トップ画像左は932回の水彩画によるドローイング、右側はボツにしたMacによるイラレ。Macで描いたモチーフはアダルトサイトの画像をトレースしたが撮影レンズの焦点距離が広角すぎてボディが誇張され、足の存在感がなく人体にならない。これでは私のドローイングシリーズでは使えない。
そうなると巷に沢山あるアダルト画像は、所詮エンターテイメントだから私のドローイングシリーズでは使えないことになる。これが水彩画で描く、あるいはMacのイラレで描く理由である。
毎月このブログはドローイングシリーズ、映像によるフィールドワーク、そしてれまでのテキストによっておおよそ各10回程度の連載で一ヶ月の構成としている。
ドローイングシリーズはイラストを描けば、あとは文章がついてゆくだけだから最初に完成する。他方で映像は、撮りだめた映像を凝縮して編集するのが最近の勉強方法だからすこぶる時間がかかる。まあ編集の勉強もあるのでボチボチのペースだ。
そうしているとドローイングシリーズが何ヶ月先まで完成し、映像が追いつかない。ならばドローイングシリーズの回数を増やそう。Macのイラレだけでは単調だ。そこで水彩画が再び登場することになった。
それにしても久しぶりに描くと胸の向きが違っている!。これでは左の乳首が外を向いていることになる(*^▽^*)。
当たり前の話しだが濡れ場のポーズなんか巷のクロッキー教室でもしてくれない。だから個人的に組み立てることになる。そういう点ではイラレで描いた方が適度にリアリティがあって、そして省略できて調度よい表現だろう。
江戸時代浮世絵の濡れ場になるとモロという感じだが、デッサンという考え方がない時代のものであり、私には退屈だ。もちろん江戸の小柄な女なんかの濡れ場は、もっと色っぽかったと想像できるのだが、春画の表現が誇張しすぎて逆に色気をそいでしまう。
小説でも書いたが、江戸時代の鈴木春信の春画は、その場の空気はあるがやはり女のボディは表現されていない。当時葛飾北斎をはじめ春画を描いた画家は多いが、大方はグロテスクな人体ばかりだ。
だから春信よ!、北斎よ!!、もう少し人間を観察して真面目に勉強しろよな!!!。局部だけ拡大するなど不勉強で手抜きもいいところだぜ。きっと営利本位に走ったのだろう。1489年にはレオナルド・ダ・ビンチが人体解剖図を表しており、そんな情報は300年後の長崎出島で得られただろうよ。だから実際はもっと色っぽかった人体のはずだ。このあたりから北斎や春信達の不勉強な輩達の浮世絵に私は全く関心がない。
日本画がようやく立体的にオブジェを捉えられるようになるには、西欧留学をし絵画技法を勉強してきた竹内栖鳳の時代までまたなければならなかった。因みに現代作家の村上隆も東京藝大日本画科出身である。漫画のような線書きは、やはり日本画の系譜なのである。
鈴木春信の春画「風流 座敷八景」