Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Nikon Freak154. 「知りません!!」だって・・・

2018年02月28日 | field work

 さて過去画像は、暗いことしきり。しょうがないよ、暗い高校生活を1/3ぐらい送っていたのだから。でっ、また菅平の画像に戻る。今年の京都は雪が積もらなかったですからというわけではないけど雪への未練たっぷり。

 昨日は、ニコンアニバーサリーイベントで行われている、ニコンF、ニコンF3を持参してメンテナンスしてもらうことに。もってゆくと、よくぞ大切に使ってくれましたと丁寧な挨拶。確かにFは一生モノだったし、このあたりはさすがニコンですね。Fのメンテナンス料2万円と結構なお値段ではあるが、このときに出さないとあとはメンテナンスがないのだからしょうがない。以前メンテナンスしてもらったときは無料だったけど。まあモルトの交換ぐらいですめばよいけど。

 それよりも今後この機材を使うんだろうか。オリンパスのデジタル複写システムがあるが、やはり気まぐれに使うかもしれない。というかデジタル画像に飽きるときって多分あると思う。そんなときに持ち出すんだろうな。メンテナンスの注文が多いので、目下メンテナンス完了後の受け取りは5月だってさ。

 ニコンのマイクロフォーサーズで遊んでいて近寄ってきたショールームのお姉さんに

「ミラーレスのフルサイズはいつ出るんですか?」と尋ねたら・・・

 きっぱり「知りません!!」だって・・・

おいおい、そんな暢気なこといってをいるとますますSONYに置いてきぼりになるぞーー。

 さてニコンのフルサイズミラーレスが出るのが先か、メンテナンスの受け取りが先か。わたしの経験では、噂が立つときニコンは先ず大分先の話だということが多い。多分来年以降かなと予想している。ひどいときには数年先だったりして。そんな噂通りに進まないことがあるのがニコンなのだ。まあメンテナンスから戻ってきたらFとかF3で撮影しながらに気長に待つほかないだろう。

 フルサイズミラーレスが出ちゃったら、もちろんアダプターで使えるけど大きなニッコールレンズ、ええーっと1億5千万本発売でしたか、それが全部不要になるもんね。こりゃ決断迫られるよな。こちらは大三元3本のF2.8ズームレンズなんか早々に処分したし、ニコンDfは大学へ置いてきたから、だから早くフルサイズミラーレスを出せっちゅうの。さしあたり高画質の28-135mmズームレンズなんか欲しいのですが。多分動画に特化したというプロモーションで登場するのかなぁー。

 こういうとき例えばアップル・コンピュータは、さっさと乗り換えたからね。MacOS9にタップリ慣れてソフトのバグも修理もできるぞと思ったら、さっさとOS10に移行し、アーキテクチュアも全部変えてくれて修理もいりませんだもん。おかげで今のiPhoneなどとも馴染みが良いのだけど。WinなんかいまだにMS-DOS時代のキーボードが散見するけど、あれって何!?。だから変えるときはさっさと変えちゃえばというのが私の意見。そんな箸にも棒にも引っかからない保守的なニコンユーザーなんかどうでもいいでしょう。

 でっ私はキャノンから乗り換えて再びニコンに戻りたいわけです。というのもキャノンは裏面照射型COMOSなんか特許の関係があるからつくれないでしょう。であれば既にシステムが古いのですが、どうするんだろうか。もうデジタル一眼レフは、昔のミノルタ、つまり今のSONYに追いつけ、追い越せなんですね。

 SONYαの欠点、バッテリーの消耗が早そうだ、どんなレンズを付けても似合わない独特すぎるボディデザイン。そんなところを解決しつつ、CP+2018のニコンのアナウンスをみるとプレス発表に時間を割いているけど、やはり発表するのかなぁー・・・。

 

1983年長野県菅平

NikonF,NikkorHAuto28mm/F3.5,コダカラー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編311. デジタル・デュープ

2018年02月27日 | Tokyo city

 いつかはやろうと思っていたネガフィルムのデジタルデュープを続けている。目下モノクロフィルムにとりかかっている。外は寒く家に閉じ込められているときでないと絶対にできない仕事だ。春が来るまでには終わらせたい。

 もう50年前のネガなどがあり私が中学生の時だ。そんなネガはすててもよいのだが、やはり写真屋の息子だったDNAがあり、デュープをつくるまでは捨てられないという根性が邪魔をしている。結局1964年から1968年頃のネガがかたまってでてきた。これから取りかかるか。

 おかげて、中学1年生の時に画像と向き合う事になった。親父のお下がりのオリンパスペンEESだ。ハーフサイズでプログラムオートであり、はじめて写真の面白さに乱写といってよいだろう。傾いたりピントが合っていなかったと実にへたくそな画像であり、こんな画像が価値があるとはとても思えないがじっと耐えてデュープしている。

 そんな写真が人並みに撮れるようになったは、中学3年の頃Canon6Lを親父から頂戴してからだ。なにしろ機材が買えるような家庭ではなかったのでいつもお下がりばっかりであった。一番安い露出計だけ購入し、写真の原理も勉強して人並みに撮れるようになった頃である。

 暮れも押し迫ってたころ、友達の鉄ちゃんに誘われて銀座の都電(路面電車)がなくなるというので、その最後の日の夕方撮影に出かけた。地下鉄室町の駅を上がって日も暮れた霧が霞む曇天の街並のなかに、そこだけとても大きな黒い空気の塊のようなものがのしかかってくる異様な気配を感じた。いまは取り壊されてしまった辰野金吾設計の第一生命館が都電の背後にそびえていたからである。なくなる都電を撮りに来たのだけど、初めての建築体験だった。

 デュープをつくるという作業は、自分の過去と向き合わざるをえない。高校1年時の自分の顔写真をみると、もう頭8:2分け眼が細く指名手配の犯人みたいな顔だ。そりゃ根暗そのもので、女の子からも疎まれ堅く心を閉ざしていたし、それに豊かな家庭環境でもなかった。逃げるように写真に逃避し、といって写真部に在籍するわけでもなく自分勝手に撮影していたのだから旨くなるはずもない。当時の画像のデュープをしていても絶望の時代の空気が漂っている。こんなの保存する価値があるのか・・・。

 あるとき、そんな根暗な世界と決別する時がくる。多分高校2年生のときにワンダーフォーゲル同好会で山を歩き始めたあたりからだろう。その頃から写真と根暗な世界から遠ざかり、そして人間性も変わっていったのである。デュープしながらそんなことを思い出していた。

 画像は、2008年7月30日ブログの再掲載である。

 

東京都中央区室町銀座通

Canon6L,Canon lense50mm/F1.4,NeopanSSS

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編310. 機材フェチ

2018年02月26日 | field work

 オリンピックは終わっちゃった。終わると少し寂しい。テレビでオリンピックをみながら仕事するなんざ、なかなかよいものだったのだけど。さていつものペースに戻るか。

 撮影機材は、使い方を覚えれば誰にでも操作できる。

 ふと思うに映画監督やフォトグラファーというのは、映画や写真のことは全く知らず、むしろそれら以外のこと、つまり人間とか社会とか歴史とか文化などの被写体の側に関心と知識があって、そんな関心などをどのように記述しようか、そうだ撮影機材があったか、というので映画監督やフォトグラファーが誕生する。

 逆に撮影機材マニアは被写体ではなく道具である撮影機材に関心があるのだから、まずフォトグラファーや映画監督にはならない。幼少から撮影機材が好きというのはよくてエンジニアかプロダクトデザイナー、あるいはそのまま道楽の一つに納まったりすると私は考えている。私!?、当然後者だよ。

 1990年初め頃、横浜市内に韓国庭園ができた。そのときに使用した撮影機材は鮮明に覚えている。

Canon6L+Leitz Hector135mm/F5.6

 つまり親父からもらった6Lには、ピント合わせ用の拡大ファィンダーがついている。いまのOM-Dでもデジタル画像を拡大してピントを合わせられるので全く同じ機能である。これに外付135mm用ファィンダーを付け、最初に距離用の拡大鏡を除きながらピントを合わせ、その距離目盛りを外付け135mmのファインダーにも転用してパララックスを補正し、そして外部露出計で測光し撮影した。随分手間がかかるが当時のLeitz Lシリーズは、みんなこの方法で撮影した。だから面倒なことに慣れろというわけだ。土門拳がこのLeitz版システムを手に持っている写真を福岡でみたが、こちらはそれよりもはるかに安い頂き物のCanonである。

 デジタルデュープのレンズは、パナソニック製LEICA DG Macro Elmaritだから、きしくもライカ新旧レンズが偶然の鉢合わせ。でっ、当時撮影したレンズが良かったのか、あるいは今の複写用のパナソニックレンズが良かったのか、あるいはOM-Dのシステムが良かったのか、あるいはadobe Photoahopがよかったのか、あるいはカラーネガの保存状態が良かったのか、そのあたりはもう良かった要因を判別できないのだが、やはり今見ても綺麗な画像である。通例は原版の良さが再現できたというべきだろう。

 もちろんLeitz Hector135mmレンズは、マウントアダプターを介してOM-Dにもつくのだが、焦点距離が270mmとなり、えらい望遠レンズになってしまう。このように機材を組み立てるとか、あえて手間がかかるといった撮影方法もデジタルではできない楽しみ方の一つ。つまり機材フェチとしての楽しみ方なのだろう。

 

1990-1995年代横浜市鶴見区三ツ池公園コリア庭園

Canon6L+Leitz Hector135mm/F5.6,フジカラー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Nikon Freak153. 気になる言葉

2018年02月25日 | field work

 菅平のデュープ画像を続けよう。

 さて平昌オリンピックの放映を見ていると日本選手の気になる言葉がある。

「みなさんの応援のおかげで云々・・・・・」

 このマスメディア向けの台詞が私は大嫌いだ。勝負の世界で、応援すれば勝てる世界ではないことは、女子フィギャ・フリープログラムなどを見ていればわかるけど、勝負の世界が応援ごときで結果が変わってしまってはかなわないのである。

 おそらく選手達はマスコミ対策を指導されているから、みんな同じ台詞を述べる。こちらは、そんな形式的なことを聞きたくて放映をみているわけではない。どうせアナウンスするなら、この場でしか語れない選手の本音でも引き出して欲しいけどね。

 もう一つ気になる言葉がある。「努力」

 なんでも沢山練習して努力すれば良いなどというのは、努力しない人達のいうことだし、二十世紀的な考え方。実際羽生結弦選手は、怪我のあと一ヶ月ぐらいの練習で復帰してきたのだから、努力以前の天性の力なのだろう。それにスポーツ選手は、努力なんていわれる前にさんざん練習しているのは自明のことだから、わざわざ努力なんていわなくてよい。

 だから、選手が努力してみんなが応援すれば金メダルが取れる?、そんなイメージはNHKが勝手にいだいている幻想でして、そんな程度でメダルが取れるほどスポーツの世界は甘くはないでしょう。それにこちらは勝手に応援しているのですから(ただし外国の選手が多いですけど)、日本の選手があまりおべんちゃら発言されてもねぇー。

 つまりスポーツの世界も極限まで行くと、凡人が考えられない世界があるわけです。そんな極限をのぞいた選手が愛想が悪く身勝手であってもよいのです。とてもお行儀よくしている余裕なんかない極限の世界ですね。こちらは、そんな私達の日常とは異なる極限の世界を少しのぞこうと放映をみているわけです。

 とはいいつつも、カーリング女子がイギリスに競り勝って銅メダルだった。なかなか良いチームなんだろうと想像していた。これは唯一ホッとさせてくれる特異な種目だ。

 

1983年長野県菅平

NikonF,NikkorHAuto28mm/F3.5,コダカラー

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Nikon Freak152. 菅平の民家

2018年02月24日 | field work

 今日もデュープ後の菅平の民家の画像をアップ。カラーネガからデジタルデュープをつくり、Lightroomだけでは補正しきれないので、Photoshopで大いに補正してなんとか見られる状態にするわけだが、カラーネガそのものをみていても気づかないぐらい小さな白点が画像面にみられ乳剤の剥離あるいはカビらしいものだろう。

 さて画像は、1983年の冬の菅平の民家。薪が積んであるので薪ストーブで家全体の暖房としているのだろう。一冬分の薪といったらよいか。こうした地方は、冬に備え食料や暖房用の薪をあらかじめ準備しておかないと冬は越せない。

 菅平は今日あたりの最高気温で0度だから、寒いときは常時0℃以下の気温の中で私はマウンテンバイクで走り回っていたことになる。当時そんな低い気温は意識しなかったが、それでも定宿にしていた筑波大学生物センターの食堂では、暖め続けている味噌汁がぬるいのが当たり前だったし、室内の窓は二重窓でそとには氷がこびりついていた。

 研究目的だから撮影を意識しなかったためか、撮り方も機械的でアップできるカットは少ない。そんななかから、こんな民家はいまの菅平にはないだろうという画像をアップさせた。というのも古民家も今はペンション風に改築されていて、結構雰囲気の良い高原にしようと努力した結果それなりに新しくなってしまった。そうした程度の設備でないと、ラグビーの練習にやってくる今の学生達の居住スタイルに合致しないのだろう。そう夏の菅平は大学ラグビーのメッカなのである。

 試行錯誤の結果デジタルデュープのシステムもできたので、まれにフイルム画像で撮影してみようと思うが、いかんせんフィルムの価格が2倍以上になっているが、軟調の画像は、それも表現方法の選択肢の一つなのだろう。全てがデジタルである必要はない。

 今WEB情報に辟易している人間は多いし、当たり前の話だがWEBに依存していてはなにも勉強にならないことに人々は気がついている。そうWEBというのは、たんなる広告媒体の一つに過ぎないのであり、そんなものをみていてもなにも得るものはない。要は自分のライフスタイルの中で使い分けをしてゆけばよいだけの話である。

 私はNetscapeの時代からWEBを使っていたけど、その後Windowsが登場し一気にWEBがくだらなくなってきたし、その頃から使い分けが始まった。WEBで便利なのは、一々現場に資料を探しに行くところが、デスクにいながら入手できるといった程度だろうか。そろそろ電車の中でスマホに没頭する子供ぽいスタイルから脱却したらと思う。車窓から外をみれば絶景が広がっているときだったあるのだから。

 さて平昌オリンピックは、女史フィギャのフリーを放映していた。なんか子供がでているのだけど、日本の選手みたいだ・・・。金:ロシアのザギトワ!、体形からして15歳で大人の空気が漂う新星。銀:メドヴェージェワ、意外にも新星には適わなかったか。銅:オズモンド、絶対に失敗しないという安心感があるよね、という結果であった。

 そこからかくんと落ちるのが日本の宮原選手の4位、それ以降はみんな一緒。宮原選手の言葉「自分の演技ができれば満足です」という言葉が暗示しているように、どれだけ努力しても追いつくことができない天性がメダル受賞者の3人にあった。天性は努力を超えるのである。だから宮原はどんなに努力してもとても追いつけないと思って愕然としていたと推測する。そんな愕然としている選手にインタビューなんかするなよなぁー、NHKもぶしつけだし、多分選手はそっとしておいて欲しい気分だったと思うな。

 

1983年長野県菅平

NikonF,NikkorHAuto28mm/F3.5,コダカラー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Nikon Freak151. デュープ後の画像

2018年02月23日 | field work

 前回の方法で取り込んだカラーネガフィルムをデジタルデュープ後の画像が本日の画像である。取り込んで補正済みの画像を、さらにPhotoshopでイメージ→レベル補正で少し発色をあげたものである。ここまでくるとなんとか見られそうになる。デジタル機材で撮影した画像と比べると発色の穏やかなマイルドな画像だ。今もフィルム機材で撮影する方法も一理あるかなとおもう。

 この頃、大学院の修士論文で菅平地方に通っていたころである。ときには雪が降り続け、マウンテンバイクで雪の上を走りまわり、ときにはそのまま雪の下の地面の穴に落ち込んだりと難儀なこともあった。もう今の菅平には、こんな景色は随分と少なくなってしまっただろう。

 当時人文社会学が元気であり、記号論で研究しろというリクエストもあり、そんなのは分類はできるがなにも論じられないとする意見もあり、結構議論の素材があって研究室も元気だったのだ。

 でっ、私は記号論に見切りをつけ風土的な展開を探ろうと試みた。風土的にこの地方の民家が配置されているというのはわかったが、それ以上の当時の論理は無く、結果として修士論文は惨敗だった。今ならば、これに風力学のシミュレーションを加えると論理ができたのだが、当時そんなプログラムは少なかった。なにしろパソコン自体がなかったのだから。そのあたりから、人文社会学的アプローチは説得力がないという考え方が生まれたのかもしれない。惨敗とはいえまあなんとか修了し浜野商品研究所(浜研)にすべりこんだのだった。

 研究としての理論ができあがったのは、浜研で自治体の地域振興政策書を書きながら以降のことであった。そして私が大学で教えたのは、先ずアイテムカテゴリーを設定し多変量解析を用いて解析するという、なんともプラグマティックな研究スタイルだが、それで多くの論文を書いてきたことは事実である。何のことはない科学論文の書き方の一つだったわけである。

 そうか、こういうことをやれと教えようとしていたのだなということは、随分後になって気がついたことである。だが大学院であれもこれもと学んだことは今でも随分と役立ったことではある。そして博士論文も、こうした方法でまとまった。今思うと、意欲だけはある頭脳的な未熟者がはしゃぎ回っていただけか。

 そんな過去の記憶を思い出させてくれる画像でもある。

 

1883年長野県菅平

NikonF,NikkorHAuto28mm/F3.5,コダカラー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編309. 私の流儀、オリンパスによるデジタルデュープ

2018年02月22日 | field work

 調度仕事部屋の整理で多数のネガファイルが出てきた。そこで資料スペースを縮小するためにデジタルデュープをつくろうと考えた。

1)システム

OLYMPUS E-M1Mark2+Panasonic LEICA DG MACRO ELMARIT45mmレンズ+ステップアップリング(46→72mm)+ZENJIXの中間リング(20,10,5mm)+ステップダウンリング(72→52mm)+NikonES-1にプラスチック製のスライドマウントを介してネガを挟み複写システムができる。

2)複写

カラーネガフィルムだからベースのオレンジの色を取り除く必要がある。またフィルム現像時の設定がわからないので、原則としてフィルム1本単位で複写してゆく。

2.1)先ずOLUMPUSのキャプチャーでRAW撮影した画像をダイレクトにとりこむ。そのときに画像が写っていないオレンジ色のベース画像を複写てしておくこと。

2.2)その後Lightroomでベースのオレンジを除去しネガの反転させることがポイント。

先ず取り込んだRAW画像をLightroomで読み込み、オレンジ色のベース画像を現像し、lightroomの右側のペンマークでオレンジをクリックしておく。ついで右側下のトーンカーブの傾斜を逆に設定すると、ベース画像がホワイトの反転ができる。フィルム画像にもどり画像全部を選択し同期設定をして、すべてのネガを一度に反転させる。これが簡単。そしてjpgに書き出す。

2.3)次に書き出したjpg画像をPhotoshopで開き、イメージ→自動トーン補正・自動コントラスト・自動カラー補正のオートマティックで修正し、最後にシャープネス(強)をかけてお終い。

2.4)あとはカラーフィルムは経年変化で発色が落ちているかEM-1mk2のカラーモードをi-Finishにしておくこと。もちろん手ぶれ補正は解除、光源はスライドビュワーを使用している。

 複写していて気がついたのは、やはり40年近く前のカラーフィルムの画像になると、カビなのか乳剤の剥離なのか画面の劣化がうかがえるカットがあるのでデジタルデュープをしておいて正解。そんななかでニコンのレンズの良さがあげられる。元画像がよいと今でも立派に複写できる。研究資料は、そうでないと資料たる価値を失うからね。やはりニコンで撮影しておいてよかったと40年後に思うわけ。そこがニコンのすごさ。

 最近ニコンは、期間限定でオールド機材のメンテナンスをしてくれる。早速手元のNikonFとF3のボディをメンテナンスにださなければと考えている。当然今でも十分機能する。今もフィルムが発売されているので、これで撮ろうかなとも考えている。撮影後にデジタルデュープすればよいわけだから。

 惜しむらくは1990年代の前半、ニコンはFM2など大変優れた機材をだしていたのに、私は当時ニコンからミノルタαに手をだしてしまった。このミノルタも大変優れたレンズなのだが、そのレンズシステムが完成制する前に飽きてしまいすべて人にあげてしまった。以後ミノルタ、すなわち今の先進的なSONYには手を出さないことにしている。

 いずれニコンがマイクロフォーサーズ機材をだしてくるだろうかから。そしたら手元のニコンやツァィスレンズを使おう。ニコンは単焦点レンズというのが私の流儀でもある。

 

iPhon7S,ISO20,f/1.8,1/287

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Nikon Freak150. 思考のトレーニング

2018年02月21日 | Tsukuba

 これは茨城県霞ヶ浦湖岸の玉里村だったとおもいます。このような立派な民家が茨城県南部に大変多い。それらが集まって美しく風土に適った合理的な考え方の集落が形成されてきました。それが日本の典型的な田舎の一つだと私がいう所以です。この家がまだあるかどうかはわかりません。

 世代が変われば生活スタイルも変わりますから、当然住まいの様式も変えざるをえない。現代のプレハブ住宅にするのではなく、こうした民家を改修して内装を現代風にする方法が一番よいのだろうと私は考えています。絶対に壊してはいけません。改装することで建物は、何十年でも生きてゆきます。コンクリート造のマンションが30〜40年の耐力しかないのに比べれば、木造の方がはるかに長い時間を生きてゆくことができます。

 1万分の1位の地図をみながら、地元に人に尋ねこうした集落を探しだし訪ねてゆきます。それは私達が中国でとった方法と同様です。だから観光ガイドやWEBなどを見ていては、なにもわからないということです。

 今私達は、WEB情報に攪乱され、何もわからない状態にいます。そろそろ本質的なところで適切な理解が必要なときではないでしょうか。やはり自分の足で現地を歩き見て感じて考える、という思考のトレーニングが必要なわけです。

 東京から車で1時間半もあればたどりつけるでしよう。ここは、そんな近さなのです。

 

茨城県旧玉里村

1978年,NikonF,Nikkor H Auto28mm/F3.5,コダカラー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Nikon Freak149. スペインの情熱

2018年02月20日 | Tsukuba

 もし貴方が通俗的な観光地やWEB情報に辟易していたら、図書館に行って(買う必要はありません)日本の観光ガイドを調べてください。観光地の地図をみながら、地図上に記載のない空白部分を探すこと。そここそが人々が注目することが無く、観光ガイドにとりあげられることもなく、国の保存制度もなく、観光客が訪れることのない場所です。そうした空白のエリアにでかけることがお勧めなのです。

 空白のエリアには、それまでのその土地の暮らしが色濃く残っているか、あるいは人が住まなくなったも同然の限界集落かのどちら。どちらにせよ、これまでの生活が蓄積しているので、貴方にとって新鮮な知見を与えてくれるかもしれない。

 例えば茨城県。通俗的な観光地としては、筑波山や水戸の偕楽園、近年では国営公園もあり、WEBにはいくつの観光地があります。そうしたところはすべてパスすること。

 例えば緯度でいえば常磐線土浦以北です。田園の中に広がるこのエリアは明治以来の民家が数多く残り、地域の人間達の風土的知見が積み重なってきたところ。

 いまでは、そうした民家も世代交代が進み現代住宅に建て変わっている事が多いはず。現代住宅ではつまらんですね。やはり古民家群の景観がとても美しいわけ。そんな集落がまだあるかどうかはわかりませんが、ボヤボヤしていると、とどんどんなくなってゆく。そんな美景を探してみる小さな旅はどうですかというのが私の提案。

 今日の画像は、そんな田舎の一つ。立派な長屋門ですね。筑波の民家は背後に屋敷林を配置していることが多い。それは冬の筑波おろしの風を遮るため。だから屋敷林に囲まれた集落の中は、冬でも陽がさせば暖かいわけ。

 さて平昌オリンピック・シングル・フィギャ・・・。私が見る限り、男子シングルで羽生結弦が実は銀だったかもしれなかった。というのもスペインのハビエル・フェルナンデスがダントツにうまかったのである。だが彼は予選で尻もちをつき映画旅情のラストシーンのロッサノ・ブラッティのようにどんくさいのだが、それでも観客を沸かせた演技は素晴らしかった。そんなミスをしたので下位になってしまったが、決勝では4回転ジャンプを4つも決め銅にかけあがってきたのである。これは感動的だった。まさにスペインの情熱を感じさせてくれた。そして羽生とフェルナンデスは同じ師をもつ門下生とWEBには書かれてあった。

 女子は、予選でエフゲーニャ・メドベージェワが登場し、来た!、ロシアの衝撃が!!!、てんで全部話題をかっさらってゆき、その他は霞んでしまった。おかげて決勝戦は録画でみたが予想通りの金だった。どこいったっけ日本は、だよ。

 今はアイスダンスだな。クリスリードと村本哉中は夫婦だったと解説していたけど。あれっ、聞き違えたかな?。どうりでオーラのない慣れ慣れの怠い空気が漂っているよなと、こちらは下世話な見方をしている。

 息が合うというのはダンスのパートナーとしてはよいのかもしれないが、こちらとしては夫婦の息が合ったダンスなどといわれると背中が痒くなる。だから私は、練習が終わったら顔も見たくないぐらいの超仲の悪い仮面カップルなんかが最高の組み合わせだと思うけど。そこには憎悪と嫌悪がぶつかり合い技術が破局するギリギリのところで、見ているのとはうらはらに超美技の演技ができるというのが私の持論。得てしてスポーツだの芸術だのは、見ているのと内実とは大きな違いがあって、その人間の意識が葛藤したギリギリの限界のところで、まあ感動が生まれると思うけどね。

 

1978年,茨城県土浦市郊外

NikonF,Nikkor-H Auto28mm/F3.5,エクタクローム

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

EOSな日151. 冬もやりすごすというのも疲れる 

2018年02月19日 | field work

 画像は、中旬松賛林寺で遭遇したお坊さん達を撮らせてもらったのだが、仏教のインを結ぶというのはよいのだが、ピースサインはなんだよ!、と笑ってしまう。なにしろモンゴルの果てに棲みながらニコンのファィンダーの良さを知ってるぐらいの勉強家達なので、ピースはわからなくもないが。

 さてオリンピックをみてから仕事をすると寝るのが朝方になったりして、変則的な生活時間が続く。ようは寝る時間が朝方になりすべてがそれに伴って後ろへ送られているだけなので不規則とはいえないのだが。そのオリンピックも過半を過ぎた。

 日曜日は、比較的暖かくなってきたので、あの京都人がこんな寒さはないといわしめた底冷えする冬も通り過ぎつつあるようだ。ついに雪は積もらなかった京都の街である。冬をやりすごすとというのも疲れる話である。

 なにしろ私はスキーをしないのでオリンピックを見ているだけ。多分足首の骨や筋力を鍛える機会が若い頃になかったのだろう。それも小さいときから鍛える必要があると思う。だから選手の年齢が二十歳前後と若い。その頃の年齢というのは、上へ上へという上昇志向があるし、ときにはもっと運動したくてしょうがなかったというのが二十歳の若さである。その頃は、私なりに地味に暮らしていたですね。

 この時期オリンピックにあやかって、これにふさわしい画像と思うが、はてどんな画像がふさわしいのか。やはりオリンピックに出かけて撮影するほかないのだが、まあ冬は苦手なので家にこもっている。

 さてまとめ書きのストックもなくなった。というのも未使用画像がまだ20回分ぐらいCloudにアップさせて用意してあるのだが、少し飽きたので日本の田舎にでも話題を転じようかな・・・。

 

1999年.中国雲南省

EOS3,EF28-135mm/F3.5-5.6,コダクロームⅡ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

EOSな日150. どうしたもんか・・・

2018年02月18日 | field work

 中旬の街で見かけた少数民族である。口元の装飾的な装いは何だろうかとおもいつつ通り過ぎた。ここまでくると民家の形態も三合院や四合院とは異なり、チベット様式の建築なのである。私達は、それをみに足を速めていた。なにしろ中旬の滞在時間は大変短かく、2時間も無いだろう。そのあと私達は麗江へ7時間かけて帰るのである。今では飛行場もできているから行くのは容易になった。

 さてオリンピックも羽生結弦が連勝した。途中で足がつまづきそうになったときは、これでお終いかと思ったがよく耐えた。さて目下の関心はカーリングだ。

 そんなわけで、最近朝の4時頃まで仕事をしていることがある。実をいうと、このブログ中国人間編もオリンピックが始まる前に書きためていたのである。ときおりオリンピックの話題を加筆しながら未公開画像を加えてアップさせていた。

 その書きためた文章ストックが切れちゃった。ストックに依存していたためか、画像はたくさんあるが書こうとする意欲がまったわかない。それに中国の話題も飽きてきた。こんなときはダイビングの画像でも貼って1行ぐらいのコメントでも添えてアップさせた方がよいのかもしれないが、それも面倒くさい。さてどうしたもんか・・・。

 

1999年,中国雲南省中旬

EOS3,EF28-135mm,コダクロームⅡ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

EOSな日149. 時差

2018年02月17日 | field work

「フォー、日本からきた」

「えらく遠いところだのう」

「わしらここに棲んでいるんだわ」・・・

 そんな会話をしていたと記憶している。古集落の情報を集め目的地を定め、そしてコミュニケーションは現地の言葉でないと通じない。画像は、毅然とした地元文化と好奇心とがまざりあったよい表情だ。コミュニケーションしなければ撮影ができないこともある。人民帽はかぶっているがれっきとした少数民族であり、背後は彼女たちの住まいだ。華南建設院のチー先生の翻訳の役割は大きかった。チー先生も広州の人だから、この地方の言葉は半分ぐらいわからないと言っていた。

 中国は言葉だけではなく、時間も統一されている。

 東西に広がる中国は、東はウラジオストクから西はパキスタンやタジキスタンに接する広さがある。そこで同一時間というのがすごいところだ。つまり中国国内では原則として時差がない。日本と中国の時差は1時間だがパキスタン周辺では3時間半の時差があるが、ここも北京時間なのである。例えば日本の午前7時が中国の午前6時、パキスタン周辺では午前3時となるが北京時間の6時で、朝だ起きろとなる。広大な国土を統一する考え方は、明朝以来の一貫した中国のDNAかもしれない。

 さてオリンピックだ。男子フィギャは羽生結弦が予選トップで通過した。スペインのハビエル・フェルナンデスなんかすごくなめらな動きで巧みだよなぁー。なかなかハイレベルの世界で肩が懲りそうだ。

 このあいだは朝4時まで仕事をしていた。韓国と日本は時差がないのだが、気がついたら1日のプログラムはすべて終了していた。オリンピックに没頭しているのか仕事に没頭しているのか・・・。

 

中国雲南省周辺

EOS3,EF28-135mm/F3.5-5.6,コダクロームⅡ

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Nikon Freak148. 騎馬民族の末裔達ではなくカーリング

2018年02月16日 | field work

 中国雲南省の移動は街角で拾ったタクシーだった。

 昆明では若い運転手が武定郊外までの砂利道を往復し、ときどきハンドルを握る手を振っていた。あれって未舗装の道の振動で結構しんどかったのだろう。翌日タイヤを全部交換したぐらいだから。それでも1日チャーターして1,300円は安かった。いや安すぎたのだ。

 次は昆明から大理に移動するときの愛想のよい運転手で、こういうのは中国の平野部、特に北京なんかに多いのだろう。調子がよいからスイスイ進む。気がつくと広い道の中央を走っている。「大丈夫、大丈夫、車来ないから」、そのうち「なんかスピード出しすぎていない?」、「まあ道路すいているからね」、「あれ!、誰かなんか言ってるよ」、「気にしない、気にしない」でっ、大理めざしてずんずん進む。そのうち後ろからパトカーが追いかけてくる。結局中国警察に停止させられた。

 運転手が警察官の肩をだきながら「友達!、友達!!」。違うだろ!、それ、お前交通違反したろ。「外国人を乗せて無謀な運転はいかん!」、そーら、警察官にいわれているじゃないか。結局、反対車線走行、速度違反、警察官の指示を聞かなかった管理無視、の3大違反で明日から免停。運転手はしょげていた。

 麗江の運転者さんはたくましかった。中旬は、今でこそ空港があり容易に来られるようになったが、私達の頃は麗江から車で往復14時間であった。

 そのタクシーの運転手は、我々の中旬にゆきたいというリクエストで行ったことはあると、少し調べてから行程をつくり返事がきた。朝5時宿立ちで、途中で食事すれば往復できるとする行程だ。そして曇天の雨の中、中国固有の増水した激しい川の流れを見つつ、途中の質素な家で朝飯を食べ、道が流されていようと突き抜け、対抗するトラックが来れば谷底が見えるほどに断崖絶壁に車を寄せ(路肩の土が崩れているじゃん)、歩行者がバカヤローと叫ぼうと、中旬を目指して一般道の山道を時速70-100kmで登っていった。やはり騎馬民族の末裔なのだろう。馬を操るように車を操り、当然日本人より運転ははるかに上手であり私達を乗せて中旬まで往復してくれた。彼がいなければ、私達は中旬をあきらめていただろう。

 こうした騎馬民族の大変個性的な末裔達の運転で、私達は雲南省を徘徊できた。偶然にもすべて車はもう100万キロは走っていそうなワーゲンサンタナだった。

 中国人のドライバーは、ユーラシア大陸を馬をかるように車を操る、やはり騎馬民族のDNAなのだろう。そこへゆくと日本人の運転の慎重居士を思い出す。しょうがないよ日本人は農耕民族のDNAだから、運転の水準が遺伝子的に違うのだから・・・。

  さてオリンピックもアルペンとハーフパイプの競技が終わると寂しくなる。そうだ女子カーリングがあった。

 カーリングは、オリンピック競技の中で選手の声がもろに聞こえる唯一の種目ではなかろうか。そのギャルみたいな声がとても面白いし、とくに日本人のソプラノのような音程が楽しいですね。それになんといってもフル画面で選手の姿が大写しされる時間の長いのが、またよい。だからこちらは頭がクロッキーモードになり、意識のなかで身体の裸形をデッサンして堪能する楽しみ方もある。なにしろ、美人はいないが普通の銀行のOLとか近所のお姉さんみたいな普通の女の子が登場するわけですから、余計に親しみを感じるわけです。きっと田舎のお爺さんは炬燵に当たりながら、うちの嫁探しを楽しんでいるのではないですか。それにインタビューのローカルリズムを感じさせるお気楽さがまたいいですね。そこがカーリングの妙なのである。

 そのように考えて行くとオリンピックの種目も、タイムや評価を競い頂点を目指すといった特殊解を目指す方向と、そうではなく地域を代表してやってきてましたとするローカリズムなどの一般解という両極がある。アルペンは特殊解の極だし、他方でカーリングは一般解の側である。これらを両極とした線上に各種目が存在するという構造がなりたつ。

 つまり国家を代表して頂点を目指すなんていう特殊解ばかりじゃつまらんのよ。もう金メダルを取ったからといって国旗をしょってはしゃぎ回るなんていうダサいことはやめましょうよ。そんなのは中国などにやらせておけばよいのであって、この機会に息子の嫁探しみたいな楽しみが欲しいとする遊べる要素といいますか、あるいは地域性で楽しみたいですね。

 そう考えると冬季オリンピックは、オリンピック憲章で大会期間中の滞在費や食費を負担することが決められていますが、それ以外は民間企業などが渡航費用などを負担しているのですから、特に国家が登場する必然性は少ないと思います。だから地域が応援すればよいわけであり、青森県からやってきましたなんてすごく格好良いと思うけどな。だから国威発揚のナショナリズムではなく、アットホームなローカリズムの表出こそが今のオリンピックだとおもいます。

 カーリング女子は日本がデンマークに8対5で勝利し予選を突破した。夜中にアルペン男子滑降決勝をみてようやくオリンピックをみたという実感があった。A.スビンダルが優勝した。彼は、早かったねぇー。

 

中国雲南省中旬松賛林寺

Nikon F3,AFNikkor20-35mm/F2.8,コダクロームⅡ

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Nikon Freak147. ニコンの新型ミラーレス!?

2018年02月15日 | field work

 麗江から車を飛ばして片道7時間の中旬にやってきた。

 そのときニコンF3+20-35mm/F2.8レンズを持参していた。万一EOSが壊れても、そして万一ニコンF3のバッテリーがなくても限定的ではあるが手動で撮れると思って忍ばせていたた。

 松賛林寺の境内を歩いていたらラマ教のお坊さんと出会った。自分の眼を指さしてニコンといっている。のぞかせてくれという意味なのだろう。貸してあげたらニコンF3ハイアイポイント・タイプだからクリアなファィンダーを体験しただろう。こんなモンゴルの山の中で、よくニコンのファィンダーについて知ってるなと思った。そんなお坊さん達の顔を見ていると漢民族の中国人とは随分違う顔立ちであった。

 そのニコンが期間限定で、FやF3のメンテナンスをしてくれるという。ならばこの機会にというわけで、なぜかせっせと機材のボディを磨いていた。あらニコンF3は軽くてジュージアーロのデザインは格好がよい。そんなことをしているとフィルムで撮影してみたくなる。フィルム画像をデジタル機材でどんどん複写してゆけば、今的に使えるシステムになる。

 なら手元にニコン・ツァイスのレンズが何本かあるので、モノクロネガフィルムデュープ用に今では少し古い機種になったNikonDfでも調達したいが、次の機種のスケマができているとする情報もある(注1-3)。多分最新型の裏面照射型COMOSセンサーを搭載するからSONYに次いでクリアな画像が期待できるミラーレスフルサイズ仕様だろう。もし製品開発の方向を間違えてくれなければだが、小さく軽い新しいニコンシステムになるかもしれない

  さて研究資料の整理の続きで、モノクロフイルムの複写がある・・あらニコンDfが手元にない。といってニコンからフルサイズミラーレスシステムがでるという噂話なので、システム的に古い撮影素子を積んだDfに手を出す気分ではない。オリンパスE-M1Mark2とマクロプラナーでやるか。それには中間リングがいくつか必要だ。

 京都駅のユニクロに出向き、極暖アンダーウェアを調達する。まだまだ寒い日が続く京都では必需品。バーゲン価格になっていたか。まだ寒いんだぜ京都は(笑)。

 同じ建物内にヨドバシカメラがあるのが便利だ。ここはヨドバシのビルなのだけど。そこで複写用ボディやレンズやスライドコピーアダプターを持参し、この間に入れる中間リングがほしいと店員さんと相談。店員さんが走り回り、こうすればゆけそうだという見通しができた。カメラ好きの店員さんが親身になって相談に乗ってくれたので心がほくほく感。やっはりヨドバシカメラのカメラコーナーのサービス精神が他の量販店と一線を画している。

 ヨドバシカメラに行くと、その近くにある王将に行きたくなる。餃子とキムチとライスのお昼。朝鮮人になったみたいなオーダーだ。

「そう、うち朝鮮人なんですわ。」

「朝鮮のどこですか?」

「釜山です、駅前の階段を上がって山の上のMangyang-roを行き、釜山港が見下ろせる展望台を通り越した先で、お寺の近くなんですわ」。

 もし誰かに尋ねられれば、そんな会話をしていただろう。私って人生は役者だと思っているから、そのときの気分で会話の内容が違うんだ。そんな仮想の会話を想像しつつ、さてその朝鮮のオリンピックはどうなったか。

 

注1:2018年1月3日ミラーレスカメラの選び方、ニコンの新型ミラーレス:後藤哲郎氏(元ニコン執行役員)インタビュー 

http://mirrorless.xyz/2017/09/21/nikon-new-mirrorless-camera/

注2:Nikon初のフルサイズミラーレス一眼を大胆予測

http://photo.nyanta.jp/NikonMirrorless.html

注3:http://digicame-info.com/2018/01/z-1.html

デジカメinfo,ニコンのミラーレスカメラには新しいZマウントが採用される。

 

中国雲南省中旬1999年9月

NikonF3,AFNikkor20-35mm/F2.8,コダクロームⅡ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編308. 早期教育と外国人コーチ

2018年02月14日 | field work

 博多の僅かな雪で騒ぐことはないのだが、実際雪国暮らしの人間達にいわせれば、朝起きて除雪が大変なんだという話はさんざん聞かされてきたし、私もスキー場の再生プロジェクトに関わっていたから青森市の豪雪は何回も体験している。だから雪国の人間達からお説教を聞くまでもないのだが、それにしちゃあ京都の街は、冷たい風が吹き込み北の方で雪が降っている気配はしているが、街のなかに雪はない。50年棲んでいる京都人が、雪もなくこんな寒い冬は珍しいというぐらいだから、曇天と底冷えする寒さだけではなんの冬の楽しみもない。

 ダイビングをしている人間からすれば雪は降らなくても困ることはないが、それにしても市内の気温5°、体感気温は3°と寒く、平昌の氷点下10°に比べればましというべきか。その寒さでは、潜れないけど。

 昨日は、平昌オリンピックで天候順延されていた男子アルペン複合の滑降が行われた。ドイツのT.ドレッセンがそのままトップ、ノルウェーのA.スビンダルのクラウチングスタイルでスキーがぐんぐん滑ってゆくなんざ格好よいではないか。もう少しカメラの台数を増やして放映して欲しいと思っていたが、途中で生放送はスノーボード男子ハーフパイプ予選に切り替わってしまった。おいおい、それはないだろう。

 ハーフパイプ女子決勝をみているとメダルをとれたのは17歳〜18歳だ。もちろんこの年代、つまり12歳〜20歳までが一番能力が延ばせて実力が発揮できる世代であることを随分前のブログでも書いた。二十歳すぎたら叔母半だとも書いたけど。つまり早期教育だ。

 もう一つ勝因をあげるとすれば、例えばスノーボードを3歳ぐらいからはじめて海外留学で本格的なレッスンを積み重ねてオリンピックに登場してくる。そこには選手が日本人であっても中国人であっても関係なく、肝心なのは外国人コーチの指導だ。そんな外国人コーチについた選手が活躍しているのがめだったと思われる。例えばスピードスケートの高木美帆-コーチ:ヨハン・デビット(オランダ)といった具合に海外コーチを招聘した指導方法が功を奏したようだ。

 早期教育と外国人コーチが平昌オリンピックの知見になりそうだ。

 だから12歳〜20歳までの才能の成長を阻害しているのがあるとすれば中学校から高校までの学校教育かもしれない。であれば日本では海外留学しかないですね。というのも大学へ入ってきた学生達をみていると、もっと早期に能力開発をすれば才能が開花したのに残念ですねという経験をいくつかしたからなのだが。人間の成長は、まさに教え方次第なのだけど、そこが教育の面白いところであり、また怖いところでもあるのだ。

 

福岡市天神

iPhone7S,ISO100,f1.8,1/5

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする