Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Village Design 33. 中甸・松賛林寺

2007年11月24日 | field work
 麗江から4時間以上走り続け、標高3200m の高原に入ると、深い山並みから丘陵地へ風景が変わり、車窓の四方がとても明るくなる。丘の背後からラマ教固有の尖塔が見えてきた。私達が目指した松賛林寺である。この地域を別名シャングリラ、すなわち桃源郷と呼ばれている。雲南省は、山岳地帯だったから、どこかしら圧迫感を体の外側で感じていた。そうした圧迫感が、スッと消えた感覚を体感する。天国にあがったらこんな感覚なのかもしれない、と思わせてくれるところが、やはり桃源郷と呼ばれる所以なのだろう。
 松賛林寺は、雲南省最大のチベット仏教寺院である。1679年にダライラマ五世の発願で創建され、700名の僧侶が暮らしている[注1]。傾斜地に広がる数多くの建築は、日本における塔頭のようでもある。こうした建築の屋並みが傾斜地に幾重にも重なり合うように広がり、奥行き感や連続間を形成している景観を重畳景観という[注2]。
 丘の頂上には、極彩色調の寺院を頂く。中国は儒教寺院が大半を占めており、礼節節度といった重々しさや禁欲さが建築様式などに感じられたのだが、松賛林寺には仏教固有の華やかさが漂っている。衆生済度の世界からは、憧憬性を持ちたくなるようなシャングリラという桃源郷に、燦然と輝く仏教寺院が建っている様相は、仏教哲学の反映のようでいて大変面白い。環境や景観形成に果たす宗教の影響力の大きさを表している。
 
注1.地球の歩き方、雲南・四川・貴州と少数民族,ダイヤモンド社,1999〜2000版.
注2.土肥博至編著:環境デザイン辞典,井上書院,2007.
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
CanoScan9950F
 
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Village Design 32. 中甸へ

2007年11月23日 | field work
 日帰りでチベット自治州の中甸へ行くことにした。距離にして麗江から400km近く山岳一般道を行かなければならない。標高も3,000m近くまで登るだろう。幸い、私達が街で拾ったタクシードライバーは中旬日帰りの経験がある。彼は早朝出発し、街道沿いで朝食と昼食とって時間を節約すれば、いけると言っていた。従って私達は早朝暗い頃に宿を出て、彼の言うとおり街道沿いの数坪程の小屋で朝食をとった。まだ4時間以上、走らなければならない。長江の支流に沿って、5人の大人を乗せ、使い込まれたワーゲンサンタナは、高速道路並の速度で、狭くて空気の薄い山岳道路をグングン上ってゆく。高低差3000mある大渓谷、虎跳峡の入り口をかすめ、目まぐるしく風景が流れてゆく。車とすれすれに人が過ぎ去る。驚いた表情が見える。 何回か車の後ろから罵声を聞いた。対向車とすれ違うとき、私の窓からは、はるか下に支流が見える。路肩などというものはない。当然速度制限を越えているが、法律なんか守っていては、日帰りが、できないのだ。概して中国人の運転は荒っぽいが、車の扱いは日本人より、はるかに長けている。騎馬民族の末裔故だろうか。彼のたくましいタフでエネルギッシュな技が、中甸への日帰りを可能にしてれた。
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
CanoScan9950F
 
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Village Design 31.  白沙村

2007年11月22日 | field work
 今日(正確には昨日)は、人の運命を左右しかねない書類を作成していた。得も言われぬ疲労を感じる。さらに追い打ちをかけるように、博士後期課程3年間の標準タイムスケジュールという事務書類を作成していた。書類をつくりながら、人間には2タイプあると思った。物事を前倒しで行う人間と、後のばしする人間とである。時間を貯金できる人間と、借金する人間と言い換えてもいいだろう。借金には利子が付くから、当然前者の方が良いわけである。
 ところで、中国のフィールドサーベイも、麗江でもう1週間は経過しただろうか。毎日様々な体験故、時間の感覚がなくなっているようだ。だが利息も利子も付かないということは、ほぼ毎日所定の予定通りに行動していたのだろう。高冷地故に天気は今1つであっても、この時期多いはずの台風が来なかったのが幸いした。
 白沙村の民居を見ていると、これ迄とは年代の違うことがわかる。中には数百年以上変わらない建築もあると聞く。数百年存在してきた建築が私の眼前にあるわけだが、それを感じさせないところが、すごいというべきか。数百年も存在して当たり前なのかもしれない。
 中国は、最盛西部で東経75°であるから、インドのモンバイやモルジブ諸島あたりから、最東部は東経135°である。この経度に該当するのが日本の明石市にある天文台であり、ここで日本標準時を定めている。この間4時間程度の時差が発生するが、中国国内では時差がないと聞いた。となると8時は中国のどこにいても8時であり、中国人民は、全土で目覚ましがなると、一斉に起きあがることになる。麗江あたりで、日本とは、本来ならば2時間の時差があるのだが、日本より1時間遅い北京時で全土の時間が決めらている。だから、国境を越えてインドあたりに突然ゆくと、大きな時差を体験するのだろう。要は、時刻は目盛でしかなく、むしろ時間のほうが意味をもってくる。日本よりはるかに長い時間が経過したなかで、蓄積してきた物事の全ては、私の時間感覚を越えている。
 
参考文献
河原洋子:街尾村白沙街沿い民家の分析 : 中国世界遺産麗江旧市街白沙集落において,日本建築学会計画系論文集,No.619,pp251-256.
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
CanoScan995F
 
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Village Design 30.  白沙村

2007年11月20日 | field work
 麗江ナシ族自治県という行政名称が示すとおり、少数民族ナシ族が多く住む、県の中心地である。自治県の面積は、7485.2平方キロメートルで平地部は、その5%しかない山岳地帯である。麗江の標高は、2,400mであり、我が国では、北アルプス奥穂高岳直下の涸沢よりも少し高い。だが地形の関係で、最高気温25度、最低気温でも4°Cを下回ることは少なく、冬期間、六ヶ月間は閉山してしまう涸沢に比べれば、通年ですごしやすい環境である。
 独自の文化には、トンパ文字、ナシ舞踊、ナシ画など、トンパ文化と称される独自文化がある。特にトンパ文字は、大変ユニークな象形文字風書体であり、日本の漫画のようでもあり、みていて大変微笑ましい。
 ナシ族の衣装も独特である。解説書によれば[注]、ナシ族の衣装は、地域によって多少異なり、麗江周辺では、広い袖の腰回りがゆったりした単衣の長衣を着ている。腰にはタックのたくさん入った前掛けを締め、ズボンをはいている。また上にはチョッキを重ねている。タスキがけにしているのは、背中に背負っている七星羊皮と呼んでいる七つの円盤のためのもである。七星羊皮とは北斗七星を意味し、「朝は星の光に照らされ、夜は月の光を頂き」、「日出ては働き、日入りては休む」という働く女性の勤勉な生活をシンボル化したものである。頭には、本来頭巾をかぶっているが、どういうわけか、上の写真のように人民帽もいる。最近は、七星羊皮は、暑いとか洗濯が面倒といった理由で、民族衣装を着ていない若いナシ族も多いと言われている。
 白沙村は、麗江から北へ12kmほどのところにある。麗江古城が世界文化遺産であるために、白沙村も観光地として整備されている。そうした施設の1つが左の写真である。左写真の左側隅に、緑色を主にした仏教壁画が垣間見えるが、これは麗江壁画と呼ばれ、図案のデザインはユニークである。またここで演奏されている民族音楽も、どこか懐かしい響きである。また楽器も大変ユニークなものばかりである。それよりもまして、一人一人の顔が、クラシックな文化人風であり、笑える程にユニークすぎる。ユニークさばかりが、大挙して演奏していたので、唖然としていて写真を1枚しか撮影していない。もっと一人一人のアップを撮っておけばよかったと、後悔しきりである。海外に出かけ、突然現れた風景に唖然とし、撮影し損ねたことはよくある。唖然としたところを、ぐっと我に返って正気に戻り、撮影できればプロなのだが・・・・・とにかく麗江は、ユニークな民族文化の宝庫である。
 
注:京都書院アーツコレクション11,色彩のコスチューム,京都書院編集部,1996.
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
CanoScan9950F
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Village Design 29.  石鼓鎮

2007年11月19日 | field work
 石鼓鎮の路地を歩くと、多様性ということに気づかされる。先ずビスタが真っ直ぐ見通せない。路地自体が微妙に曲がっているので、アイストップとなる正面には、民居の家並みが見える。各民居自体も、近代建築や郊外の建売住宅地のように定規をあてた規則正しい配置ではない。路地が微妙にふくらんだり、狭まったりし、それが塀の連なりとなって多様な景観を呈していて面白い。また各民居玄関の位置も路地に面したり、斜行したりと、結構多彩である。こうした不整系な民居配置の場合、一般的解釈として考えられるのは、長江から吹き上がってくる川風を避けようとする説が浮上してくる。先ず民居の暑い土壁で遮り、さらに曲がりくねった路地によって、川風が集落の中心を通り抜けないようにする知恵の所産だと思われる。実際高台にある、集落の中心部は、長江の側に立地していることを忘れさせてくれる位に、風の影響は感じられない。
 そう言えば、このVillage Designシリーズの始めの方で紹介した、琵琶湖沿岸北小松の民居路地は、正面に琵琶湖が眺められる。居住者も冬は、琵琶湖からの雪や風が路地を通り抜けると言っていた。石鼓鎮とは対照的な配置である。北小松はそれでまた石鼓鎮とは異なる理由から、敢えて風の通り道をつくったのだと思われる。様々な地域を尋ねると、その土地固有の考え方が見いだされる。それらは、風土との関わりの中で、時間をかけ了解されてきたデザインである。環境と人間の関係性を築こうとする際の作法といってよい。
 近年建築技術の発展で、風土の作法に従わなくても、快適性ある居住環境を設えることができる。そう思っていたら、地球温暖化により化石燃料の使用制限が、これから厳しくなってくるのが、世界の環境事情である。北海道のように暖房を石油に依存している土地では、液化天然ガス等、環境負荷が少ない燃料に切り替えるといった事態が、予想される。
 現代文明が、後追い的技術しか持てないのであれば、環境と良好な関係性が形成できる建築自体のデザインを、考え直した方がよさそうである。そういう点で世界の民居には、多くの知恵が集積している。民居から学べるのは、今をおいて他にない。中国も次第に近代建築が、山奥の集落でも建てられつつある。実際上の写真の正面には、既に以前から近代建築が建てられているではないか。造るのは後でも可能だが、知恵を学べるのは、今しかない。
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
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Village Design 28.  石鼓鎮

2007年11月18日 | field work
 世界遺産麗江古城をベースに、周辺集落に少し足を伸ばした。麗江から西へ70km行くとチベットへ続く道との分岐点付近で、中国を代表する河川、長江に出会う。背後にある標高5596mの玉龍雪山に行く手を阻まれ、ここで長江は180度向きを変える。この急角度に進路を変える地点を長江第一湾曲と呼ぶ。湾曲部に立つと褐色に濁り荒々しく波だった、いかにも中国の川であることを感じさせてくれる。急峻な山肌から滑り落ちたのだろうか、足を上に突っ張らせた牛の死骸がながれてゆく。生活の一部を感じさせるような残渣もみられる。人間の生活を飲み込んでゆくような勢いで、長江は湾曲部を泰然と通過してゆく。三国時代の諸葛孔明、元の先祖フビライ、下って1936年の中国工農紅軍といった具合に、歴史もまた、この狭隘な地形の隙間を通り抜けていったのである。
 この湾曲部に面する斜面に石鼓鎮がある。古来よりチベットとの貿易として栄えてきた大変古い鎮である。鎮は、日本でいうところの町である。町を歩くと、細い魅力的な路地が多い。アップダウンの多い地形故に、随所で民居越しに、長江を眺めることができる。 残念ながら対岸に渡ることはできないが、こういうロケーションは、対岸から眺めると、瓦屋根の民居が幾重にも折り重なり、素晴らしい景観を呈しているのだと思う。いつも耳の奥に長江の響きだけが記憶に残る、静かな鎮である。
 
参考文献
中野謙二:石鼓鎮にみる長江のながれ,月刊しにか,Vol10,No.11.pp.2〜5 月刊しにか10、大修館書店.
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
CanoScan9950F
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Village Design 27.  麗江

2007年11月17日 | field work
 ようやく麗江についた。麗江は、雲南省西北部長江上流に位置し、人口111万人と、日本でいえば政令指定市に該当する規模であるが、実際には、そんなに大きな街には感じられない。せいぜい人口10万人の地方都市程度といったのが、実感である。少数民族のナシ族が住む王都である。麗江は、1996年2月に地震に見舞われ大被害を受けたが、街の復興に際して建物を昔の様式で復元した。その結果もあって旧市街地麗江古城は、世界文化遺産に登録されている。私達は地震から3年後に、訪れたわけだが、被災地の様子は皆無であり、街は古い市街地に見事に復元され、観光都市の様相を呈している。どこか原宿の竹下通りあたりを歩いている気分だ。
 中国は、何かにつけて意志決定や実行が合理的であり、日本と比較するとダントツに早い。私達は、中国のいたるところで、物事を進めてゆく速さを体験した。翻って日本人の物事の遅さを官僚的体質と指摘する見方があるが、それは間違っている。というのも、中国は日本以上に巨大な官僚国家なのである。日本人の仕事の遅さの要因は、日本人一人一人の意識にある。それは国民的体質といってよい。日本人個々の体質に目をつむり、仕事の遅い理由を他へ転嫁したり、臭い物に蓋をする、その場しのぎの言い訳のような政策ばかり、といった具合に実におぞましき体質といってよい。日本が国際社会の一員ならば、改めるべき体質である。
 といって自らの体質を、自らで改める意識がない[注]日本人であるから、相変わらず仕事の遅いことは、今後も変わらないだろう。あと数年以内に、日本のGNPやGDP等の指標で語られる経済力において、日本は中国に抜かれるのである。既に教育では世界ランクの25位である。数年後の日本は、もはや先進国でも経済国家でもない。日本企業は、中国企業のM&Aにさらされるだろう。多くの日本企業が中国企業に買収され、仕事の遅い日本人は、解雇の憂き目にあうだろう。日本の街には中国人ビジネスマンとアメリカのビジネスマンが闊歩し、ホームレスの日本人が物乞いをしているといった風景は、あながち荒唐無稽とは言い難い部分がある。
 実際中国投資の配当金や分配金は、日本企業の投資ファンド等のそれと比較すると、桁が違う金額である。これをもってしても、まだ日本人は経済国家だと思っているのであろうか。
 ことの深刻さ故、話題がそれた。Village Designシリーズは、集落を中心に書いている。従って私達が随分歩いた、昆明、大理、麗江といった都市の記述は、このプログでは省略している。次回は、麗江周辺の村を尋ねよう。
 
注:日本人は、自分で自分を改革できないことは、歴史が証明している。幕末に、黒船のペリー、イギリス公使アーネスト・サトウ、フランスの駐日公使レオン・ロッシュといった外国人達によって、開港し、徳川幕府による時代遅れの封建制度をようやく廃止し、文明開化の礎を築いた。
 
 
参考文献
1)藤木康介,山村高淑,柏原誉他:世界遺産都市における伝統的建築物の実態--中国雲南省麗江市古城区における伝統的建築物の実測調査報告,京都嵯峨芸術大学紀要,No.32.pp40〜46.
 
2)山村高淑, 藤木康介, 張天新: 雲南省麗江古城保護条例の整備経緯とその内容--世界遺産都市の保護制度に関する調査, 京都嵯峨芸術大学紀要,No.32.pp26〜32.
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
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Village Design 26.  大理〜麗江

2007年11月15日 | field work
 まだ大理〜麗江の集落で道草をしている。集落の路地を歩いていると、上の写真のように、門扉に貼られた、菱形の紙札が目に付く。同行したチー先生の説明では、亡くなられた人がいるということを表しているそうである。確か1年(記憶不明)以上貼っておくと聞いた記憶がある。中国を歩くとこうした紙札をしばしばみかける。
 中国は、2000年間「儒教」の教えによる先祖崇拝を基本としている。祖先の墓を立派に設え弔うことで、生きている者の繁栄と幸福をもたらすと、されている。葬送形式は、従来から土葬が基本である。文化大革命以後火葬が、中央政府によって進められてきたが、遺骨を納める墓を必要とする点では、日本と同様である。ただし小数民族に対しては、昔ながらの土葬が認められているようである。
 話は変わるが上の写真は、フィルムスキャナーで、リバーサルフィルムの画像をデータ化したものである。渋い色や彩度の高い色といった心地よい発色は、コダクロームⅡフィルムの発色特性が、WEB上の至極軽いデータでも大変顕著に表れている。このリバーサルフィルムは、近年製造中止とされた。優れたフィルムを葬送してくれた、デジタル化を不愉快に思う。当初デジタル化は、媒体が増えたのであって、その分私達は選択肢が増えたとおもった。しかし実際には、優れたフィルムがなくなり、結果として媒体の選択肢は増えずに、内容が変わり、性能が低下したのであった。それが不愉快の理由である。
 デジタル撮影機材では、こうしたフィルムに該当するのが、カラーイメージセンサーである。現在すべてのデジタルカメラに搭載されているカラーイメージセンサーは、ラチチュードや感度といった撮影能力に於いて、フィルムには遠く及ばない。私の撮影経験では、カラーイメージセンサーは、一眼レフ規格の比較に於いて、フィルムの1/3以下の光情報しか記録できない。その理由は、フィルムとカラーイメージセンサーとの構造に由来する。フィルムは、縦型多層幕構造と呼び、光の三原色であるRGBを、3層構造の縦方向で記録する。他方カラーイメージセンサーは、RGB受光素子を1色毎に、ベイヤー配列という並べ方で平面配置し、光情報を読み取っている。フィルムの乳剤を受光素子と同等に置き換えて考えれば、わかりやすい。同一面積の平面上では、同サイズの受光素子を同数配置した場合、前者は1個の受光素子(乳剤)でRGBを記録するが、後者は3個の受光素子で、RGBを記録することになる。従って構造的にみれば、カラーイメージセンサーは、フィルムの1/3の情報しか得られない[注1]。つまり光情報の記録能力に関して言えば、退化したのである。あなた達は、それでもCとかPとかN等といった精密機械メーカーのプロモーションに踊らされて、デジタル撮影機材を愛用するのですか[注2]。
 儒教的に言えば、敬う(性能の良さを今に反映させる)ことなく葬り去った。ということだろう。それでは、今生きている者の繁栄はおぼつかないだろう。
 
 
注1.井浜三樹夫、高田俊二:有機光電変換膜を積層したCMOSイメージセンサー,富士フィルム研究報告,第52号,2007.
注2.執筆時現在、多層構造のカラーイメージセンサーを搭載しているデジタル一眼レフは、SIGMA SD14だけである。
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
 
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Village Design 25.  大理〜麗江

2007年11月14日 | field work
 大理から麗江への高速道路沿いに、大変急峻な山肌に立地している集落を見かけた。高速道路では、停まるわけにはいかない。違反を承知で・・という方法もあるが、私達の運転手は、今朝派手な交通違反をしたので、強制するわけにはいかないだろう。高速道路は途中までしかなく、旧道を進んだ。
 写真は旧道から、少し山の中に分け入ったあたりの、集落である。地図をみたが名前がよくわからない。整然とした家並みの美しさは、息をのむような素晴らしさである。雨が降っていたので瓦屋屋根がことさら映える。日本建築は、木造軸組に瓦屋根を乗せている。 日本の構方の方が、技術を要するのであるが、 ここでは肉厚の土壁に瓦をのせているので、安定感が感じられる。こういうビレッジをつくりたいね!・・・そう思った。これ以上何も語るべきことはない。
 ところで上の大きな写真は、コダクロームⅡをフィルムスキャナーでデータ化したので、オリジナルポジの発色が再現されている。
 左3枚は実験として、デジタル一眼レフ+マイクロレンズ+スライドマウントアダプターを付け、反対側からストロボを使用して、撮影=コピーしたものである。デジタル一眼レフはイメージサークルが小さいので、トリミングされてしまう。 この方法は、フラッドヘッドスキャナーよりも簡単でスピーディなのだが、発色は、デジタル一眼レフのカラーモードを使用すれば比較的いいのだが、鮮明度はフラッドヘッドスキャナー同様にがっかりさせられる出来映えである。何れも現地では、同じ機材とフィルムを使用し、同一条件で撮影した画像だが、大分差がみられる。
 私がかって使用していたフィルムスキャナーは、0S9.2用であり、コネクターもSCSIしか接続できない。 今後リバーサルフィルムで撮影し続けることを考えると、しばらく古いmacは活用しなければならない。
 中国の撮影では、コダクロームⅡというリバーサルフィルムが実によく合う。あの褐色の国土を、地味な発色の退色に強いフィルムが丹念に色を再現してくれる。そんなポジは、みていて飽きないのだが、如何せんフィルムスキャナーは、院生らの研究室に配備してまったので、現在代用品で我慢している。
 さらに、30年近く市場に出回っていたコダクロームⅡフィルムが生産中止になってしまった。この色はデジタル補正では出ない色なんですね。ポジの色域の方が広いのだろう。最近出てきたadobeSRGBは、モニターを変えなければならない。新機種が出てくるごとに、性能が落ちコストが高くつくというのは不合理だ。ブログも書く元気も失せるぜ。
 
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
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Village Design 24.  大理〜麗江・洱源周辺

2007年11月10日 | field work
 ニューアーバニズムのデザインエッセンスは、建築様式をみれば一目瞭然であり、多くはアメリカ植民地時代にデザイン規範を求めている。当時の植民地様式自体が、ヨーロツパから持ち込んできたデザインを基調としながら、アメリカの風土に応じて形成されてきたのである。こうしたルーツはイタリアやフランスやイギリスの集落などにあり、さらにイスラム様式である中庭を配するといった具合に、世界各国の建築様式を加味したデザイン・コンプレックスの一面があると、私は解釈している。それ故に、ニューアーバニズムのアメリカでの呼び習わし方である、新伝統主義(ニュートラディッショナリズム)は、概念としては大変わかりやすい。
 さて日本のルーツはどこかと考えれば、屋根瓦や土壁といった素材に着目すれば、当然中国の建築様式が取り入れられているのであるが、しかし空間構成原理である院子(中庭)が書院造りの頃から存在しない。ヴィェトナムに国境を接する雲南省と日本とは、高温多湿であることに変わりがないから、類似性がみられてもよいが、歴史上の事実はそうではない。日本では縁と呼んでいる回廊によってかろうじて、中庭のような囲われた空間はあるが、院子のような強い求心性はみられない。当然法隆寺伽藍といった中国伝来の様式による影響を受けての書院造り様式であるのだから伝播といってもよいのだが、民居の世界では、文献もなく、実際はわからない。恐らく弥生時代の様式を敷衍し、母屋に、敷地の周囲を柵で囲った位の館だったのかもしれないが、実際はわからない。
 よくわからない日本はさておき、中国に話を戻すと、この地方の様式である三合院による民居の中庭が、上図の写真である。外部に対しては、およそ開口部を持たない厚い土壁で遮断されているが、中庭に面しては建具を活用し開かれた空間構成となっている。中庭は、採光や生業の場として使われ、院子なくして、この様式の民居は成立しないだろうということが理解できる。
 特に中庭と母屋との敷際に設けられた下屋が、憩いや農作業や生活といった多目的な利用が、周囲に於かれた道具などから伺える。こうした下屋が中庭を囲むようにデザインされているのであるから、当然入り隅空間となっている。これに対し日本での書院造りでは、母屋の周囲に下屋に該当する縁を回しているのであるから、出隅空間となっている。こうした違いは、空間構成原理の基本に関わる大きな相違点である。三号院の入り隅空間の典型といえば、街路といった屋外空間を自分たちの住まいの延長空間として扱ってきたヨーロッパの古い都市である。このブログでは、たびたび中国とヨーロツパとの類似性を指摘してきたが、シルクロードを通じた文明往来の経緯とを併せて考えれば、中国建築の空間構成原理の一部には、ヨーロッパとの相互交流の所産が含まれていると思われる。
 さて数時間後に、朝一の新幹線で拷問のように退屈な、名古屋に行かなければならないので、二日ほどブログを休みにする。早々に引き上げて、また次の集落を紹介したいと思う。
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
CanoScan9950F
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Village Design 23.  大理〜麗江・洱源周辺

2007年11月09日 | field work
 洱源(当て字を使用)周辺の集落を探した。表通りから坂道になった路地を上がる。曲がりくねった路地沿いには、土壁の民居が数多く存在していた。山間部の僅かな土地を耕作し、生業としていることが、民居の設えから伺える。多くの民居は、石材を土台とし、日干し煉瓦による壁構造で、屋根は多雨の故か瓦葺き、といった具合に、この地方の何処でもみられる建築様式である。特に小屋の部分を二階建てとしているのは、野菜類や藁の防湿や乾燥を考慮しているのだろう。
 洱源周辺の集落は、緩傾斜地に緩やかに曲がり上ってゆく路地主体の空間で形成されている。路地を歩いてゆくと、緩やかに視界が変化してゆく。路地の交差は、十字路ではなく主に三叉路であるから、正面には民居がアイストップとなってくる。 実際に歩くと心地よい落ち着きが感じられる。
 路地沿いに民居の土壁が林立する様子は、見事である。大地からそのまま生えてきたようなデザインは、周囲の環境ともよく調和しており、無駄のない群建築のランドスケープは大変美しい。建物が比較的不整形に配置されているために、路地の幅がふくらんだり狭まったりする。おそらく地形や生業や隣接する民居との関係で不整系な配置になっているのであろう。不整系ではあるが、このほうが生活の上では、合理的な意味を有していることは、日本の集落を歩いてきた経験から理解できる。この集落のように生活の必然性によって、環境を了解しながら設えられてきた配置は、形態的真似をしようとおもっても、容易にできるものではない。
 中国に限らず世界に現存する多くの集落には、私達が環境デザインにおいて研究や制作をしてゆく上で、学ぶべき点が多々ある。第一義的には、風土性だろう。地域の環境と暮らしとが、長い年月の中で、最適な関係性を築きあげてきたこと。それが群建築の美しさや合理性につながっているのである。こうした考え方や手法を、世界の集落ライブラリーから学び、現代デザインとして展開してきた実例をあげるとすれば、トラディッショナリズム、新伝統主義といった新しい住宅開発の環境デザインである。別の言い方をすればニューアーバニズムと呼んでいる。
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
CanoScan9950F
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Village Design 22.  大理〜麗江・洱源

2007年11月08日 | field work
 8月末日私達は、大理からナシ族自治州の麗江を目指した。中国は、毎年地図が変わるほど、新しい道路の建設スピードが大変速い。私達も、地図に記載されていない新しい、幅員4車線の国道を走ることができた。交通量も皆無であり、大変快適な道路であった。あら!、沿道で手を振っている人がいる・・・「いいの、いいの、気にしない!」、快適な道と陽気な運転手だった。
 しばらく走ると人民警察の新型パトロールカーが後ろに見えた。オオッ!!車種はヨーロッパ車かな!?。実に結構なスピードで走っていますな!! 私達の車は、ボロいワーゲンサンタナだから、軽く追い越されてしまった。・・・あれっ!はるかかなたで停まっている。ハハハ!!故障したか!! そう思っていたら、私達の車は、路肩へ停車してしまった。軍服のような制服の人民警察官が立ちはだかっていた。チャーターしたタクシーの運転手が連行された。 私達を最初から案内してくれている中国華南建設院のチー先生が、「運転手が拘留されるかもしれない!」と言い捨て飛び出していった。突然、険悪な空気になった!!。
 運転手が謹厳な警官の前で、犯罪人のように肩をうなだれ生気をうしなっている・・・・・と思えば、警官の肩をだきながら、愛嬌を振りまいている。警官は動じない。なにやってんだろー!?。
 チー先生が、戻ってきたので事態が判明した。40kmオーバーの速度違反、反対車線走行、警察の停止命令無視、罰金300元、免許停止三ヶ月と、運転手の交通違反だった。このまま運転手を拘留されたら、私達はどうなるのか。ここじゃ変わりの車は、拾えないし・・・。
  ふて腐れた運転手が戻り車を動かしたので、私達は安堵した。どうやら外国人を乗せているという理由で、拘留は免れたらしい。免停は翌日から執行されるそうである。明日からの彼の生活は打撃をうけるだろうな。
 そんな道草をしながら、私達は洱源(あて字を使用する)という大ぶりの集落についた。中心街路は、美容院や理髪店などがあり、比較的町の様相を呈している。近郊農家からやって来た行商人らが路上で店を広げていた。また中国では、よく見る光景である路上屋台も出ていた。屋台は、日本では祭礼時に出店するが、中国の路上屋台は、毎日何処でもみかけた。私は、道路の使い方という点では、ヨーロツパ的だと思った。
 何かと、道にまつわる出来事が多発した、8月末日であった。
 
1999年8月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
CanoScan9950F
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Village Design 21.  大理・蝴蝶泉

2007年11月07日 | field work
 少数民族は、異なった歴史背景を有する故、それぞれ固有の文化をもっている。そんな象徴が民族衣装に現れている。これまで民族毎に異なる個性的で美しい衣装は、世界のトップデザイナー達に大きな影響を与えてきた。 
 中国55の少数民族の衣装について記した文献[注]から、ペー族の民族衣装に関する記述を以下に引用する。
 
「ふつう娘たちは,十五になると機織り,手染めの木綿地にカラフルな飾り模様を縫い取り,美しいスカーフに仕立てて身を飾った.彼女達の手になる前掛け,スカートのひも,頭巾,靴,おぶい紐,帽子,靴下つりなどはいずれもみごとな伝統工芸品である.・・・(中略)・・・中年や若い女性は,前身ごろが短く後ろみごろの長い白い上衣やゆったりした藍色の上衣,それに黒か紫のベルトの衿つき上着を重ねて着ることが多い.チョッキの右衿には銀の飾りを三本か五本さげる.腰には刺繍したリボンで縁どった短い前掛けをつけ,先の方にそれぞれ二本模様を刺繍した腰帯を前できつく縛ってたらし,しなやかで細い腰を強調する,下は藍か緑のズボンをはく.そして刺繍つきの「百節靴」をはく.娘達はみんな銀糸細工の腕輪や玉の腕輪,竹の皮を編んだ腕輪,柳葉の耳輪,ホーローの指輪,銀の櫛などを好む.」
 
 地域によって少しデザインは、異なるようだが、三月街(いち)になると、若い男女は民族衣装をまとい、娘達は、最もおきにいりの装身具で飾って、競馬、弓術、歌舞に興じるそうである。こういう山奥の集落で、このような美しい衣装で着飾った娘達が突然現れたらといった昔の旅人の体験を想像すると、一生忘れられない風景になるだろうと思われた。聞くところによると、現在の大理は、新婚旅行地だそうである。
 蝴蝶泉という公園を歩いていたら、木陰で民族衣装を縫っているペー族の一群に出会った。縫製や刺繍をしていたのは、年配者と若い娘達であった。こうして技術の伝承がなされてゆくのであろう。若い娘にとっては、着飾って祭に行きたいのだから、熱心に覚えることだろう。このような光景をみていると、伝統技術の伝承とは、歴史だ、文化財的価値だ、といった教条主義や保護主義といった観点ではなく、むしろ引き継ぐ側に、生活上のモチベーションがあってこそ自発的に伝承されるのだということを思い知らさせる。伝統技術の伝承とは、本来そうあるべきだと私は断言しておく。
 
注:京都書院アーツコレクション11,色彩のコスチューム,京都書院編集部,1996.
 
1999年8月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
CanoScan9950F
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Village Design 20.  大理・周城

2007年11月06日 | field work
周城付近の畦道を歩いていたら、村人の一群が私達の前を横切っていった。陽気な子供達の後に、料理を乗せたデーブルを持った村人達が続く。白飯や椎茸、それに彩りが鮮やかなのは多分野菜を揚げたものだろうか。後ろのテーブルには、子豚の丸焼きがみえた。広東料理でもみたが焦がさずに焼き上げている。一群の後ろに目をやると、 民居の路地から深閑とした空気に包まれた少数民族の一群が、こちらに向かってくる。雰囲気か少し違うようだ。衣装も見慣れた若いペー族のものとは異なる。よくみると葬式のようだ。あの料理は供え物なのだろう。
 私は彼女たちが顔を隠す前にシャッターを押していたが、本来ならば撮影を控えるべきだったのかもしれない。撮影された衣装は、ペー族の大人が着用するのだろう。厚手の生地で織り上げられた帽子が小姐のものと形状が似ているようだ。きちんと正装していることがわかる。腰に巻かれた帯がアクセントとなり、全体としてなんともシックな装いである。
 大理の集落を歩くと、風土と生活に根ざした民居、料理、衣装にこの地域固有文化性を感じさせられる。現在、中国の経済成長によって、こうした風景が何時まで続くのは、私にはわからない。地域固有の文化が、観光資源として展示され、陳腐化するという現実も、中国では既におきている。生活の必然性や実感を欠けば、地域文化も単なる観光ショーやTVメディア等の道具でしかない。
 そうした陳腐な姿になれぱ、それは私達の関心外である。衣食住すべてにわたり、地域固有の文化性を捨ててきた、これまでの日本人の行動を思い起こせば、この地方のこれからの姿が懸念されるところである。といって私達には、こうした地域に対して、そのままでいるべきだ、などといった類の無責任な発想は、持ち合わせていない。複雑な心境で、私は葬列を見送った。
 
1999年8月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
CanoScan9950F
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Village Design 19.  大理・周城

2007年11月05日 | field work
 周城の集落は、概して日本と似ているが、少し異なるのは、日本のような鎮守の森がない。宗教が違うから当然なことである。その変わり集落の四つ辻に、オープンな広場的空間がみられる。写真にあるように、大樹がシンボルマークとして立ち、少し不整系な四つ辻が広場的な空間となっている。
 そういえば、喜洲鎮では、明快な空間的広がりを持った広場があった。雲南省の集落は、どちらかといえば、ヨーロッパ的な空間形成に、近いのかもしれない。教会に該当するのが儒教寺院であり、その玄関先が、東屋や池泉を配したレストスペースとなり、市が立つなど広場として使われる、といった具合にである。
 私は、集落民居を尋ね歩いているのだが、独自の文化をもっている少数民族に関心がシフトしてくる。人間にはまるというべきか。実際に、撮影対象も民居よりは、次第にこの土地で暮らす人間の方が多くなってくる。
 周城の広場を徘徊していたら、店先に座り込んだ怪しい静かな気配を感じ、なんとなく私はシャッターを切っていた。帰国後スライドを眺めていたら吹き出してしまった。なんという怪しい哲学的な老人達。人民帽に文化大革命時代の名残がみられるが、そんなモノゴトとは関係なく、その人なりに、この土地で長く暮らしてきた風貌がすごい。ここでは、こうした老人達が佇んでいること自体、至極当然の風景として、周囲にとけ込んでいた。
 実は私達が、雲南省の集落調査していた際に、時折こうした哲学的な老人達を見かけた。話を伺うと、穏やかな口調で、文物や地勢を理解し、漢詩などの素養を感じさせ、顔立ちは知的であり、そうした姿全体から知性が感じられた。私は、文化の哲人だとおもった。そこに日本より古い文化を有する泰然とした中国の姿を感じた。
 そう思えば、老人達が片隅に追いやられた日本の大都市の風景は、異常であると私は思う。排除する側にも、排除される側にも、ともに哲人的な眼差しを感じるような人物は、先ず見かけない。老人達の姿をウザイ!と思う人間と、老人であるとすることへの甘えの構図が、ぶつかり合っている状態にしか、見えない。日本では、料理の鉄人はいるのかもしれないが、聡明な文化の哲人はいないのだ、と私は思った。
 
1999年8月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon Coolscan3.
CanoScan9950F
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