Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

番外編569. 高画質モニターを壊した!

2023年01月31日 | field work
 

 私の仕事用5KLGMac専用ディスプレイ(左側)が壊れた。ならば安価な他社製品でよいか。台湾製BenQがゲームに使われているが輝点がでるなど品質はどうなんかなぁー!?。ここは手堅く信頼できる日本製EIZOの4Kモニターかなあ!?、でも高い!。
 映像編集をしていると、現在の標準である4K30p画質がスタンダードだ。それは悪くもなく、それでいてシャープで見られる画質だ。ところで最近8K画質が登場してきた。そこまでゆかなくても6Kのオーバーサンプリングで4K画質映像にする。例えばSONYのFX30はその典型例だ。
 撮影機材でもα1やα7R5が8Kで撮影できる。PCはMacスタジオが対応できるか。モニターはDELLの45万とPCより高い。そして発表の場であるYouTubeは、経営不振からしばらく4Kどまりが予想されるけど・・・。
 今は4K画質撮影機材を高価な価格で売りつけておいて、今度は8Kですとやらかそうとする家電メーカーの販売戦略でしょう。そして聴視者は、より解像度の高い画像へなびく傾向があることは、これまでのプロダクト開発史が教えるところである。実はそうやって経済回復をはたしてきたというのが日本の経済だった。
 今の撮影機材で8K30pに対応できる撮影機材はSONYα1だけであり90万とすこぶる高価。しかし冷却ファンがないから、熱帯地方で8K撮影をすれば熱暴走してストップする事は必須。そんな不安定機種が大量の情報を扱うのだから、私にいわせれば無理筋プロダクトだ。こんなの30万以下が良いところだが。こうした傾向は販売戦略であるがSONYはズルいところが企業体質にありそうだ。
 じゃあ今ある4Kテレビでいいじゃん、と家族が我慢するかというと・・・アホタラ娘が「我が家も8Kテレビにしようよ!!!」とせがまれる事になる。「じゃあ娘の裸体でも8Kで鑑賞しますか」なんて嫌みをいう間もなく8Kテレビがリビングに登場し、アホタラ息子のテレビゲーム機材に成り果てるというのが日本の姿だ。
 何故かといえば、既にスマホによって高画質画像をすり込まれているからだ。スマホの高画質化は、次世代8Kテレビ、8K映像を展開する布石になっている。最初に小さなプロダクトで高画質体験をさせて眼を肥やしておき、それから高画質家電や撮影機材購入にむすびつけるというのが今の日本の企業戦略。それで日本の経済は成長してゆく構造は、歴史的に変わりません。そして後から低価格のプロダクトが中国から登場して・・・。
 そんなことをまた日本はやらかすかなぁーと、私は傍観。

iPhon13pro

追記
 壊れた液晶ディスプレイ(5K解像度5120×2880ピクセル)は、同仕様Appleの27インチレチナ5Kディスプレイの定価が20万円。EIZOが15万円。そして修理費は7万円前後。結局修理に出す方が安いことに気がついた。そこで宅急便!。
 宅急便業界も棲み分けができており、個人はヤマト、企業は佐川急便。そして佐川急便は荷物はお客様が完全に梱包してくださいとつれない。そして27インチ液晶ディスプレイの箱は捨ててしまった。
 ヤマトは、パソコン専用の梱包材がありアトリエまで引き取りにきて詰めてくれる。これ一択しかない。みていて気がついた。箱のサイズはモニター用としては最大でありW66×H40×D20cm。つまり30インチ以上のモニター(66.29cm)は運べない事になる。私は27インチディスプレイで安堵した。梱包してもらって3,670円の送料だけが必要。翌日には、東京のLG修理センターに届く。
 教訓:30インチ以上のディスプレイを購入したら、梱包材は捨てずに保管しておこう。やはり製品用梱包材があると便利だという事、液晶ディスプレイは壊れやすい事。
 それにしてもLGの27MD5KL-Bモデルは、5年前Apple専用ディスプレイとして販売されてきた経緯がある。いまのAppleディスプレイの仕様は同じである。同じ解像度の製品が今は20万と高い。当時LGの意気込みがあった頃のプロダクトだから大切に使おうと考えた。もちろん一般的に使用されているディスプレイより今でも高画質だ。 
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番外編568. gooの編集画面から私が執筆した15年間のブログが全部消えた!?

2023年01月30日 | field work



 昨年末の話である。
 事の発端は、カード会社から第三者が私のカードを使用した可能性があるからカードを変えましょう、とメールがきた。その間の1〜2週間はカードが使えません、とアナウンスされた。そこで私はこの指示に従いカード変更手続きをおこなった。
 その不通期間に決済日だったのがgooである。当然決済できなかったからブログには広告が入る。そこで会費支払いの手続きを行った。このサイトのできが大変悪くなかなか登録手続きができない。gooのメール相談では新規画面で登録すればよいとアドバイスを受けた。そしてブログの編集画面をあけたら、全て新規設定になっている。それは15年間の5,000回以上の原稿が消えたわけである。もちろんフォロワーさん達のリストも初期化されているのか。
 つまり新規設定になることで、それまでのデータが全て新規情報で上書きされてしまったのではないか?。古くからPCを使っていればそう考えてしまう。
 本来なら顔面蒼白!!!・・・だが最近達観しているので、デジタルの世界はそんなものさと諦め気分。データは残っているだろうし、いっそこの際過去ログを整理するかな・・・、等と考えていた。
  数回gooとメールのやりとりをする。最近は、やりとりできないサービスばかりだが、私の経験ではgooとSONYはメール返信が出来る。ここはありがたい。
 翌日goo事務局と電話で再設定をする。その手順は忘れた(笑)。憶えているのはトップgoo文字の赤部分をクリックするとNTTレゾナント、あるいはgooブログのトップページに飛べる事、ここから契約画面に飛べる事。そして回復はアウナウンスに従い、契約を初期化し再設定したことで回復できた。それからブログ画面上の広告が表示されなくなった。それにしてもgooにもNTTレゾナントのトップページがあった事は新発見である。このようなトップ画面をブロガーは見ることが無いですから・・・。NTTのよくできたブログラムのアルゴリズムを実感する。だがインターフェイスは今ひとつなんだけど・・・。
 ようやくブログが復帰した。つまり500円の会費を払うだけの事なんだけど、どうしてこんなに面倒な手続きになったのだろうか。

沖縄県本部町
iPhon13pro
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番外編566. 再びラスターデータとベクターデータ

2023年01月29日 | field work

 何故フィールドワークに出かけるかといえば、学術論文を執筆し映像作品を作るため。目下論文は2年先のテーマ迄決まっている。であればデータや資料をあつめなければならない。
 トップ画像はそうした資料の一つ。1/2500の都市地形図の等高線を1m毎にトレースし、3DCGソフトで立体化して地形のモデルをつくる。その前段階の作業だ。
・・・
 文科系「公文書館から地図をデジタルで入手し、3DCGに読み込ませて立体化すれば簡単じゃん」、・・・と文科系の人間はいう。なにしろ文科系だからテクニカルな事柄を無視して作業方針を決めてくれる。
 観察鋭い工学系の人間は、「これってラスターデータ(画像)ですよね。3DCGのモデリングはベクターデータしか扱いませんよ。ラスターデータをスキャナーでベクターデータに変換できるかどうかは疑問ですよ!?・・・」
 そして工学系人間は、変換できなかった場合に行う作業量の膨大さに顔が暗くなる。いつもそうだが、文科系人種の発想は断片情報を集めて一つにストーリー化するが、テクニカル要素をほぼ無視してくれる。したがって実現できない妄想を押しつける結果になる。始末が悪いことに自分では手を出さない、というか出せる技術がないから心理を逆手にとって工学系人種にやらせようとする。
 文科系「いまはスキャナーの性能が良いから簡単だよ・・・!」
 工学系「スキャナーのソフトはなんですか?」
 文科系「知らん!」
 工学系「(ソフトの仕様もわからんで性能が良いという論拠は成立するのかよ?)」
・・・
 工学系「公文書館に問い合わせたら、画像でしか配布しないですよ」
 文科系「なんでもいいじゃん、こんなのに金払うのかよ!!。どっかのサイトからコピーしろよ!!!」
 工学系「つまり3DCGではラスター(画像)データからのモデリングはできません!。画像データを手作業で等高線をトレースし、ベクターデータに書き換え、3DCGソフトに読み込ませる工程になります・・・。等高線1m毎にファイルをつくってトレースし、3DCGソフトに逐一読み込ませる大変手間のかかる作業です。緻密で忍耐が必要な作業を誰がやるんですか!?、・・・・」
・・・
 文科系は、自分の手で物をつくってきた経験がない。お家の日曜大工ぐらいじゃあねぇー。つまり技術知識皆無の口だけが走り回る無責任人種文科系には、いつもトホホなのである。
 そんなやりとりを想像しながら、私は緻密で忍耐力を伴う作業をしていた。文科系が側にいなくてよかったぜ。それでも1週間はかからなかった。
 そもそも地図情報をラスターデータで配布する公文書館の無知が原因だ。一般的な地図原本はベクターデータでなければ作成できないが、それをラスターデータに変換してから配布する役所のデジタル音痴には呆れる。
 何処の地形かって!?。
 現存する沖縄県今帰仁城跡の地形3Dモデル。目下連続テーマで執筆している沖縄巨大グスク建築群創造復元シリーズ最後の論文。これを書き上げて3DCG上に往事の建築群を想像復元できれば、さらば!!、沖縄ですね。

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Fieldwork771. 横浜駅西口の東急ハンズ!

2023年01月28日 | field work




  横浜駅西口、それも表通りにゆくのではなく相鉄線に沿って駅を出ると、そのまま混沌とした街に続く。当時どこの駅前にもあった田園という喫茶店の看板が見える。
 鶴見の住まいから近かったので足繁く通ったのは、東急ハンズやヨドバシカメラがあったからだ。神社の本殿の如く参道の奥に鎮座していた東急ハンズは、今更地になっている。マーチャンダイジングや都市の変化の激しさが見て取れる。既にDo it yourselfというライフスタイルに呼応したハンズではなく、バラエティーストアへと業態変化した。
 かって東急ハンズは都心と郊外の境界領域に出店してきた。いまその狭間が街の拡大とともに都市のなかに取り込まれてしまったから、自分で工具を使うといったDo it yourselfテイストの人達からは遠ざかってしまう。都市化の推移によって業態を変えざるを得なくなってきた。
 そんなかっての本殿に至る参道にあたる界隈は、いまだに混沌とした空間である事に変わりはない。
 だから機材もライツ・エルマリートやヘクトールであったり、オリンパスの名機XA4で撮影していた。このXA4という28mmの広角レンズがついた小さいボディはレンズ鏡胴がホディ内に収納できるケースレス構造の先駆けだった。随分と使いやすいフィルム機材だった。
  このブログ8回、20世紀に撮影したフィルム画像をアップさせた。これが見られる画像になっているのはPhotoshopの力によっている。
 ふと思いついたが、古い画像を整理していたら結果として街毎のブログになった。じゃあこれから街ごとに撮影して、もっと撮影しようとは考えたくない。というのもそのように目標を設定し、考え、行動しだした途端に街への興味、そして街自体が消えている。そんな目標設定、行動などという文科系的体系や考え方では撮れないのがストリートフォトだろう。街を歩き被写体を見極める感性が必要なのである。
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Fieldwork770. 思わず肩に力が入って撮れなかった下北沢

2023年01月27日 | field work







 都市デザインの研究者のみならず歩きに関心をもっていれば、下北沢の錯綜した空間にときめきを感じるでしょう。狭隘なところに密集した店舗をみていれば、そんな店舗の奥まった空間に入り込みジャズを聴いている心地よさを体験できるだろう。
 私も所用で何ヶ月かに一度は、この街へきた。いつも心はときめくが、何故か肩に力がはいりすぎ思ったほど写真は撮れなかった。多分ここではこの街の住民のような感覚でいる事が必要なのだろう。
 それでも駅前の植え込みのヘリに座って劇場の舞台を眺めるように、人々の所作を観察するのは面白い。概して若いカップルが多い。この周囲の古いマンションなどを住処とし、歩いてゆける範囲で生活ができる。それは住みやすいのだろう。
 今では小田急線が地下駅になったから、駅前の市場もないだろうし、乱雑に置かれた自転車も整理されただろうし、この界隈も変わってしまったと推測している。そして今は私自身がこの街に用事がなくなった事もあり、多分もう行くことはない。
 デュープ画像は日付撮影機材を名前にしている。これをみるとコンタックススリムTと書いてある。でもトップ画像なんかライツの望遠レンズだろうな。そんな記憶が曖昧になるほど、この街は混沌としているようだ。 
 
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Fieldwork769. 六本木交差点に隠されたタウンスケープ

2023年01月26日 | field work








 西麻布のプロデュース企業で仕事をしていたから、通勤は地下鉄日比谷線の六本木駅で乗り降りしていた。六本木交差点は、この界隈のシンボルみたいなところだから、人通りが絶えなかった。そんな交差点を1本裏にはいると、都市の風景が突然変わるというのも六本木の特徴だった。
 といって新宿歌舞伎町のような裏の猥雑な世界があるわけではない。そこには、大使館風の廃墟がロアビルの前に見え隠れしていたし、六本木交差点のビル群の1枚裏はお墓だった。それにこの交差点は台地の一番高いところにあるから、裏にゆくとパリの裏町のような階段が続くというのも面白かった。
 仕事関係でゆかされた金魚というオカマエンターテイメントもこのお墓の前の古いビルだった。立地からすればさっすがオカマの世界かと思われるモノがあったし、古いビル内を劇場に仕立てなおし、大がかりな舞台装置が設えられていたのには感激した。そしてなによりもテンポの速いミュージカルが大変面白く、その後はとバスツァーになるほどの人気を博し、そして今は存在しない。
 1997年、そんな六本木交差点の裏側を徘徊すると、表通りから全く想像できないタウンスープがいくつもあった。そんな裏の少し異質な空間から表通りに出ると東洋英和の女子高生か。それでようやくアマンドがある交差点に戻れたわけである。今は随分変わってしまっただろうと思われる。
 ミノルタCLEやライツM4-Pにエルマリート28mmをつけて徘徊していた頃の画像。20世紀最後の六本木の姿を少しだけ記録していた。
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Fieldwork768. 何処まで迫る勇気があるか、渋谷の街

2023年01月25日 | field work






 貴方は、知らない人間にレンズを向ける勇気がありますか?。
 ストリートスナップ程、勇気と知恵が必要になる。撮影する毎に相手の了解を取り付けたあげく撮影させてもらっていたらVサインなんかだしてサービスしてくれたりする。そこから街の空気は逃げ去ってしまう。人は誰でもカメラを意識する。だから意識されないように撮って、相手にわからないように撮影者が消えてゆくのが理想のスタイル。
 たまたまカメラを構えていたところに、貴方が通過したのですよというぐらいのスタンスで堂々と構えてシャッターを切るというのが勇気というずるさだろうか。
 フィルムカメラは機構的だから音が出る。その音は小さいほどよい。ここで使用した京セラSlim-Tは、音が小さい上にボディ上部にもう一つのファインダーがついている。だから腰の位置で構えられる。欠点はオートフォーカスが遅いこと。因みに音が小さいカメラの典型は、ライツ・ライカ。
 こうしたストリートスナップの名手は、フランス20世紀の写真家アンリ・カリティエ=ブレッソン。彼は画家を目指していたからデッサンが出来る。つまり構図がとれる。動く世界を写真で切り取るために、焦点距離も露出もピントも全て固定し構図に集中したといわれている。彼の写真集の原題「Image a la sauvette(逃げ去るイメージ)」は、次の瞬間には消えてしまうイメージの危うさを語っている。かれもまた手のなかに収まるライツを愛用した。
 さて、勇気をだして渋谷でギャル達をテーマに撮ろうか・・・。それは本当に場の空気を読む力と勇気を必要とする。今なら盗撮呼ばわりされて警察沙汰になるかもしれない。だから撮影画像がすぐには見られないフィルムカメラの方が優れものである。画像を見せろと言われたら、おもむろにカメラからフィルムを撮りだし、ハイこれです!。それでフィルムは光に感光し画像は消滅する(笑)。
 そんなギャル達を撮りつつ目指したのは、ブログトップ画像の写真が撮りたかったのである。それはギャル達の隙間に見え隠れする渋谷の街の空気だった。
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Fieldwork767. 二つのスプリングカメラ

2023年01月24日 | field work
 デジタル化したネガ画像をNASから引き出していたら、スプリングカメラで撮影した画像を見つけた。スプリングカメラは、光学上ボディから飛び出さざるを得ないレンズ部分が蛇腹でホディ内に収納され携帯に便利なように設計されたフィルムカメラである。昔のフィールドカメラである。因みに今のデジタルカメラは、レンズ自体がボディに収納され大きさもこれらとは比較にならないほど小さい。
 一つはフォクトレンダーが1950年に製造を始めたVitto2。もう一つはドイツKodakが1958年に製造したレチナⅢC。どちらもオール手動で機械式のカメラ。ツァイスやライツが高価であった時代に、低価格で発売され大衆機として普及したヨーロッパのエスプリ。
 そもそも会社で人間ドックにゆかされ慶応大学附属病院のあろうことか木造平屋建ての文化財的病室(昔の結核病室)で、検診結果の長い待ち時間に読んでいた本(日沖宗弘:プロ並みに撮る・写真術2、勁草書房、1993年)にカメラウィルスをうつされたわけである。これはその後も私に長く影響を与えた。
 そして私の手持ち機材と組み合わせ高画質でコストパフォーマンスのよいシステムが出来る事を延々と語られ・・・。でっ、やってみた。
 例えばVitto2を標準レンズ専用機材にして、手持ちのレンジファインダーCanom6Lにライツ・ズマロン35mmとライツヘクトール135mm(キャノンには135mmのフレームがある)を組み合わせて広角、標準、望遠のコストパフォーマンスの良いシステムができる云々とする記述に感動し((*^▽^*))中古カメラ屋に走る結果となった。
 もちろんモノクロで撮影したときは、現代のレンズとは異なるおっとりとした美しい写り方をしてくれた。KodakレチナⅢCは、現代でもリバーサルフィルムやモノクロフィルムで撮影すると大変シャープで抜けの良い写真が撮れる。1950年代に撮影機材は完成していたのである。
 その後デジタル化にともなってこれらの機材は、私の手元から離れていった。今でも定期的に分解修理などのメンテナンスが出来れば十分使える機材。それはデジタル機材では撮れない魅力ある画像が撮影ができると思われる。昨日の品川宿のブログは、広角側をミノルタCLEにエルマリート28mm、そして標準側をレチナⅢCのシステムで撮影した。


 横浜市大倉山・1996年。トップ画像を含め上記3枚はVitto2で撮影した。逆光では盛大にハレーションを起こし、私の機材はレンズ内部にカビがあったのだろうか・・。しかしクラシックな写り方は、被写体さえ選べばデジタルカメラではできない魅力的な画像が撮れる。



 横浜駅西口・1997年。手荷物がないから出会い系サイトで捕まえた男を待つ娼婦だろう。上記2枚は、KodakレチナⅢCで撮影した。ミノルタCLEにライツ・エルマリート28mmと90mm、それに標準をレチナⅢCにするというシステムが、大変高性能であり、フィールドでは小さく軽く使いやすかったのである。これは当時のニコンやキャノンの一眼レフシステムに追随できるといってもよい描写力を持っていた。その後惜しいことにミノルタCLEは電子部品の故障で修理不可となり、最適システムも潰えた頃デジタルカメラが登場してきた。

Voigtlander Vitto2 出典:ハタヤカメラ
https://www.hayatacamera.co.jp/monthlyphoto/201905-vito2/

KodakレチナⅢC、出典:flickr
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Fieldwork766. ローライフレックスを担いで筑波研究学園都市の周辺へ

2023年01月23日 | field work
 トップ画像は筑波研究学園都市(現在のつくば市)にたつアメリカの世界的建築家マイケル・グレイブスのデザインによるオフィスビルである。なんでこんな田舎にグレイブスのデザインが・・・。そんなことはどうでもいいじゃないかとする時代だった。
 私は40代半ばでキャリアアップだ!、というので都市開発プロデュースの仕事場を退職し、筑波大学の研究室に通い博士論文の執筆にいそしんでいた。
 調度クラシックカメラの関心がぐつぐつと煮えたぎっていた頃、大きなネガサイズの機材が欲しいな。銀座の三共カメラで3万円代のローライフレックスを調達した。研究生の身分ではプラナー付きのローライは高いので、西ドイツ・ツァイスオプトンのレンズがついた機材だった。
 同じくして博士号をめざすU君が呟いた「ライカが・・・」という危ないセリフは、クラシックカメラに関心を持ち出した頃の私の心を大いに刺激した。だからライツ・エルマリート28mmやM4-Pのボディを、ニーヨークのウッドゥンカメラなどからインターネットで注文して取り寄せた。もちろん価格は国内の1/2位だったのである。
 私は2年間で所期目的の博士号をゲットし名古屋の大学に赴任した。クラシックカメラの関心を引きずりながら。そして「ライツが・・・」とつぶやいていたU君は、今や筑波大学世界遺産専攻のオーソリティーである。キャリアアップ時代の記憶である。





 (茨城県新治郡桜村1995〜1997年)。筑波研究学園都市の周辺は、茨城県の典型的な農家が広大に広がっていた。だからローライフレックスをかついで日々自転車で集落を走り回っていた。全く都市化されていない農家の風景が延々と続いていたのである。今思うと、こんな被写体に溢れたところを、もっと自転車で遠出したかったと思うのが唯一の後悔である。
 そのときまで都市開発の仕事で1日中丸の内で打合せしていた・・、なんていう日々である。それが突然この田舎の風景に遭遇し最初は躊躇したが、後で考えるとなんと素晴らしい時間をくれたのだと神に感謝した。
 だから今でもローライフレックス・プラナー付きが欲しいと思うことがある。これで筑波の田舎を撮り歩きたいと思う。これはまずい!、カメラウィルスに感染されつつある。
 ローライフレックスの名手は世界でも数多く、例えばアメリカのヴィヴィアン・マイヤーは、生涯家政婦をしながらローライフレックスを手にしてニューヨークを撮り歩いていた。生涯にたった1台の機材、ローライフレックスは、人生に一生付きあって記録やクリエイションの足跡を着実に残してくれる希有な機材でしょう。
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Fieldwork765. 変わりゆく品川宿

2023年01月22日 | field work
 東京人でも気づかない場所がある。
 京浜急行各駅停車に乗ると品川駅を出て最初の停車駅が北品川駅だ。将来リニア新幹線が発着する品川駅からでも歩いてゆける近さだ。そこは高層ビル群に囲まれた谷間にあたる一体が旧東海道品川宿である。お寺と多くの錯綜する路地と古い商店街、そして船宿と盛大なお祭りがある街だ。
 それだけ揃えば魅力的な場所だけど、忘れ去られたところがよい。だから私も本を作る時に取材で、この街に足繁く通ったのである。それから10年はたっただろうか、再びこの街を訪れた。しかしこの街を案内してくれた教え子の家はなく、路地の箱職人も見当たらず、うなぎ屋は新業態の居酒屋になり、新しいワンルームマンションが目立つようになった。もちろん商店街も綺麗に整備されているから、私が訪れた時とは随分と様相が変わっている。
 それ自体都心に近く魅力的な場所だ。若い人達が住み始めたから商店街も刷新されたわけだ。その陰で履物のお婆さんや馴染みの風景が消えていった。それが日々更新し続ける東京の宿命なのだろう。
 これらの画像の多くは1997年6月にミノルタCLE+ライツエルマリート28mmで撮影していた。フィルムはすべてトライ-X400。



 品川宿の路地。ここの路地は錯綜して沢山ある。人一人が通れるぐらいの狭隘な路地もあるし、井戸のポンプが設置された路地も複数ある。今は飲めないが洗濯には使われており路地が干し場となっている。だからまさに井戸端会議が存在している。井戸という生活必需品が地域のコミュニティを繋いでいる。それに都心のすぐ側あって、この江戸っ子気質の路地界隈は大変落ち着く。きっと住みやすいところなのだろう。
 別の見方をすれば、住み心地の良い住まいというのは、コミュニティがあって人々のつながりがあるところだということを再認識させてくれた。

 品川宿商店街。京急の北品川から青物横丁まで1km以上ある長い商店街が続いている。その沿線がとても魅力的な空間だ。いまは随分と変わってしまっただろう。そしてこの街には、江戸っ子気質の人間が多く、品川神社と荏原神社のお祭りがある。大神輿は商店街を練り回り、東京湾でみそぎをする。そう昔はこの商店街のすぐ脇までが東京湾だったのである。

 木造長屋群。商店街から少し外れるが古い建築様式の木造長屋群がある。なによりもこの植栽に囲われた路地が素晴らしい。後日訪れたら長屋群は1/2になってしまった。いずれなくなるだろうし、だれからも残せという声はあがらない。静かに消えてゆく古い木造長屋群である。

 船宿のある街。東京湾遊覧の屋形船は、この街から出航する。だから商店街を直角方向に下ると東京湾に続く水路がある。昔東京湾がこの街の際まであったという名残である。
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Fieldwork764.  東京都墨田区・玉ノ井、記憶の中のフィールドワーク

2023年01月21日 | field work
 トップの画像は、東京都墨田区東向島。
 永井荷風「墨東奇譚」の舞台。そして戦後の売春街であった。永井時代の民家は東京大空襲で焼かれてしまったとしても、戦後滝田ゆうのイラストで描かれていた玉ノ井の風景はあるのだろうか?。そんな目的で街を徘徊したが、その残渣も発見することができず、日常的な下町商店街だった。だから口直しに浅草を回り、アメヤ横町でフィールドワークは終わった。
 当時コニカが製品開発(1999年)したヘキサーという、平成の時代にあっては珍しいレンジファインダーボディにズミクロンを抱えてのフィールドワークだった。コニカは熱いマニアの期待に応えたが、2005年にはブランドそのものが消えてしまった。マニアの期待に答えると売れない機種になるというジンクスは、ミノルタCLEに続く二番目の悲劇である。
 しかもほどなくデジタルカメラが勃興し、私の手元でそれは活躍することなく、知人にわたってしまった。コニカも後のミノルタを吸収し、コニカミノルタとなるものの、その後カメラ事業部はSONYに売却される。
 玉ノ井という当時の街が消え去り、撮影機材メーカーが消え去り、私の手元からズミクロンも消え去った。そのすべてが程なく消え消り、今では記憶のなかにしか存在しないフィールドワークだ。


 東向島の裏通り。京都島原、東京吉原などの来歴をみれば明らかだが、遊郭の所在は時代によって移り変わる。時の権力者が邪魔だ!。あっちへゆけ!、といえばサッサと遊郭の街毎うつってしまう。玉ノ井も戦前と戦後では、少し場所が動いている。といって街にその痕跡があるわけではない。フィールドでは、古い民家をみて見当をつけたりするが、大体は外れている。現実がどうであったかという事よりも、往事のイメージを形成するオブジェクトが点在していればよしとしている。

 東向島。民家は古いが遊郭ではない。下町によくある木造モルタル塗りのアパートだろう。共同の台所とトイレがあるというイメージは、外観からうかがい知れる。昭和の頃、こんなアパートで一家4人が暮らしていた。

 東向島の路地。民家は古いが、遊郭の意匠が見られない。むしろ滝田ゆうが出てきそうな路地の奥である。こんな民家の物干し台からみた風景も情緒があったのだろうし、それはしばしば映画の舞台にもなっていた。

 浅草仲見世通り。左側の老人は玉ノ井に遊郭があった頃に存在していた。周囲に威張りくさり不機嫌な空気を漂わせながら、遊郭にいれあげていたのが内実だったというのはよくある話だ。だから当時のシニア達の会話は、遊郭の経験談で盛り上がっていたはず。今は、精々孫の自慢か個人の趣味的話題ぐらいだから、他者は共感する余地もなく耳も貸さない。そんな共感がなくなって痴呆症が社会的に取り上げられるようになった。そう考えると往事の老人達の遊郭通いはボケ予防になっていたかもしれない。

 浅草仲見世の裏通り。概して大通りの裏にゆけば何かある。それが街歩きの知恵だ。提灯がないと上海と思わせる空気が漂う。上海であれば、もっと面白かったが・・・。

 フィールドワークに出かける時、街をイメージしてこんな写真が撮れるかなとスタディはする。実際はイメージから大きく外れている場合がほとんどだ。だから〆はよいカットがとれそうなところで口直しをする。

Konika Hexar RF、Summicron50mm/F1.4、Tri-X400
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Fieldwork763. KYOTO・SETSUBUN FESTIVAL 冬の京都・節分

2023年01月20日 | field work
 京都の催事のなかで夏の祇園祭と匹敵するのが、市内各社寺でおこなわれる2月3日の節分の催事。節分とは、単に年男・年女が豆をまくだけといったら、それは関東地方の話。もちろん舞妓さん達が豆をまきますが、それだけではありません。様々のいわれのパフォーマンスがあり、伝統意匠の総集編といってよいほど日本のデザインを感じさせてくれる催事です。
 私は過去に、いくつかの催事を取材しました。寒波が、そして時には雪が舞う底冷えのする京都です。それだけに冬の情緒がたっぷりと感じられます。京都の冬を体験したければ、節分の催事をまわることをお勧めします。もちろんオフシーズンですから宿は空いていることが多いです。
 さて過去画像をもちいて、京都の節分を映像にしました。今年は行動制限がないので、例年通りに開催されるでしょう。
ホームページ:京都市京都観光情報:https://ja.kyoto.travel/

(In English)
 Among the events in Kyoto, the Setsubun event held at each temple in the city is comparable to the summer Gion Festival. Setsubun is a Kanto story if it is just the men and women throwing beans. Of course, maiko throw the beans, but that's not all. It is an event that makes you feel Japanese design, so much that it can be said that it is a compilation of traditional designs through Setsubun.
I have covered several Setsubun events in the past. It's a cold season with cold waves and sometimes snow. That's why you can always feel the atmosphere of winter. If you want to experience winter in Kyoto, we recommend visiting the Setsubun events. Of course, since it is the off-season, the inn is often vacant.
"Well, I made a video of Setsubun in Kyoto using past images." There will be no restrictions on movement this year, so it will be held as usual.
Website: Kyoto City Kyoto Tourist Information: https://ja.kyoto.travel/

追記
 節分のモデルコースは、映像の中にあります。というのも催事の多くが同日日のほぼ同じ時間におこなわれるために、チョイスしてモデルコースをつくりました。

KYOTO・SETSUBUN FESTIVAL 4K
NIKON F4、FUGI FinepixS5、AF NIKKAO80-200/F2.8ED他
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Fieldwork762. 旅先で時間が余っていた

2023年01月19日 | field work

 12月、沖縄へ出かけた。その那覇の調査が早く終わる事もある。そうなると旅の最終日は時間が余る。市内のフィールドワークか。まず40リットルのリュックを空港へ預ける必要がある。海沿いをタクシーでゆけば千円ちょっとの距離だから近い。
 それから沖縄唯一の鉄道?、つまりモノレールの1日券を購入し、美栄橋まで戻り、港を歩いて曙町の定食屋を目標にしよう。それから首里の散歩コースと目論む。
 さて海岸沿いの道をあるき泊港を横切り本格的な港湾施設の中を通り抜け定食屋にたどり着く。定食屋は港湾地区にあるから、駐車自由だがバスもタクシーもない。えらいところに来ちまった。駅までの3kmを歩くしかない。このようにフィールドワークは、ハズレる場合もある。駅までの道の退屈で長い事。
 結局美栄橋から曙町、そして古島まで10kmぐらい歩いたから足は疲れた。疲労感。首里はパス。予定をパスすると時間が余る。
 ならば空港で時間を潰す・・・?。だが、人が多くパソコンで仕事をする気分ではい。そこでモノレール那覇空港駅二つ手前の小禄で降りると、ブリッジで連絡されたイオンがある。ゆったり椅子のスタバもありWi-Fiは使いやすい。キャラメルラテで足の疲れをとろう。そう考えていたら眠ってしまった。不作のフィールドワークも少し寝ると格段に疲労回復。旅先の昼寝は最高の回復薬だ。
 さてスタバで映像編集しよう。あちゃーマックブックはUSB-Cだよ。変換コネクターがいる?。なんとイオンにダイソーがはいっているではないか。コネクター110円で調達。おっと!、エアロビクスの先生が好きな「ちょっちゅね」も買わなきゃ。イオンで揃うではないか。駅前広場にはセブンイレブンもドラッグストアもある。お腹が空いていればイオンのフードコートだ。ここは空港よりも便利で快適だ。
 あとはピーチの時間に合わせて空港に行けばよい。空港ビルを使わない搭乗前の時間の過ごし方に新しい発見をした。
 関空行きのpeach最終便は1時間遅れ。多分寒波だな。冬の気候で最終便のチョイスはやるべきではない事を悟った。関空到着は22時46分だと・・・。おいおい京都行きリムジンバス最終は22時52分発だぜ!!!。預けた荷物もピックアップしなきや"!!!。
 間に合わないなあ!!!!!!!!!!!。ついに初めての関空日航ホテル泊まりか・・・。日航ホテルも居心地良いと思われるが、こんな時に泊まりたくない。
 しかしバスに乗り遅れたらキャビンクルーだって帰れへんで!。ケチなピーチがクルーのためにホテルなんか用意するはずがない。そのあたりのご都合主義的なところが、さっすが大阪の「ほんま、おおきに航空"!!」、なんだな・・・。
 幸運にも飛行機は予定より15分早く着いた。途中でエンジンをふかしていたもん。隣席のミドルと歩調を合わせ間隔を詰めて出口に向かう。というのも横から人を割り込ませない作戦なんだ。ミドルがタラップを降ると走り出した。よし!、彼についてゆけばよい。異常に長いpeachの通路を走り抜ける。ミドルは人並みをかき分け走り抜ける。私も後ろに続く。突然高齢者が道をふさぐ。高齢者というのは自分のことしか考えていない。その後ろでミドルが逡巡する・・・。そのあたりの分別があるのが京都人ぽい。やがて列が切れた。再び走る!!!。私も後に続く!!!。あとは預けた荷物が早く出てくる事だが・・・、じれったい。宅急便で送れば良かったというのは後の祭り。やがて荷物が出てきた。私の荷物がこない。こんな時に突然レーン変更してくれる。乗客が多いからだろう。満席だったもん。あと2分もないのに。
 ビックアップしたリュックをカートに載せて私は走る。外に出て、はるか遠くの荷物係の叔父さん達をめがけて射的の玉のように走ればバスを止めておいてくれるだろう。それでもバスが走り出したら京都!と叫ぶほかない。でも彼らは知ってんだよね。飛行機が遅れていることを・・・。バスの発車時間調度でバスに乗れた。同様の乗客がいるから3分遅れで発車した。実はまだ京都行きがいると思われるが・・・。
 那覇の最終日だった。旅先でブログがかけるほど時間が余っていたんだ・・・。


iphon13pro
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Foeldwork761. ウォーターフロントといえば聞こえがよいが、つまり定食屋を目指して港湾地区を徘徊する。

2023年01月18日 | field work

 ゆいレールを美栄橋で降り海に向かえばほどなく那覇港にゆきあたる。港の一角に木々のある土塁風が見える。こんなところに土塁の城の記録はない。中世琉球の三重グスクは国場川だから場所が違う。地図で見てもわからない。よくみると現代の護岸だった。
 海岸沿いを北進すると、ほどなく泊港だ。離島に向かうフェリーターミナルだ。フェリーといってもトレーラーを牽引するトラックまで乗る。物流経路なのだろう。
 泊港は、整備されているので特段撮影する被写体はない。そのまま横切り北進すると外人墓地に出会う。以下に那覇市観光資源データベース(注)から引用しよう。
「文化財(市指定史跡)史跡指定年月日;昭和62年8月10日
泊港北岸近くに位置する。墓地入り口より右手奥の方が古い外国人墓(俗称ウランダ墓)で、中国人、アメリカ人をはじめ、6ヶ国の計22名が葬られている。墓地の周囲は緑に囲まれ明るく、この墓地で最も古いのは1718年に埋葬された中国人である。長い航海で病死したイギリス人水兵や、ペリー提督の船に同乗していた水兵、カトリック宣教師マシュー・アドネ神父も埋葬されている。外国人墓地は18世紀以後の琉球と諸外国との交流を知る史跡として重要なスポットである。」
 トラックが行き交う騒音の中の外人墓地というのも意外だが、あとから物流機能が整備されたわけだ。
 さらに北上を続ければ、漁船の船だまりがある。さらに単調な騒音街道をすすむとコンテナヤードがある。コンテナの色が青い空に映えている。ここから延々と退屈な道を北上し曙町を目指した。
 実はダイビングで慶良間諸島に行くときは、北港からボートが出ることが多い。だからいつも車から目にしていた光景だ。そんな道を少し歩いてみた。

注)https://www.naha-contentsdb.jp/spot/696

定食屋を目印にして、那覇港湾地区を徘徊する。

 曙町の定食屋で漁師丼。都会人は漁師という言葉に弱い。ワイルドな飯というイメージがあるからだ。だが実際は、わざわざ食べに来るほどのものではなかった。魚フライ定食にしておけばよかったか・・・。この店のメニューの1つにイカスミ汁丼がある。歯が真っ黒になるのもやだなとおもって敬遠したんだった。烏賊と豚肉と大根だって・・。「海の恵み・みなとまち店」



SONYα6600、E10-18mm/F4.0
iPhon13pro

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Fieldwork760. 路地からから路地へ渡り歩く

2023年01月17日 | field work

 牧志の路地も数多くあり路地から路地へと渡り歩く魅力があるが、いかんせんシャッターを降ろして休・廃業している店舗が目立つ。
 それは新型肺炎ではなく、マーチャンダイジングの問題だと思われる。時代に合わせた訴求力ある商品開発やサービスの提供ができなくなってきた結果、次第に古い商いでお客を呼べる時代ではなくなってきた事に由来する。
 生鮮三品ですら、若い人達は大型スーパーへ買い出しにゆき、市場に買いに来ることはない。そうなるとお客は高齢者ばかりとなり、その足も次第に少なくなってくる。
 多分こうした市場も次第に再開発されてゆくだろうと思われる。手始めに牧志第一公設市場が建て替えられた。今は仮設店舗で営業しているが、来年には本来の場所で観光市場として営業されるだろう。
 私は、そんなまたなくなるかもしれない路地から路地へと渡り歩いていった。
 さて動画は途中に不自然な所作が入ってしまった。手ぶれもしくは動画の過度な手ぶれ補正によるものと推測している。それに路地なのに露出がF8.0と高いままだった事は後で気づいた。このあたりは、まだ勉強しなければならないですね。

20221207 08牧志路地から路地へ 4K
SONYα6600、E10-18mm/F4.0
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