモードF2.

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京都暮らし278. バブルシャンプー

2010年04月09日 | Kyoto city
 今日は、久しぶりに仕事で時間に追われる1日であった。CGソフトも久しぶりのオペレーションであり、使い方を忘れてしまった。それに、どういうわけか、Macの調子も今一つであり、使い続けていないとスムーズな動作をしなくなるというのは、PCの性質なのだろうか。ようやく時間に間に合わせて原稿を送り、開放された。
 さて、これから風呂に入ってオンザロックを飲んで寝ようというわけだ。私は、風呂に入るときに必ずバブルシャンプーを入れることにしている。バスタブに泡がたったお風呂というのは大変気持ちの良いものである。最近のささやかな、楽しみにしている。
 昔の洋画に登場するバスタブ全体が泡まみれというのが理想なのだが、なかなかバスタブの構造やシャンプーの性質なのかはわからないが、そこまではゆかないようだ。それでも泡だったバスタブにつかりながら体を洗うのは、大変気持ちがよい。これに慣れてしまうと、泡がない透明のお湯だけのお風呂はどこかたよりないところを感じる。
 温泉も、白く濁ったり不透明感があると、やはり温泉だと実感する。それが透明感がただようお湯だと、私は温泉気分が半減してしまう。
 家で温泉というわけにはゆかないので、バブルシャンプーでリラックス・モード。仕事が片づいた後のお風呂とお酒は、大変心地よい一時である。今日は、オンザロックだな。

京都市,清水寺,2010年4月8日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/200,絞りf8,ISO1600,カラーモードF2.
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京都暮らし277. 浜野安宏さんのデスク

2010年04月08日 | Kyoto city
 二日東京で暮らし、名古屋を経由して京都に戻ってきたので、三日間仕事で歩いていたことになる。新幹線などから眺められる桜も満開を過ぎて散りはじめてきたようだ。
 今日4月8日は、お釈迦さんの誕生日である。近所のお薬師さんでは縁日が催され、近郊農家やオバハン達のお店が並んでいる。境内には、優雅な音色の演奏がライブで流れていた。
 お昼に飲茶を食べるべく、松尾病院の桜を眺めながら、日航プリンセスホテル京都にでかけた。少し久しぶりにゆったりとした昼飯である。紹興酒を1合飲んだら、眠気に誘われた。昨日までの出歩き仕事の疲れを癒しながら昼寝をした。午後の昼寝が心地よい季節になってきた。
 そういえば、東京・西麻布の浜野商品研究所へ最初にアルバイトで訪れたのが大学院の3月であった。この頃の暖かくなり出した気候は、アルバイト時の記憶として今でも印象深く覚えている。春の陽気と共に、この会社も次第に業績を拡げ、それまでの商品や建築から都市開発の分野に参入しようとしていた頃である。親分の浜野安宏さんはアメリカ出張だった。仕事でそしてルアーフィッシングで(笑)。秘書は我が国の代表的な雑誌社からの取材の申し込みで追われていた。
 私は、空いている浜野さんの、ステンドグラスを貼ったスタンドが置いてある大きなクラシックなデスクを借りて原稿を書いていた。机上面は木材のつなぎ目が古風にみられ、でこぼこしたいてのを覚えている。本棚には、AXISの創刊号などが占拠していた。最初のAXISの表紙に使用した原画が額に入れて置かれていた。後ろの窓からは、大家のシュワイツさんの庭と建物が見えていた。浜野商品研究所のアトリエは、もとキューバの領事館だったことを後で聞いた。
 ところで夕方清水寺にあがると、散り始めの桜に出会った。少し肌寒い春の陽気を感じさせてくれた。

京都市,清水寺,2010年4月8日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/35,絞りf2.8,ISO1600,カラーモードF2.
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京都暮らし276. 美を捨て効率に走るか!

2010年04月07日 | field work

 先日の土曜日に1日奈良・斑鳩の里を歩いていた。持参した機材は以下の通りである。
EOS40D、EF16-35mm/f2.8
Fuji FinepixS5、Makroplanar100mm/f2.0
 このレンズの焦点距離の組み合わせだと大概の撮影ができるからだ。でっ結果はどうかというと、キャノンは、泣きたいぐらいに自然界、特に植栽の発色がすこぶる悪い。前回のブログはキャノンなのだが、地味で濁ったような自然界の発色の悪さは否定できない。でっ、今日はニコンをベースにしたFujiS5のボディにカールツァィスのレンズで撮影した画像をアップさせた。私の価値基準から言えば、こうした抜けの良さが、良い画像の前提条件である。
 やむなくキャノンを組み込んだのは、私はFujiのボディを1台しか持っていないからである。Fujiのボディは、既に製造中止で後継機種発売の噂もないので、必要ならば中古機種を物色するほかない。この辺りの事情をよく知っている人が中古市場で買い集めているためか、なかなか中古でも手に入りにくいのが現状である。
 私は、なんで発色の良い機種が製造中止なのかよくわからないのだが、世の中は色の悪いメジャーブランドが大変好きなのだろうと推測している。
 そうした発色の違いの一つに撮影素子がある。現在のデジタル一眼レフの多くはCOMOSという撮影素子を搭載している。こちらのほうが発色がわるくとも電気を食わなくてすむからだ。だが従来から使われてきたCCD撮影素子の方が色は大変綺麗なのである。美を捨て効率に走るという短絡的効率発想が、デジタル撮影をつまらなくしている。
 その他に製造メーカーの色に関するノウハウの蓄積があげられる。こうした点では、当然フィルムメーカーとしての長い経験持っているほうにスキルが蓄積しているのは、当然であろう。あのライカ・デジタルでさえ、コダックの撮影素子を搭載しているのである。
 そのように考えて行くと、デジタル一眼レフでは、Fujiしか選択肢がないのである。

奈良県・大和郡山市,2010年4月3日撮影.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/250,絞りf8,ISO160,カラーモードF2.

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京都暮らし275. 失われた日本の田舎の風景

2010年04月05日 | Kyoto city
 京都の桜も今週末は満開なのだが、最近の私には少し食傷気味である。ならば奈良へ、というわけで京都から近鉄の急行に乗れば50分でゆける大和郡山にでかけた。めざすは禅宗寺院の慈光院である。大和平野を一望に眺め降ろす借景庭園として、私は理解している。
 さてその大和平野なのだが、私が学生時代の記憶では、田畑が続き大和特有の様式を持った民家による集落と、その背後の山が霞んでいるといった、まさに日本の田舎というのに相応しいランドスケープがあった。
 だが今は、そうした過去の記憶を思い起こすには、大きな想像力が必要だ。 田畑が新興住宅地に変わり、民家も新しい平凡な建物に建て変わり、それに工場やディスカウントストア或いは公共建築といった大規模建築がやたらに目に付き、どこにでもある現代の個性のない郊外の風景に変わってしまったからだ。写真家入江泰𠮷の世界でもある奈良の日本の田舎というランドスケープも、今では完全に失われているといってよい。
 私が慈光院の借景庭園を知ったのは、樋口忠彦「景観の構造」を読んでからである。現在の慈光院では、おそらく目隠しのために後から植えられたと推測される松も、押し寄せる現代の雑然とした風景に、かろうじて耐えているようで痛々しい。
 この地方には、歴史的風土保全地区といった狭い範囲の風景を保全しようとする法律はあるが、遠くの山並みに至る迄の広範囲の風景を保存する法律は存在しない。それよりは、大阪の郊外タウンとして街が発展する方が、新たにこの土地に引っ越してきた居住者には関心が強いのだろう。
 ランドスケープに関心がない国民の意識、稚拙な現代の建築技術などどれ一つとっても、ランドスケープという視点からは、古来から形成してきた伝統に太刀打ちできないようだ。つまり私達がしてきたことは、大変貧しい精神と感性と技術とによって、古来から続いてきた風景を、大規模に破壊してきたのである。壊した風景はもとに戻らない。
 それが現代人がしてきたことである。奈良を歩くとそんなことを痛感させられる。現在の奈良には、かつての日本の田舎の風景は、もはや存在しないのである。

大和郡山市・慈光院,2010年4月3日撮影.
EOS40D,EF16-35mm,f2.8,
シャッター:1/200,絞りf7.1,焦点距離35mm,ISO100. 
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京都暮らし274. もう一台ボディが欲しいが

2010年04月04日 | Kyoto city

 京都市内の桜も5分から7分だろうか。寒い日が続いたので少し足踏みしている。都をどりの後、白川あたりまで、雨の中を散策していた。
 こういう季節の時は、マクロプラナーをS5につけて出かけることが多い。視野をグンと狭めて街を眺めようというわけだ。それにしてもピントと被写界深度がシビアなレンズだ。ピントが合えばこのブログ画面でも判別できるぐらいにシャープだが、S5のファィンダーでは、ピントがわからないことがあり、フォーカスエイドも役に立たない。唯一ライブビューが使える。このレンズは、使い込んで慣れるのが一番良い使い方なのだろう。もちろん背景のボケ方は大変美しい。
 100mmのツァイスレンズをつけると、路上でのレンズ交換を避けるためにも、広角のディスタゴン25mmをつけたボディがもう一台必要になる。jpg画像でも優れた発色のFujiS5ボディをもう一台欲しいのだが、すでに製造中止となり後継機種が出る噂もなくなった。
 富士フイルムは、これまで我が国の中級デジタル一眼レフのスペックをリードしてきたが、最近のWEB画面を見ていると、この開発自体に関心がなくなったといいたげである。眼の肥えた人間にしか評価されないのでは、儲からないのだろう。そこで我々は、やむなくあまり色の良くないメジャーブランドに走らざるを得ない。
 現在我慢して使うとすれば、ニコンD300s位しかない。個人的には、プロダクトとしてのデザインは大変良いのだが、発色が今一だよね。ただ、アマゾンなどで見ると随分価格が下がって来たから、今が買い時と考えるが、使ってみたいという意欲が湧かない。
 そこで時折レンズシステムが完成しているキャノンを担ぎ出している。自然界の色は悪いが、人口的な色は良いので被写体に応じて使い分けている。キヤノンの欠点は、現在のEOS5Dmark2以外は、ファインダーがよろしくない。だからオートフォーカスに特化していったと個人的には考えている。
 一般論で言えば、デジタル一眼レフをはじめ機材の命は、何と言っても発色とファインダーの見え方やピントの合わせやすさにある。ここで手を抜かれたら、撮影機材としては使えないですね。

京都市・祗園新橋,2010年4月1日.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/250,絞りf2.8,ISO320カラーモードF2.

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京都暮らし273. 一寸春休みです

2010年04月03日 | Kyoto city
 京都は、雨模様だった。それに新年度になったばかりで、一昨日は珍しく若干時間があったので、午後は春休みとしてしまった。また来週から時間に追われるのだろう。
 そんなんわけで雨の中午後から散歩していた。祗園の歌舞練場にきたら、調度春の都をどりの入れ替え時間であった。窓口に出向いたら、次の回の自由席が取れた。自由席は畳敷きであり、大きな座布団が敷いてあるのが面白い。
 登場するのは、もちろ本物の芸妓・舞妓さん達であり、1時間の舞台は伝統的な色彩デザインの饗宴であった。その色遣いは大変勉強になる。
 こうした舞台ができるのも、花街があり、ひいき筋がいて、そして稽古・舞妓を育てる学校があり、長唄や浄瑠璃の先生がいて、さらには伝統芸能を支える完成度の高い着物や小物をつくる職人いてといった具合に、伝統的な芸事を支える大きな仕組みが、今も生きている京都ならではのことである。春と秋に市内の複数の歌舞練場で開催される。
 関西は、都おどりや宝塚歌劇団を思い起こすと女文化であり、関東は歌舞伎や、今はない六本木金魚のオカマエンターテイメントを思い出すと男文化だ、などと考えていた。
 祗園甲部歌舞練場のお奨めはお茶席付のチケットであり、開演40分前にゆけば、庭を見ながら舞妓さん達のお手前でお茶がいただける上に、ささやかなお土産が付く。京都を訪れるならば、私は先ずもって第一にお奨めする催事である。
 ところでビデオ撮影禁止の 劇場アナウンスが聞こえ、デジカメはよいのかと勝手な解釈をして撮影していたら、それも禁止と言われたので、私は静かに鑑賞していた。さて私のブログは大学のブログであってデザイン教育が目的だし、商売ではないので許されるだろうという解釈で、画像を掲載した。それでも当事者があかんと言ってくれば外すか、それとも論文を書いているときのように掲載許可をもらうだけの話だろう。もちろん大学だから、使用料は払わない。つまり入試問題の扱いと同様になるのだろう。
 それに私は、昨日のブログでも書いたように、国立国語研究所のKOTONOHAに、私が執筆した評論の使用を快諾したぐらいだから、まあ国の文化に多いに協力したわけだし、ご褒美にこちらの方は、少しお目こぼし願いたいという勝手な解釈をしている。
 春やさかい、うるさいこと言わんといてぇーな(笑)。

京都市・祗園甲部歌舞練場,2010年4月1日.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/250,絞りf4,ISO500カラーモードF2.
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京都暮らし272. 国立国語研究所からの依頼

2010年04月02日 | Kyoto city
 先日国立国語研究所から、私が執筆した論評をコーバス整備計画で採用したいので、著作者の許可が欲しいという要請が来た。コーパスというのは、明治から現代に至る日本語の言語データベースKOTONOHAを構築しようという壮大な試みである。
 その主旨をWEBサイトで探ると、『私たちの生きているこの時代に生産され、流通している「現代」日本語の実態を、何らかの基準に基づいてバランスよく反映した形で記録する必要があります。そのようなコーパスのことを、現代日本語の書き言葉均衡コーパスと呼ぶことにしましょう。』とある。現代語でも1億語を収集しようというものだ。
 もちろん私はこれに著作者として快諾した。以後現代書き言葉の一つとしてテータベース化され、公開され、そして恥ずかしいことに将来においても、論述分野における平成の書き言葉の記録の一つとして残され、後生の研究者達の資料となるだろう。
 私自身は、美術系の学部の出身だから、特に言葉について勉強した経験は少ない。振り返ってみて勉強になったと思うのは、プロデュース企業でコンセプトワークをしていた頃だろう。ここで、この上司から物事の概念の構造というものをみっちり勉強させられた。こうした知の蓄積が、その後の学術論文の論述的な執筆に反映している。その他に文章を書くと言う訓練は、世間よりは早い時期から使用していたインターネットのメールなどである。このブログも文章の練習に多いに貢献してきたと思われる。
 だから私の場合は、現代語で普通の文章が書けるということは、日々の訓練或いは多くの執筆機会によるものである。それがあってようやく普通の現代の文章で論述できるわけである。そうした多くの訓練や機会を伴わなければ、赤ん坊の叫び声に等しいのである。言葉は、誰でもが使える汎用性があっても、練習するなど書き慣れなければ、相手に伝わる文章にはならない。そこに言葉或いはコミュニケーションの奥義があるのだろう。

京都市・清水寺,2010年3月31日.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/250,絞りf4,ISO400カラーモードF2.
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京都暮らし271. 散歩の道すがら

2010年04月01日 | Kyoto city
 昨日の京都は、曇天であった。光も乏しかったので、とくに感慨もなく普通に散歩していた。訪れる観光客がどこが欲の皮が突っ張ったように見えてくる、というのはこちらの精神状態の悪さなのか。ここ何日か寒かったので、桜の開花も足踏み状態だ。
 名古屋に通い出してから10年以上は経つ。その間に随分京都の街は歩いてきたので、最近食傷気味である。つまりこの街に飽きた、といっても今はこの街に住んでいるのだから飽きたどころではないのだが。
 私は、そんなに撮影に熱を上げているわけではないが、人と同じような方向にレンズを向けて漫然と撮っていると観光写真になってしまう。それで、おっ、これではいけないと、思って視界を変えることになる。ある程度こちらが意識の上で身構えることを要求されるのかもしれない。最も被写体は時間を加味すれば限りなく多いのだから、身構えるといっても、そんなに難しいことではない。
 等と思いながら、昨日は夕方何時もの散歩コースを歩いていた。もちろん少し遠出をすれば、いくらでも被写体はあるだろうけど、でかけませんね。むしろ散歩の道すがら、という意識の方を尊重したいですね。

京都市・三寧坂,2010年3月31日.
Fuji FinepixS5pro,Carl Zeiss Makro Planar f2/100mm,ZF.
シャッター:1/250,絞りf4,ISO640,カラーモードF2.
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