Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

番外編406.  横浜の空気

2019年02月18日 | Yokohama city

図1. Stranger(伊勢崎町) 横浜に住んでいた頃人間の写真を撮り歩いた時期があった。

 

 図2. Invader(中華街)違和感がある人間が時折出没するのも横浜だと思う。それにしてもライツ・エルマリートはとても綺麗な描写をしてくれる。

 

図3. Summer sky(みなとみらい21地区)若者達の一群を追いかけていったら夏があった。

 

 図4. Etranze(元町)どこか違う方向をみているように感じられた。

-------------------------------------------------------------------

(本文) 

 さて撮影の対象も、誘われて鉄に始まり、その背後の街へ関心が移り、そして街の主役である人間へと関心が向かっていった。この頃横浜美術館で、フォトグラファーを招き写真講座が開かれていた。そんな教室に参加していた影響もあり、混沌とした街や人間を撮ることに没頭していた。あるときはストーカーのようにあとをつけ、またあるときは盗撮者のように・・・である。そんなことが結構許された時代でもあった。

 それは何かの記念写真やイベントのようにとり澄ましたものではなく、偶然遭遇した街や人間性だろう。そんな被写体にひかれていったのかもしれない。

 実際、世界のグレート・フォトグラファー達は、そんな人間性を数多く捉え優れた作品を博物館などに残している。アーウィング・ペンの「コレット」、ユージン・スミスの「日本」、アンドレ・ケルテス「公園の二人」、マン・レイ「ヌード」 などの写真をあげるまでもなく、人間は時代の体現者として登場してくる。

 あるとき鎌倉駅のホームで、フィーリングのままにデジタル機材のシャッターを押したら、横から被写体ではない小太りの中年の叔父さんが「何を撮りましたか?」と尋ねてくる。関係ないだろうあんたにはと撮影画像をみると、女子高校生達が写っていた。ハッはぁーん。

 また京都の街で撮影していたら、突然横から「撮影した画像を見せてください!」と地味なお姉ちゃんが絡んでくる。なにこの人!!、それで古い民家の写っている撮影画像を見せたら、「いいです・・」だって。いいですだなんてお前の許可なんかもらう必要はないだろうよと相手の高飛車な意識にこちらはあきれた。

 つまりどちらも盗撮だと思ったのだろう。そして他人に対して高飛車なところが中学高校の学校の先生の臭いがした。ふと彼らは、何故撮影者にあえて横やりをいれてくるのだろうと考えた。

 おそらく当時盗撮が社会や学校で話題になっていた。例えば学校の先生がビデオカメラのモードで児童の透けた水着を撮影していたこともあったと記憶している。だから警戒心がはびこっていた。なんで身内の出来事でこっちに矛先を向けてくるんだか・・・。

 つまり私が街を撮っていると、盗撮していると思われたのかもしれない。しかしそれって戦前のお互いがお互いを見張って警戒し、違反したら密かに憲兵隊に通知する体質とにているではないか。最近なんか身の回りが窮屈に感じるのは、そうした戦前の意識が今の社会に蔓延しているのではないかと思っていた。

 人のことなんかどうでもいいんじゃない。そんなおおらかな世界はどこへいったんだろう。

 当時そんな日本に嫌気がさして私は中国雲南省に飛び、古い集落と多くの少数民族を撮影する仕事に没頭していた。このブログでは2007年10月28日〜12月16日のVillage Designのシリーズ、さらにその後に散発的にアップされた雲南省少数民族の画像などである。

 

神奈川県横浜市

Pentax ME,Tacmar120mm/F2.8、Leitz M4-P,Elmarit28mm/F2.8、T-Max,Tri-X

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編349. 横浜4.

2018年05月03日 | Yokohama city

 ブログに画像をアップさせても今一見栄えが悪く、やり直すことがある。今日もそうだった。いろいろレイアウトした結果見られるのはこれか・・・横浜で撮影した綺麗な脚。

 見られるという意味は、クロッキーあるいはデッサン的に見て腰から上の骨格やボディはどうなっているんだろうと類推したくなるので(ほとんど言い訳か!)。こういう骨格の場合は、多分上も細いし、脱がせるとボディは格好が良いと思うけど・・。

 そう思うのも、昨日はクロッキー教室で裸婦をデッサンしていたからだろう。なかなか人体というのは、難しいなと思いながら、デッサン力維持のために描き続けている。

 ・・・いや今日はそんな話ではなく、目下足指骨折で5月20日頃には医者のスポーツ解禁の診断がでるだろう。それに備えて、次のダイビングでMSDの資格をとろうと目論んでいる。先ずはレスキューの講義からだ。骨折していてレスキュー講習というのが笑えるが、まあ能力向上をめざして。

 人間が暮らしている対流圏の範囲は、地球上11kmであり、それ以上は成層圏になる。新幹線なら5分もかからない距離だし、阪急なら河原町から高槻までもゆかない距離、いいとこ大山崎ぐらいか。その僅かな層に人間を始め多くの生物が生息していて、その中で建築をつくっている。だから、その対流圏からさらに上へ行くか、下へ行くかとなると、それぞれ違う環境なのだから、お勉強と訓練と装備が必要になる。ダイビングは後者だから、当然勉強はしておいたほうがよいだろうというわけだ。まあ人間は魚ではないしさ。

 今日のブログは、画像も差し替えたけどテキストも2/3位書き直した。全くやれやれのブログだな。

 

2000年横浜市、PENTAX ME、120mm/F2.8、トライX

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編348. 横浜3.

2018年05月02日 | Yokohama city

 さて横浜市は、人口数で日本第二位の都市に立ち上がり、そんな都市の拡大が、そのままこの西口地区にも表出されたような感じであった。ここは東横線、京浜急行、相鉄線のターミナルでもあるので、神奈川県の南部や内陸部から、やってくる人達が多いのだろう。実際狭い繁華街エリアは、いつも人であふれかえっていた。そんな人の多さが当たり前だった時代である。

 今の横浜も、おそらく同じように人出は多いはずだが、他方で全国地方都市の中には、人口減少による都市活力の低下がボディブローのように影響し始めているのではなかろうか。

 家計調査という総務庁統計局の調査が毎月行われている。それは、全国サンプル3000世帯の収入が何にどれぐらいの金額を支払ったかとする調査だが、商業需要を測定する指標の一つでもある。

 そんな商業需要を測定すると、すでに需要がないどころか、マイナス需要の地方都市が多いと推測している。つまり店が多くお客が少ない状態だ。時間があれば、いくつかの指標を設定して全国地方都市の消費需要測定をしてみたいと考えている。

 その結果、あきらかに10年後に都市として破綻する可能性をもった地方都市が多数あらわれるのではないかと予想している。そのような都市になると、もうどんな活性化策という薬も効かないSTAGE4の都市だ。

 もうそんな兆候をもった都市が出現しているのではなかろうか・・・。それは幾つかの指標を用いて統計解析をすれば容易に判明するだろうと推測している。

 

1997年横浜市、ミノルタCLE、Leitz Elmarit28mm/F2.8,トライX

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編347. 横浜2.

2018年05月01日 | Yokohama city

 横浜駅の東口はSOGO百貨店がありはするが、どこか近寄りがたい退屈さがあったのに比べて西口は、建物が乱雑に隣接して建ち並び、運河が通り、屋台が連なり、人出も多く、街の構造は単純なのだが、それでも混沌とした世界だった。それは今も変わらないだろう。このメインストリートの一番奥に東急ハンズがあるから、すくなくともそこまでは繁華街が連綿と続いていた。仕事に飽きる夕方頃になると散歩がてらに飽きるほど訪れた。

 この頃は、名古屋の大学に赴任していたが、新設学部だから学生数も少なく、自由裁量労働制(働く時間と場所は自分で決めなさい)という規則をいかんなく発揮し週に二日も大学にゆけばよい方であり完全に自宅ワークだった。ネットワーク社会を先かげていたので、自宅仕事でも十分用は足りたのである。おかげで学生達からは、大学にあまり来ない先生という認識もされた。

 さらに上手がいて、大学には月一度という先生もいたぐらいだ。そうなるとほとんど行かないのに等しい。大学とは、そういうところなのだ。みんな自分の仕事があって、自宅なら雑事にかき回される必要がないから、論文や原稿の執筆などがはかどるのである。

 毎日大学へ行くようになったのは、京都に引っ越してからだった。新幹線通勤で毎日通えること、そして自分の荷物を全部大学へ送ってしまってから後のことである。そうなると今度は、大学に泊まることにもなる。実際大学に連日泊まり生活をしていた先生もいたぐらいだ。

 不思議なのは、本代や新幹線通勤の費用の半分を自分で負担していたことだ。全くお人好しな話なのだが、あり得ないことが大学ではおきる。

 だから大学の先生も文献や研究資料は個人で所有している。それは大学院時代からの習性なのだろう。本などは図書館で購入すれば返さなくてはいけないが、個人所有ならその必要がない。おかげで大学の先生が読んできた本を学生達が読むという教育上の効果は皆無である。それよりも学生達も本を読まなくなったということのほうが大きい。

 そんな個人蔵書も大学を退職するときにほとんど図書館に寄贈してしまった。つまり邪魔だからという理由で。ここまでくるとお人好しの限りである。

 それでも自宅には、まだ6連分の書架以上の本がある。全く片づかない。ありがたいのは最近学会誌が電子ジャーナルになったことだ。毎月届く学会誌をストックすれば、あっというまに書架が一杯になる。自分が投稿した論文が掲載されている学会誌は残すが、あとは全部捨て。アカデミズムというのも大量の紙を消費する世界だ。それで文化が継続されるのだろう、・・・多分ね(笑)。

 街論の話を書こうとして、また脱線してしまった。

 

1997年横浜市、ミノルタCLE、Leitz Elmarit28mm/F2.8,トライX

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編346. 横浜

2018年04月30日 | Yokohama city

 街論の続きは、横浜にしよう。棲めばハマッ子という説に従えば、20年住んだから立派にハマッ子。

 横浜の街の中には幾つかの丘があり、ギリシャのアテネと似ていると指摘した話もきいたが、実際に坂道の多い街だ。そんな街中を京浜急行や東急東横線が高架で通り抜けている。その高架下がディープな空間だったりする。運河沿いを歩けば宮川町の都橋商店街などという変わった空間もある。

 私がデッサンの研究所に通ったのも横浜市東神奈川だった。東京に美術研究所がたくさんあるのに、何故か横浜でデッサンの基礎を勉強し、日ノ出町にある山手学院という予備校に通ったぐらいだから横浜の街とは縁がある。

 東神奈川の美術研究所から5分ほど歩いたところに古い文房具屋がある。画材のケント紙をいつも調達していた。それも若く地味なお姉ちゃんに、いつも大きなサイズをカルトンの大きさにカットしてもらっていた。だから顔を覚えられていた。絶対あれは、お互いに気があったから、話し込んでお茶に誘えばよかったか。そんな余裕もないぐらいの律儀な浪人生だったのだろう。手を上げそびれて通り過ぎてゆく、そんな話は誰にでもあるだろう。

 さてこの画像が、その浪人時代の文房具屋だったかどうかはわからない。でもこんな感じだったのだろう。歩いた街の風景が記憶の引き出しをあけてくれる。

 話題は変わるが昨日も、少しだけ京都の街歩きをして猛烈な運動不足の解消に努める。昨年は七条のマッサージ屋に通うために途中の街を撮影していった。そしてそのデータを誤って消去し、ブログにアップした画像が僅かにのこるばかり。同じ画像をとる気分でもなく、今年は二条駅西の現像所へゆく道すがらを撮影している。不思議と同じ道を歩くことがないが、京都も狭いと感じている。さてダイビングに行くには、もう少し骨折の回復が必要だし、まだまだ我慢の日々が続く。

 

2000年横浜市、LEICA M4-P、Elmarit28mm/F2.8,T-MAX

ブログトップ画面 https://blog.goo.ne.jp/doctormic

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編286. ライフシーン

2017年05月18日 | Yokohama city
 その鶴見線を走っていた1両編成の電車がこれ。外壁のリベットがいかにも戦後復興の頃走っていたことを物語る。こんな車両が首都圏で最後までみられたのが鶴見線である。Googleで調べると、クモハ12形という車両のようだ。
 私は鉄ちゃんではないので車両の前面を写す事もなく凛とした女子高校生にレンズが向いた。工場地帯の住宅へ帰るところだろう。沿線は工場に隣接して狭隘な住宅が数多く密集している。オトンは鶴見の工場労働者でオカンが家を切り盛りしているんだろう。二人兄妹であり、お兄さんは工場労働者、その妹は、そろそろ進学か就職かの頃であり、進学しても近所の鶴見女子短期大学あたりだろうし、就職なら近辺の工場の事務職員か。なんかさえないなぁーという表情をしつつ、 典型的な6頭身の体格が良いボデイと少し筋肉質な足はバレーボール部だろうか、部活に励んでいるこのあたりの普通の女子高校生といった具合にライフシーンが浮かんでくる。そんな風景にすれ違った夕方の鶴見線のホームであった。
 鶴見は、JRの駅を介して海側に続く工場地帯と、鉄道に接近している総持寺の丘がある山の手の坂道をあがると閑静な住宅街が続くといった具合に明確に環境が二分されている面白いところである。
 さて最近朝起きてブログを書いていた。これが体に実によくない。そこで朝は散歩に行く事にした。最初は2時間程度の散歩で疲れたが、毎日散歩していると体が慣れてくるようだ。ようやく人並みの体力回復につながるとよいのだけど。 

横浜市JR鶴見駅
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編285. メカニズム

2017年05月17日 | Yokohama city
 横浜市には鶴見線というローカルなJR路線がある。本来工場へ通う労働者のためにあるから、地図でみると工場毎に複数の支線が設けられている。この電車を途中下車して歩くと工業地帯に取り囲まれた景観が広がる。聞いた事もない企業名があり、何を生産しているのかはわからないので、どこか秘密めいているところが余計に好奇心をそそる。
 Googleでこの撮影場所がどこだったか探ったがわからなかった。運河を超えて見つけた風景だから標高が少し高いはずだ。実際このあたりは、沿道に倉庫群ばかりが立ち並んでいるので画像のようなメカニズムがある風景には容易には出会えない。だから足を棒にして延々と続く退屈な倉庫の続く道を歩くほかないのだが、一番良いのは工場の家族見学会等を行っている時こそ是非便乗させてほしいところだが、今時そんなイベントがあるだろうか。
 背後右側にコークスの山だろうか、その山の上にショベルカーが見えていたりと不思議な風景ではある。だから製鉄所の一角だろうか。
 それにしてもデジタルデュープのこの画像は、結構綺麗だ。多分補正したPhotoshopの力が大きいように思われる。そう考えると機材なんてどれでもよい、今はそんな時代だろうか。つまり機材にこだわるという道楽が一つ減り、遊び道具が少なくなった。
 それならいっそ昔のLeizeを頑固に使い続ける方が賢かったか。それでフルサイズのニコンDfなどが1台あれば、いつでもデジタル化できる。そんなシンプル機材でよかったのかもしれない。日本の精密産業の発展におおいに貢献しちゃったよ。

ニコンF Nikkor S-Auto35mm/f2.8,ベルビア
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編283. 赤提灯

2017年05月07日 | Yokohama city
 横浜駅西口幸川の川端にあった十数軒ほどの赤提灯を下げた屋台街である。もう20年以上前から、道路の不法占拠なので立ち退けと看板が出されていたが、ようやく最近強制撤去されてしまった。横浜の戦後の昭和の風景がかすかに残っていた。
 経営者も高齢化していたという記憶はある。博多の屋台街のように公園内であり行政が設備を整備しつつ、経営者が変わってゆくという代替わりはできなかったのだろう。
 都心は、すべて建前ばかりのビジネスライクな店になってゆくようでもある。いつもフランクに立ち寄れてヒューマンコンタクトを感じる常連さんの多い飲屋は京都にはままあるが横浜には少ないだろう。名古屋なら大学のそばで主とお上さんとで切り盛りしている「よっちゃん」だな。
 帰り道や近所にあること、顔を覚えてくれること、主とお上さんとでまかなっていること、冷凍食品ばかりを肴にしない、そのあたりが常連飲屋の条件か。今の全国チェーン的居酒屋では何回通っても客の顔は覚えないし、料理は冷凍食品の加工ばかりだし、そんな物事を数でこなそうというそっけない店は一度行くと通いたい気分にはならない。
 さらにWEBに居酒屋が登場するとしらけてしまうから、地元の人しかしらないほうがよい。そうはいっても京都の私がゆきつけの飲屋も、まあ料理がうまいこともあり口コミで最近の週末はほぼ満席。
 どうしても赤提灯が恋しいという太田和弘さんのような趣味があるならば、京都には赤垣屋と神馬がある。ビジターはそちらへどうぞ。どっちも老舗飲屋だしいつも混んでいる。

NikonF4,AFNikkor20-35mm,Vervia.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編282. 都市感

2017年05月06日 | Yokohama city

 特定の都市に関心を持つということは、その人の人生の中で関わりがあったところというのが一番大きな要因である。関わりがあるからこそ好きにも嫌いにもなる。都市に関心を持つというのは、都市を教えてきた立場としては推奨したい心がけである。
 そして都市の側に記憶に残る街の風景があるということも二番目の大きな要因。それがシティスケープであったり、お店であったり、心地よい人々であったりすることなどがあげられる。
 三番目の要因は、そこに住んでいたり何回も訪れたりと都市を共有する時間の長さである。
 都市との関わり、記憶に残る風景、都市を共有する時間の長さ、これが都市を意識する三大要因といっておこう。もう一つ生まれ育った街はどうなるかという話であるが、実はこれがあまり三大要因とは関係なく、場合によっては忘れたいところになっている場合もある。
 個人的にいえば、横浜、青森、名古屋と記憶に残る都市はあるが、生まれ育った東京の神楽坂や仕事をした西麻布は私の意識の中には登場しないし再度訪れたいとも思わない。またエキゾチックな函館がいいですよといわれても、私の意識の中には青森の個性的な風景の方が強く残っているから隣接地では代用できないわけだ。
 別の言い方をすれば、今でも何度でも出かけたくなる都市を訪ねたらみんな答えが違うだろう。それを都市感と呼んでおく。これを人に尋ねてみるのも面白いと思っている。つまり都市感を持っているというのはいろんな経験や意味付けがあって初めて可能なのだろう。
 さらに都市感のない人もいる。一生同じところに住み続けてきた人達だ。つまり常民なのである。だから都市感は流民的固有の考え方かもしれない。

NikonF4,AFNikkor20-35mm,Vervia.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編281. 横浜にはジャズが似合う

2017年05月05日 | Yokohama city
 横浜から湘南海岸は近い。連休にかこつけて横浜の話題を思い出しつつ。
 もちろん若い頃横浜のデッサンの先生のアトリエに通い、その後横浜に住んでいたから話題は多いが、総じて暮らしやすかった街である。
 私が住みだした1989年頃は、健康保険証をみながら「東京の人だもんねぇー」と風邪で通院していた平和病院の看護士さんからいわれたぐらいだから、東京に対抗する横浜の意識があった。  
 当時港のそばのバンドホテルも健在であり、夜通し踊り明かしたわという言葉も記憶にある。バンドホテルは、踊れなくてもホテルの従業員さんがエスコートしてくれて演奏でもりあげて多いに楽しませてくれた。そこがなにかと蘊蓄と形式を必要とし、敷居が高く、お高くとまった徳川幕府の末裔都市東京とは違うところであり、横浜は明治期から外国人を相手にしてきたから、どこかエキゾチックな空気が漂うさばけたな街なのである。
 今ではそのバンドホテルもなくなり、東京からの移住者や移転してくる企業も多くなり、随分横浜らしさがなくなってきた。いまでもあるジャズの老舗の一つ野毛の「パパジョン」は私も知っている。
 3~4年位前に横浜経済新聞社の杉浦さんと四川料理を食べたのが最近の記憶である。なにかと機会ができたらふと訪れたくなる横浜である。
 さてその横浜だと何処に泊まるか、一押しはニューグラウンド、次いで関内のJALシティか馬車道のリッチモンドホテルで決まり。夜出やすいところは限られてくる。湘南へ出かけたり夜フラッと遊びに行くのに面倒な東京のホテルはパス。それに東京だと、常に仕事に追われているようで何処に泊まっても落ち着かないのだ。もうその気分になっている。そんな仕事が来ないかな。
 当時東京で仕事をしていたためか、休日は横浜・湘南と東京に背を向けて暮らしていた。そして横浜にはジャズが似合う。

横浜市大桟橋
ニコンF4、AF35-70mm、プロビア
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PEN LIFE831. まだましか・・・

2014年01月09日 | Yokohama city
 ようやく原稿が半分終わった。締切日まであと5日あるのが救いだ。時間に追われる原稿書きも久しぶりだ。
 今朝は、朝一講義なので気温は-1°とすこぶる寒いなかの出勤だった。これからしばらくこういう痛い位の大変冷たい風を受けつつ朝の出勤が続くのだろう。本気で寒いのだ。それに比べれば、先日の首都圏の気温は暖かったこと。
 こういう酷寒の体験は、筑波大学にいたときに経験している。なにしろ札幌と同じ気温だったと物理の先生が公言していた。夜は製図室も暖房が切れているので、限界が来たら宿舎に帰る。それも自転車で20分はかかるのだが、帰り道の異常にきつかったこと。こういう状況の時は感覚も麻痺していて寒いなんて感覚は通り越して、動くのがいやになってくる。ああっ、あの凍ったような地面で寝たら気持ちいいだろうなどという、とんでもないことを考えたりする。つまり凍傷のはしりだろうか。
 ニュース報道によれば、アメリカ大陸の中部では大寒波で-34°だそうだ。つまり5分も外にいれば、間違いなく凍傷にかかるというわけだ。それはすごいなと思いながら、アメリカの家は断熱と空調がたっぷりきいているんだろうと推測する。そうでなければ、生きてられないよ。
 そかんなところと比べれば、京都はまだましか・・・。

横浜市 YOKOHAMA COMMUNITY DESIGN LAB
OLYMPUS PEN E-P5, M.ZUIKO DG17mmF1.8
ISO800,露出補正0,f1.8,1/60
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PEN LIFE830. 時間帯

2014年01月08日 | Yokohama city
 締切間近の原稿と学生達の卒業制作があるから、久しぶりに夜10時前に家にたどりついた。そして夜中の1時ぐらいまで起きていて、翌日ゆっくり出かけるというのが私流のペースなんだけど、明日は朝一番から90人も出席する講義だよ。朝の7時には家をでなきゃ。
 原稿を書いていると、当然はかどる時間帯と停滞する時間帯とがある。一番アイデアもわき筆がはかどるのは、実は若いときから夕方からなのである。だから夕方待ち合わせなんていうのは、もう最悪としかいいようがない。断腸の思いで約束に向かうことになる。当然進む仕事も進まない。
 だが人間もわがままで、夕方からはかどる仕事も夜8時になると一区切りつけたくなる。そうするとストレス発散で飲みに行きたい。昔は名古屋に大学時代の同級生俳人がいたので、いつも夜9時ぐらいに待ち合わせて夜半まで飲みに出かけたのであるが、当然名古屋泊まり。それが一番いいペースだと思うが、今はかの俳人も静岡に引き込んでしまった。
 因みに一番はかどらない時間帯は、午後1番だよ。もう胃に血液がまわり、頭はもうろうとしている。消化されるまで寝ているほかないですね。

横浜市みなとみらい21駅
OLYMPUS PEN E-P5, M.ZUIKO DG17mmF1.8
ISO250,露出補正0,f1.8,1/60
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PEN LIFE829. キッチン

2014年01月07日 | Yokohama city
 NPO法人のアトリエを見ていて思ったが、仕事場にキッチンがあるというのが、とても良いと思った。いつでも飯はつくれるし、パーティーを開くことだってできる。キッチンは仕事をする上で、或いはコミュニケーションの必需品だ。
 であれば、料理を勉強する他ない。まあ先日WEBを見ながら、京都の白味噌の雑煮をつくったらこれが旨かった。前日から昆布を水につけておくとか、白味噌をたっぷりいれたりするわけだ。次は白味噌で粕汁に挑戦しようか。冬の定番である。つまり料理は結構面白いのではないかと思っている。
 さて大学も、徹夜態勢で学生達が卒業制作や論文に取りかかりだした。当然一ヶ月は徹夜でアトリエが使えるので、泊まり込みの制作となる。私の研究室にも、冷蔵庫と電子レンジがあるので、ある程度の自炊は可能だ。あとはスーパーでお総菜を買ってくればよいわけであるが、これはアトリエにキッチンがないので臨時の便法である。一ヶ月カップラーメンやスーパーの揚げ物では気の毒なので、20kgの米をゼミ生達に寄贈した。米を寄贈するなんてえらく古くさい話だけど、今でも役立っている。
 そんな自炊徹夜学生達をよそ目に、こちらも原稿にとりかかりだした。なにしろ来週締切なので、時間がない。あっちもこっちも静かに稼働しだした大学の風景である。

横浜市 YOKOHAMA COMMUNITY DESIGN LAB
OLYMPUS PEN E-P5, M.ZUIKO DG17mmF1.8
ISO1600,露出補正0,f1.8,1/60
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PEN LIFE828. ホスピタリティ

2014年01月06日 | Yokohama city
 横浜で飲みに行くとすれば、真っ先に野毛を思い浮かべる。飲み屋も多いが正月休みの所も多く、なかなか選べる状況でもない。もうやっているところでいいや、という気分で入ったBar。隣は演歌とJAZZの「パパジョン」である。
 野毛も、昔は外国航路の船員達で賑わっていたんだろうなと想像しながら、飲む酒は昔の味がする、と言ったら大げさか。マスターが一人でこつこつとやっている。なかなかええではないか。そんな Barが野毛には多い。
 今の横浜もマドロス風情の空気がなくなってきた。外国航路の船員と言っても、手稼ぎのアフリカ人であったり中国人であったりするわけだ。彼らが街中へ繰り出すことはほとんどない。だから外来文化も最近では、インターネットの世界だ。そうなると最早横浜ではない。
 当時のバンドホテル・シェルガーデンというナイトクラブに行けば、ホテルのボーイの親しみある楽しそうな誘いに乗せられて、ダンスフロアに躍りでて下手なダンスをすれば、ライブの楽団が大いに音楽で盛り上げてフォローしてくれる。そんなバンドホテルも既になくなって久しい。
 今はうんちくと技のある人間だけがスポットをあび、それ以外は壁の花になりなさいと、実に門戸の狭い冷たい社会ばかりだ。それが当然だと思われている。
 だが、実はそうではないのだ、ということを言っておきたい。踊りができないからこそ、ライブの楽団が大いに音楽で盛り上げてくれるときの気恥ずかしさと感激、そんなバンドホテルのホテルマンやバンドマン達のホスピタリティは、今も忘れない。
 言い換えれば現代社会が、そんな私達が体験したようなホスピタリティを忘れているということだろう。今のエンターテイメントは、冷たいよな。あれって東京人の感覚だよな。
 踊れれば楽しいんだろうなと思いながら家路に着く東京エンターテイメントと、踊れないけど楽しかったという横浜エンターテイメントとあなたはどちらがお好きですかと、私は問いたい。ただし後者は今は存在しない。したがってまた作りませんかという企画のヒントになると思うが。

横浜市野毛
OLYMPUS PEN E-P5, M.ZUIKO DG17mmF1.8
ISO1600,露出補正0,f1.8,1/60
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PEN LIFE827. シェアオフィス

2014年01月05日 | Yokohama city
 ヨコハマ経済新聞の杉浦さんに、NPO法人のシェアオフィスを見せていただいた。
 そこは、50人ほどのアーティストやプログラマーやメディア関係の人達がシェアして借りているアトリエである。借り手自らが内装工事を行い、アトリエらしくするのに、三ヶ月ほどかかったそうである。こういうシェアオフィスが都心にあるというのが、いかにも横浜らしい。横浜の都心には、まだ古いビルがポツポツとあり、安い賃料で貸してくれるとのことだ。
 そういえば、私の大学時代の後輩S女子は、ヨコハマの戦後復興のシンボルであり、その後消防法に適応しなくなったためにホテルの廃業を余儀なくされた、シルクセンターの1室をデザインオフィスにしていたことを思い出した。
 横浜は、個人で活動するアートやデザインの香りがただよう街であり、それがよく似合うところだ。いち早く行政がデザイン都市宣言をしたし、来るモノは拒まず、去る者は追わずの精神が、今も自由な文化をはぐくんできている。
 杉浦さん達と四川料理の天富園へくりだす。京都の料理に慣れきった舌に、四川料理特有の辛さある麻婆豆腐やキムチの刺激には、随喜の涙を流して喜んだ。久しぶりに味覚が戻ったような感覚だった。紹興酒のボトルが軽くあいてしまった。
 さてスケジュール表を見ていたら、原稿1本に全く手を付けていないことに気がついた。ゲッ!、1週間後が締切日だって。知らんかった。明日は朝から授業だから準備もあるし・・・ならば1日早い仕事始めだ。本日は、晴天の中の帰省客にまじって名古屋への出勤、ヤレヤレだな。

横浜市 YOKOHAMA COMMUNITY DESIGN LAB
OLYMPUS PEN E-P5, M.ZUIKO DG17mmF1.8
ISO1600,露出補正0,f1.8,1/60
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする