Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

京都暮らし39. 続・デザイン学会春季大会

2009年06月30日 | field work
 デザイン学会春季大会の後で開催された筑波大学のプロダクトデザインの二次会で、先生や院生達と話をしていると、いろんなことを思い出す。
 学部生まで大会に引き連れてくるところは、現代学生気質を加味すれば立派だと思う。やはりデザインの初期段階から大会に参加させることは、デザインを研究したり制作する上で、大変有意義だろう。それに学部生達とフランクに話をしていると、カーデザインが好きで随分勉強しているという事がわかるし、大会への参加も積極的だ。
 先生を追いかけるのが大変という学生の意見もあったが、筑波の先生が社会的仕事で何かと忙しいことは私も実感している。通例は、沢山の資料をかき集めて先生を追いかけないと、個人の研究にはならないから、それはそれで適切な風習だろう。
 そんな話を聞いていたら、アレッうちの大学!!。全然そんな風習がない。学生達は精々ゼミにいやいや顔をだすだけだ。個々の研究論文のときは、こちらが呼ばないとやってこない。研究が行き詰まると、忙しいを理由にして出てこなくなる。そう考えると、うちの大学は専門学校並だな。人並みに学部から博士後期課程までフルラインでつくっておいて内部は専門学校という内実は、いかにも見栄や体裁を先んずる名古屋人的発想なのか!?。
 私は
「黙って口を開けて待っていたって、誰もえさはくれないよ」と言っているが。そうはいっても、学生達が動かなければ、こちらがとやかく言っても始まらない。
「鳴かぬなら鳴くまでまとう時鳥」
というこの地域出身の戦国大名の箴言に従い、やって来るまで放置しておこう。そのままでは、専門学校並だが(笑)。最近専門学校並みの知識で卒業してゆく、学生達が増えたな(大笑)。

上高地・2009年
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし38. デザイン学会春期大会

2009年06月29日 | field work
 ここ2日間、デザイン学会春期大会が、私が勤めている大学で開催された。私自身は、査読論文の投稿は何回もしているが、大会への参加では、大分前にデザイン学会賞をもらいに出かけた位だ。
 期間中入れ替わり立ち替わりで、500人ぐらいは会場に来ていただろうか。土曜日に学会の懇親会があったので、出かけた。主にこれが今回の主目的である。筑波大の懐かしい先生達や東京藝大を始め全国の大学の先生、それに昔本学の助教であった、甲南大学の梅谷さんにも出会った。おかげで、名刺が大分増えたが。
 その後、誘われて私の母校である筑波大学の二次会に出かけた。主にプロダクトデザイン領域の先生や院生や学部生達が40人ほど来ていた。 私自身研究室も専門領域も違うので、院生や学部生達の顔は全く知らないが、 筑波の伝統なのか、相変わらず元気な輩で、飲めや語れやで賑やかな連中だ。そんな調子で歓談していたら、もう夜中になってしまい、この連中達は恐らく夜が開けるまで飲んでいるだろうと思い。早々にホテルに退散した。
 私が筑波大の1期生だから、今では30期になっているという。それに開学以来電気が消えたことがない不夜城である大学のアトリエも、今では午後9時には追い出されるので不満だという学生の言い分を聞いていると、なんとも大きな時間が過ぎ去ったものだと思った。

上高地・2009年
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし37. 茅の輪くぐり

2009年06月24日 | Kyoto city
 午前中散歩がてらに、京都・北野天神の茅の輪くぐりにでかけてきた。京都はなにかと朝が早く、私が出かけた頃には門前の大茅の輪は、すでにむしり取られ、境内の小さな茅の輪が残っていた。
 京都では、日々の罪・汚れを祓い清め、暑い夏を無病息災で過ごすための神事、夏越祓(なごしのはらえ)が6月30日に市内の各神社で行われる。参拝者は、茅の輪をくぐり祈願するのが習わしなのである。そして小豆を乗せた三角形の外郎である水無月の和菓子をいただくというおまけのような風習がついているところが面白い。北野天神は、それらより早く行われ、そして月1回の縁日と、日を重ねてあるので大変賑わっている。
 縁日では、古民具骨董の類から、様々な怪しい露天が境内を足り巻くように数多く立ち並ぶので、徘徊していて面白いのである。それにしても、昼近くになると暑い。早々に引き上げ、蕎麦屋に飛び込んだ。
 京都も、次第に暑くなるので、出歩けるのは朝か夕方だろう。昼間歩くのは観光客ぐらいだろう。次第にエアコンが効いた屋内で暮らすのが、快適になりそうに日々が続く。だから、気候の良い高原へでかけたくなるのかもしれない。
 空には、小さな積乱雲が漂い、暑い夏の始まりをたっぷり、予感させてくれる。

北野天神
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし36. 京都、上高地、海外

2009年06月23日 | field work
 研究対象の一つとして余暇を扱っている立場で本音を言うと、実は日本の中では、京都と上高地・・・即ち中部山岳国立公園が位しか出歩かない。それら以外の地域はどこも似たり寄ったりでつまらない上に、夏は暑いからね。その他、あえて出かけたいとすれば海外位だろう。 最近の私は、この三要素があれば満足できる。
 上高地の良いところは、マイカーの乗り入れを禁止したことである。現在は麓の沢渡から電気バスに乗り換えなければ、上高地には上がれない。そんなことは海外の国立公園ではすでに当たり前の事なのだが。
 昔マイカーで上高地まで来られた時代は、一方通行の釜トンネルで大いに渋滞したし、排気ガスが充満し難儀したことがある。それにマイカー利用のビジター達は、河童橋辺りを見て帰ってしまうので、山岳地帯の環境を堪能する人達ではない。そう、上高地は、マイカーで来るような観光地ではないのである。よくある例だが国立公園第1種地域やその付近を、観光道路が横断するなんていうところは、環境破壊の最たるものであり、もっての他よ!。
 上高地に来たら、6時間半歩いて誰でもがゆける涸沢迄登ることを薦める。また、徳沢園ぐらい迄ならば往復4時間で、高原の空気を十分味わうことが出来る。そして山小屋であれホテルであれ泊まってゆくことを薦める。北アルプスや焼岳の朝焼け、梓川等高原の朝は美しいし、温泉もある。
 しかし、京都は私が住んでいる街だし、上高地は何回も訪れているリゾートで、国内の旅はそれでお終い。それに海外とそんな三要素にしか行かないようなことを言っていては、我が国の余暇人口は増えない、少し自己矛盾(笑)。

2009年上高地
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし35. 夏至

2009年06月22日 | field work
 昨日は、夏至だった。個人的には、春分から夏至の間、特に5月の初夏から夏至までの季節が一番好きである。湿度が低いために風景がクリアであるし、昼間の時間が長くなってくることに対し、どこか余裕が感じられるからだと思う。
 今日からは、次第に昼の時間が短くなってゆくので、精々夕方の風景を楽しむしかないだろう。これが8月のお盆を過ぎると、風景はどこか暗く寂しく思われるので、個人的には秋が嫌いである。
 実際山も、お盆の末頃には、登山者もグンと減ってきて、秋の寂しい気配が漂う。9月は台風さえこなければ、天気が良いので、山歩きには好都合なのだが、やはり高原は、秋の寂しさがある。10月初旬の紅葉が終われば、山は冬ごもりの支度を始めるだろう。
 街に行けば、7月や8月はお祭りが多い。例えば7月は一ヶ月間京都の祇園祭があるし、東北の3大祭は8月上旬に集中している。祭は夏のクライマックスの現れだろう。それがおわれば、もう秋なのである。
 そんなことを考えると、6月というのは、案外最適な旅行シーズンだっりするのかも知れない。場所によっては新緑が残っているし、風景は美しい。この時期飛騨高山は蒸し暑かったが、上高地に足を向けたのは正解だった。
 従って、個人的には、もう今年の楽しみはお終いという気分だ。後は惰性の日々である。こう書くと夏を控えて色々と画策している向きには、アレッという気分だろうけど、夏の暑いときは、家の中でクーラーをつけて静かに暮らした方が、快適だよ。

京都・東本願寺
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし34. フォトグラファー達

2009年06月21日 | field work
写真撮影を職業としているフォトグラファー達と、そうでない辛気くさいオッサンカメラマン達と何が違うかを考えてみた。私と一緒に仕事をしたことがある、フォトグラファー達とを比較してなのだが。
 最たる仕事の大きな相違点は、フォトグラファー達は撮影を行う以前で、大半の仕事が完了している。インテリアの撮影であれば、室内照明を取り替え、メジャーで家具の位置を正確に定め、撮影用に最適な環境をつくりだす仕事に大半の時間を要する。また雑誌の撮影であれば、同じような膨大な数の被写体を撮影しても、フォトグラファーや環境のコンディションと関係なく一定の画像をゲットできるだろう。つまり準備や忍耐力がものいうことがわかる。
 撮影以前の準備で大方が決まってしまうから、後は誰しもが利用している同じ撮影機材を使用し、機械的に撮されるだけだ。つまり与えられた時間の中で、そうした単調な準備に時間と段取りと精神力を考え、蓄えられる能力が、フォトグラファー達の才能なのだろうと私は考えている。それに画像の後の利用や処理、例えば印刷用とか、プリント作品用とか、或いは編集デザイナーによる画像加工等を、前提として撮影が行われているようだ。
 それにしては、あまりビジネスになるような商売には思えない。だからこそ営業能力は必須だし、時には清貧に耐える忍耐力も必要なのだろう。そう考えると物好きな人達というのが、私の印象である。物好きであればこそ、被写体への関心も湧くのだろう。
 そういえば、私の研究室OBにも、記者兼フォトグラファーがいる。新聞社に内定が決まったとき、彼は「写真の取り方を全然知らないんですよ」と言ったので、私は、「技術的なことは会社で教えてくれるから、覚える必要はない」と言ったことがある。撮影技術などデジタル化した現在では、そんなに難しいものではないし、まして蘊蓄を傾けるものでもない。今では、某野球球団の番記者兼カメラマンである。
 先日夕刻、東京でフォトグラファーの個展(注)に立ち寄ったら、山口県日本海に浮かぶ見島が題材であった。ああ日本にも、こんなところがあったかと思った。まさに物好きな世界である。

注:野頭尚子:mishima,COCOTE CAFE,2009.6.3-7.5
上高地,田代沼
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし33. 辛気くさい光景

2009年06月20日 | field work
 私は、講義やランドスケープデザインのためのデータづくりといった程度のことを撮影の主目的としているので、いつも気軽な撮影装備なのだが、趣味に走るオッサン達は、撮影機材の大仰な重装備でやってくる。とても大きなザックの全部が撮影機材だろう。
 上高地の食堂にもいたですね。数人の年配のおっさん達がテーブルを囲んで写真談義という光景。どこかの学部長のような風貌のオッサンが、90万はするEOS1Ds-MK2を持ち出し機材談義である。聞き耳を立てていると、何某の偉い師匠についたとか、写真を撮るにはこの機材じゃなきゃ、といった案配の自慢話が続く。
 こういうオッサン達の群がる光景は、実に辛気くさい。いつも不思議に思うのは、撮影機材は話題に出すが、肝心のそれまでに取り集めた写真のフォートフリオをだして写真談義をしているクリエイティブな光景には、先ずお目にかからない。絵画で言えば、筆の自慢をして、絵を見せないのと同じだ。それはなんか変だぜ。きっと撮影機材マニア、或いは道具マニアなんだろう。あの辛気くさい光景が涸沢の山小屋でも続くので、若い人達が寄りつかなくなるのかも知れない。
 それにしても、写真というのはとても変な世界で、何かとプロとかアマとかグレードをつけたがる。私がおもむろに撮影していると、プロですかアマですかと尋ねてくる輩がいる。私は講義やデザイン制作のために撮影しているのであって、そんなことは関心外なのだが。 プロは上手い、アマは下手、とする通俗的な認識が、蔓延っているのだろう。 恐らく、プロもアマチュアも同じ機材を使用するということから、なにかと差別化したいのだろう。私に言わせれば、機材が同じならば、結果も同じはずですが。
 この日の山はガスっているので何も見えないが、ガスでも撮りに行くのだろうか、年配の辛気くさい機材マニア達は・・・。

2009年6月、上高地
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし32. 普通のトレッカーとして

2009年06月19日 | field work
 北アルプスの夏は短い。今ごろの涸沢だと、まだ十分に雪渓が残っており、天気も7月は安定しない。7月末になれば雪渓も消え、8月は登山シーズンとなり、台風の影響さえなければ天気も安定しており、絶景も比較的容易に眺められる。そして9月の終わり頃から紅葉が始まり、シーズンの終わりを迎える。調度3ヶ月足らずの春・夏・秋である。
 涸沢に至る登山道がある北斜面ではハイ松などの森林下界も2,000m位であり、それを越せば高山植物が出現し、やがて岩肌にとって変わる。そんな風景は、多数の3000mの峰を要する中部山岳国立公園だけであり、日本離れした風景である。そして私の好きな風景である。
 私自身高校時代にワンダーフォーゲル部で奥秩父の山々を歩いた程度であり。その後山にゆく機会がなかったので、普通のトレッカーである。だから、いつも涸沢止まりである。今ではそれで十分だと思っている。今思うと、大学時代に山岳部に入って登山技術を習得しておけばよかったと、思うときもある。
 北アルプスは絶景もあるが、精一杯神経を張り詰め緊張して通り抜けなればならない、大変恐怖感ある岩壁ルートも多々ある。例えば、この写真左の奥穂高岳が一部見えるが、そこからさらに左側に行くと現れるジャンダルムなどは、日本最難関のルートだろう。靴幅程度の細いルートを鎖をつかみながらトラバースし、ステップを間違えて落ちれば1,000mは落下し命はない。そこは技術があることはもとより、緊張感が持続できる忍耐と体力がある若いときでなければ、このルートを通ることが出来ない。個人的には、そんな生死を伴う気持ちの悪くなる恐怖を体験しなくて幸いだったと思うときもある。山は下から眺めるだけで十分だと、今でも思っている。
 こんなことを書くと、文章を書くのにも緊張してしまう。肩が凝るので、この辺にしておこう。今日は朝早く、東京にゆかなければならない。気が重たいが、登山よりはいいかと思っている。普通のトレッカーで十分である。

2007年秋、涸沢カール
CanonEOSkiss Didital,SIGUMA18-125mm/F3.5-5.6

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし31. 余暇考

2009年06月18日 | field work
 徳沢園に向かって梓川沿いを登ってゆくと、涸沢や北アルプスから、降りてくるシニア世代の登山者達とすれちがった。私自身登山者ではないが、これまでに涸沢迄は何回も登っているから、シニア世代ばかりが泊まる辛気くさい山小屋の空気を思い出していた。今時登山なんてヤング世代はあまりしない。
 地元の方の話によると、上高地にやってくる人達はみんな老人達ばかりだ。20年後にこの人達が他界したら、その先はどうなるんだろう。また伝統ある信州大学の登山部員が、今では10人足らずだ、キャンプ場に設営した無料テントは誰も利用しない、この先暗い事ばかりだという話を聞いた。
 そういえば、先日大学の実習授業で現地調査の際に、女子学生達とお茶をしながら夏休みの計画を尋ねた。
 ある彼女曰く、「ゲームソフトを1週間で攻略して、6巻やるんだ、そうすると夏休みが終わるし、外へ出ると日焼けするからヤダ」という返事だった。今では家の中もエアコンがあり、BSやCS放送も見ることができ、快適に暮らせる環境である。だから家の中にこもって、あまり外に出たがらない「引きこもり族」が増えたというのは、実感としてよくわかる。
 こうした些細な現象を捉えてみても、20世紀から21世紀にかけて余暇スタイルの大きな変化が顕著である。例えば、かってはヤング層の利用が主であった我が国スキー場における利用者数の大幅な低減は、それまで地域経済を支えてきた産業の一つとしては、大きなダメージと課題を発生している。さらに余暇全体に視点を拡大しても、アウトドアからインドア志向への変化は、余暇産業の構造的な変化となる。
 ではこれから地域や余暇経済にとって余暇とどう関わってゆけば良いのか。実は研究者の立場からの、こうすればとする方向性は見えているが、多くの立証作業を伴うのが研究の常である。
 そんなことを考えながら、上高地を歩いていた。そこで北アルプスのブログ用写真をと思ったが、今回は涸沢まで上がっていないうえ、山はガスっていたので、過去に涸沢から撮影した画像をアップさせた。もう秋かよっ!と言われそうだね。

2007年秋、北穂高岳
CanonEOSkiss Didital,SIGUMA18-125mm/F3.5-5.6
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし30. ミニトレッキング

2009年06月15日 | Kyoto city
 この週末、フィールド調査で、長野・岐阜を回ってきた。岐阜では集落や高山の小京都である伝統的建造物群保存地区を回った。蒸し暑い街中を数多くのカップルや家族連れで賑わい、観光パスまでやってきた。だが小京都のような風景は、私のような京都人にとっては全くつまらない。
 街の中で暮らしていると、時々チマチマした風景に倦怠感を覚え、やはり北アルプスを眺めながらのトレッキングがしたくなる。 それも3,000m級の山々が連綿と続く風景は、我が国では中部山岳国立公園しかない。
 今回は涸沢までは上がらす、河童端から徳沢小屋まで往復15km程歩いた程度だが、新緑の高原の森林浴は、大変爽快で心地よかった。例年ならば、絶景が眺められる晴天が続く時期なのだが、北アルプスの頂上部は少しガスっていた。上高地では、今年の梅雨の始まりが、少し早いようだ。
 久しぶりに歩いたので、足の裏に大きな豆をつくり、足が痛かったが、一晩たてば痛みも緩和され、気分は心地よい。

上高地
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし29. 梅雨入り

2009年06月13日 | Kyoto city
 京都が、もう梅雨入り宣言をしたかどうかは、確認していないが、体感気温的には梅雨だと思う。時折雨模様となり、そして曇り空から日が差している。今頃は初夏の名残で湿度が低いのだが、日を追うに従い次第に高くなり、そして梅雨が明けると、湿った夏になる。そんな梅雨明けが調度祇園祭の山鉾の巡行日あたりだろう。湿度が次第に高くなる、それがこの街の梅雨であり、日本の気候でもある。
 先日、散歩がてらに京都駅から歩いて10分程にも満たないところにある、渉成園枳穀邸に立ち寄った。この周囲には、マンション群等が林立していながら静寂な環境が心地よく、右手に見えるのは秀吉時代の御土居と呼ばれた土塁の跡だろうか。東本願寺の庭園だから、よく整備もされている。
 市内に数多くある、梅雨時の雨に濡れて苔が映える庭園は、やはりこの時期ならではの風景だろう。この雨が降った時期こそ大徳寺塔頭寺院の庭園巡りをしようかと思っている。だがなかなか雨が続く日が少ないようだ。カラッ梅雨だろうか。
 それをいいことにして、今週末は研究者仲間達とフィールド調査で岐阜、長野を徘徊する。梅雨が始まる前の晴天が、続くだろうことを期待して。

渉成園枳穀邸
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし28. 妖艶

2009年06月12日 | Kyoto city
 芸能の神様である車折神社の5月の祭礼は、大堰川に神様が御座船で現れ、その前で龍頭船・鷁首船20数隻に乗って諸事芸事を船上で奉納する面白い祭・川遊びである。そうした奉納の冒頭に行われる、小学生達による舞はとても妖艶である。
 かつてこのブログでも一度取り上げており、「女性も化粧をして舞うと、小学生ぐらいが一番妖艶であり、二十歳を過ぎるともう婆さんだな」といった感想を書いた記憶がある。今も当時の印象が変わることはない。
 今年は雨だったので、龍頭船の屋根の下での舞となった。河岸から龍頭船迄は距離があるので、またしてもあまり気に入らないCanon製のデジタル一眼レフと、手ぶれ補正がついた超望遠ズームレンズを使用した。ズームレンズを最大にのばすとAPS-Cサイズフォーマットの場合は、600mm相当になる。この600mmという焦点距離は経験上有用な意味があり、イベントやネイチャー撮影の際に、被写体をアップで捉えるためには、必要最小限度の焦点距離である。従ってこうした場合大変使いやすいのである。それにしても、おおよそ護岸に転がして傷だらけになろうと、機材が雨に濡れようと、あまり気遣いの必要がないのは、いかにも道具である。
 実は、デジタルコンパクトカメラでも、電子ズームと三脚を
併用すると、解像力は落ちるが600mmといった焦点距離で簡単に撮影できるのである。
 大まかな話をすると、こうしたプログに写真を掲載する場合、撮影過程でどんな機材を使用したかとすることは、記述しない限り、第三者にはわからない。結果としてブログ画像に表れるのは、レンズの描写力や色彩ぐらいだろう。なのに何故、あの重たい機材を使用するのであろうか、自分でも不思議に思う。よく考えたらデジタルコンパクトカメラを、私は1台も持っていなかった。フィルム時代の気分で進んでいるようだ。

嵐山・三船祭
CanonEOS 40D、EF100-400mm/F3.5-5.6


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし27. デジタルな色彩

2009年06月11日 | Kyoto city
 この10年近くデジタルカメラで撮影した画像を扱っていると、機材メーカー毎の色の特徴をいやでも感じる事がある。そのこと事態は微差なのだが、 眼がなれてくる故だろうか好き嫌いも発生してくる。
 例えばここに掲載したCanon製デジタル一眼レフによる画像は、生活の過半を占める人工的に着彩された彩度の高い対象では優れた発色をするのだが、バックグラウンドとして写されている低彩度の樹木や自然の緑、古い素材は、概して発色が悪い。古いものには、興味がないと、いいたげな発色傾向である。そこでphotoshopで微修正したが、あまり変わらない。概してあの派手と地味とが平然と混在するCanonの色が嫌いになってくる。じゃあ、Nikonか。こちらは全体として地味傾向で、鮮やかさを増しても、どこか地味さが残る根暗な傾向には変わりがなく、Canon製とは対照的な特徴なのだろうことは、わかるが、こちらも好きななれない。
 どちらのメーカーも基本となる色彩に忠実に向かおうとしているわけだが、そうした真面目さは日本人的で微笑ましいが、写真としての面白みに欠けていると私は感じている。
 ところで、このブログシリーズのno21~25迄は、Fuji FinepixS5proを使用した。それは私が気に入っているリバーサルフィルムのような発色である。なんといっても緑が鮮やかに写される。新緑だから、鮮やかにクリヤーに写る点では、私が気に入っている発色なのである。そして今回は、Canonの色である。比較されれば、理解されよう。この松の樹木の色はいだたけない。
 何が言いたいかというと、そろそろFujiから次世代プロダクトを発売して欲しい。個人的希望としては、大変スタイリングがよいNikonD300ボディに、Fuji製EXRのCCDを搭載したデジタル一眼レフを。現状では、FujiのデジタルコンパクトカメラF200しかない。この機種の色彩がよいことは、言うまでもないことだろうと推測している。

京都御所・葵祭
CanonEOS 40D、EF100-400mm/F3.5-5.6
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし26. 文章のグレード

2009年06月10日 | Kyoto city
上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)という仏教用語がある。それは極楽浄土を3段階に区分したもので、上品程グレードが高い。
 文章にもこうしたグレードがあり、著書や論文が上品に相当すれば、 中品はよくわからないが、このブログは下品になると私は考えた。このように分けると文章の完成度毎のグレードだろう。或いは第三者が文章を読んで、この人の文章は、云々、と人ごとにグレード分けされている場合があるかもしれない。そうなると、私が書いたものは、全て下品だったりする場合だってあるだろう。
 こんなことを考え出すと、ブログの文章もなかなかはかどらない。そして写真のカットにまでこうした考え方が及ぶと、書き手としては、素材が多くても、使えるものが少ないと感じるときがある。
 だから、プログを書くときは、あまり考えない方が良い捉え方だと思っている。だが、下品の文章ばかり書いていると、私としては文章修行のつもりで書いていても、時折自分の文章の下手さ加減に辟易し、自分でもほとほと飽きることがある。だからブログを書こうとする意欲も、時々減退することがある。といって頼まれてブログを書いているわけではないから、いつでも自由に廃業できるのだが。
 そう考えとくると、どうも文章というよりも、私自身の根性が下品なのかもしれない。まあ下品でも、極楽浄土の最下位に入っているのだから、まあいいかと思っている。

清水寺
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし25. エスキースとデッサン

2009年06月08日 | Kyoto city
 ここ連日ブログを書いており、MIKAMI`S BLOGのトップ画面は5回分しか表示されない故、「ヴァーチャルアイランドver2.」のカットが消えたことだろう。アーカイブに全て収録されているので、興味があればこちらにアクセスしてください。
 かくいう私自身、実はこのアーカイブを時折眺めて、原稿のテーマ探しをしていることがある。大学の講義で述べているような事柄の発想の源も、このブログで書いていたりする。そういう意味では、エスキースのようなところが、このブログにはあるのだろう。
 ところで先日我が家で人並みに見られるようになったテレビ番組で、故イブ・サンローランの特集を見ていた。彼のファッションの原型である数多くの手書きスケッチが写されていた。彼は、それをデッサンと読んでいた。そこでエスキースとデッサンという言葉を、web辞典で調べてみた。
 エスキース:建築製図の制作過程に着目していえば、エスキースは、構想を練る段階で用いられる作者の内面の軌跡のようなもので、かならずしも他者とのコミュニケーションを予想しているものではない。つまり製図の下書きである。
 デッサン:美術用語としては、素描、下絵の意であるが、フランス語の意味では文様や意匠の図案、建築・家具などの図面も含まれる。
 どちらの言葉も、制作過程での下書き或いはスケッチを意味しており、語義は同じ事であることがわかる。だが これらの言葉を使用する分野が異なっており、 物事をつくることを、ルーチンワーク的、或いは工学的製図と捉えるか、意匠というクリエイション概念の強いデザインと捉えるかの違いは、この言葉を運用しようとする人間の意識に関わっているのだろう。
 私の場合!?・・・・そりゃもう芸術系の出身だから、デッサンというべきだろう。これからは、そうするか。ただ工学頭の学生達が混乱するので、これまでエスキースと読んできたが・・・。

清水寺
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする