Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Landscape36. 山陽路・倉敷1

2008年02月28日 | field work
 国伝統的建造物群保存地区であり美観地区でもある倉敷旧市街地は、幕府直轄地である「天領」だったことで街の基盤を築き、明治期以降の大原孫三郎による産業振興において経済と生活の基盤を形成するなど、常に歴史の本流を歩いてきた街だけがもつ安定感を持った風景がある。この安定感ある風景には、過去、現在、将来にわたり、およそ変わることがないと誰しもが思うだろう。現在京都をはじめ我が国の多くの歴史的街並みが、衰退しつつある現状を思えば、倉敷美観地区は歴史資産継承の優等生だといえる。
 この街を歩くと肌で文化を感じることができる。その理由は、セザンヌ、ルノワールといった西洋近代絵画の収集に始まり、バーナードリーチ、富本憲吉、河井寛次郎、浜田省吾、芹沢銈介、棟方志功といった今では我が国の民芸運動を代表する蒼々たる作家らをいち早く発掘し、作品収集の先駆けとなるなど、広範囲な視点からのコレクションを持った民間事業体である大原美術館の存在によることは論を待たない。文化の価値を読み解く眼力の確かさと、知識の深さがあってこその文化性である。
 近年、街の文化性への関心が高く、各自治体では、それなりの文化事業が盛んだ。それだけ我が国には、文化のない街と呼ばれるところが多いのだろう。だが、文化性は事業として扱うというよりは、むしろ文化の価値を見いだす感性や審美眼、優れた才能を発掘し育て上げる洞察力や先見性、そして文化に対する見識ある知識の研鑽と蓄積の総体を言い表すことと、私は考えている。従って街の文化性とは、地域に暮らす人間性やその意識及び行動の反映である。当然上からとやかく言われるべき筋合いのものではない。昔からの稽古事はもとより、アーティスティックな感性や外界に対する興味がなく、手間のかかることが面倒で、本も読まず勉強嫌いの人間達が多く集まったところで、文化は育たないのである。
 大原美術館の隣に古くから店を開いている「エルグレコ」と呼ばれる瀟洒なカフェがある。文化を考え、語るためには、必要な意味ある設えである。そういう機能上なくてもさしつかえないが、人間の意識や生活において必要とする意味づけられた設えをリダンダンスという概念で論じていたのは、建築家芦原義信の著書「街並みの美学」であった。  
 ところで私は、名古屋に赴任してから、喫茶店で学生から文化の話を聞いた記憶がない。名古屋は喫茶店が数多くあるのに、不思議だ!!(笑)
 
EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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Landscape35. 山陽路・竹原2

2008年02月27日 | field work
 伝統的建造物群保存地区竹原を歩いていると、路地奥の高台がアイストップとなり、その山腹に複数の寺院が見え隠れする。その一つ、西芳寺に上がってみた。堅固な石垣を土台とする朱塗りの西芳寺普明閣は、方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台作りで、京都の清水寺を模して建立されたと高札には書かれてあった。空中にせり出すようにつくられた舞台からは、眼下に広がる竹原の街並や山々、そして瀬戸内海が見える。この舞台は、しばしば観光ポスターで登場してきた絶景名所である。それ故このブログでは割愛した。私が興味を持ったのは、普明閣へアブローチする上り坂と、振り返ったときに眺めた足下の風景であった。
 アブローチの路を上がってゆくと、土壁の塀が眼下の風景を遮り、空が一面に広がり、普明閣があたかも天空にあるかのように思われる設えである。この風景をみたとき、私の先生の一人であり、日本でも5指にはいるランドスケープ・アーキテクト故池原謙一郎[注]がデザインした、フィリピン、カラリアにある「日本人戦没者霊園」の道のデザインを思い出した。空に向かってまっすぐ続く1本の道は、日本の方角に向かって設えられている。日本に帰りたいとする霊園に眠る戦没者の心を、ランドスケープとして表現した作品である。私にとっては、人々の意識がデザインとして昇華され、大地に表現されてゆくことを教えられた作品でもある。
 もう一つは、この路から見下ろした風景であった。石段やお堂の周りの空き地で、子供達が遊んでいる姿が、今にでも見えてきそうなたたずまいが感じられた。遠くから賑やかな子供達の声も聞こえそうだった。それは私が子供頃の風景を重ね合わせているのかもしれない。山陽路の風景は、どこか懐かしい昔の時間を思い起こさせてくれた。
 今日一日、広国大の先生の車で、朝呉を発ち、木之江、御手洗、竹原と案内してもらった。最後の〆は、当然の事ながら、JR東広島駅周辺の店で広島焼きを肴にして杯を傾けた。その後広国大の先生に別れを告げ、最終の新幹線に飛び乗った。横浜を発ってから三日目の宿は倉敷であった。
 

注:享年74歳、元筑波大学教授、主な作品としては、東京代々木公園、東京隅田川桜橋、入谷南公園など多数ある。また日本のサッカーの草分けサポーターとして1962年日本サッカー狂会設立、以後ジャパンサッカー創生期から、サッカーを応援し続けた。応援の手拍子「ニッポン、チャ、 チャ、 チャ」は池原先生の創作によるもの。
 
EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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Landscape34. 山陽路・竹原1

2008年02月26日 | field work
 竹原市は、食料品、木製品や家具、窯業、一般機械などの製造を行っている工業都市である。そんな都市の一角に国重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)の竹原がある。竹原は、中世末期頃より港をひかえた集落として立地していたが、江戸中期塩田開発により町は発展し、財をなし、それが近世の様式を持った町並みを形成してきた。こうした商家の建築様式は、二階建て・切妻造・本瓦葺・大壁造に加え、妻入りと平入りの建物が混在し、また全面には出格子、平格子、たて格子、横格子と多彩で変化のある町並みが、本通り沿いに形成されている。
 裏通りにゆくと、生活感が漂っている。竹原をはじめ多くの伝建地区は、実はこの裏通りの生活道路によって伝建地区が成立している。表通りは観光客の視線にさらされる上、歴史遺産である民家群は、例え寒く住みづらくても、往事の建築様式を維持しなければならないので、修復には大きな制約が課せられる。そのことは居住者にとてった大変暮らしにくい要素となる。そこで、表通りに景観上の顔を向け、歴史的建築様式を維持しながら、裏通りに向かってプライベートな空間を設え日々の暮らしを営んでいる。このように表通りを挟むように裏を生活道路とすることで、歴史資産維持と日々の生活とを両立させているのである。
 たがともすれば、よく手入れされた生活感のない表通りは、歴史テーマパークの書き割りのようでもあり、白々しく退屈な風景でもある。そこで路地を曲がり生活感漂う風景を探し歩いた。上段の写真は、西芳寺に登ってゆく階段から撮影した。春の早い夕暮れ時の、とても素晴らしい路地からの風景だった。春は卒業や就職など、人生の節目の時期であり別れが多い。山陽路の老年期の緩い地形と弱い春の光には、そんな寂しさがたっぷり漂っている。そんな中を私達は、竹原の町を見下ろせる西芳寺に上がっていった。
 
EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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Landscape33. 山陽路・御手洗3

2008年02月25日 | field work
 一昨日、2月23日土曜日の午後から、日本の天候は荒れに荒れた。土曜日の横濱は、空一面が竜巻の時ような黄土色の砂塵に覆われ、景色も霞み突風が吹き荒れる春一番だった。首都圏の電車は軒並みストップしていたが、幸いにも基幹ロードである新幹線は機能していた。そんな最中を名古屋に出向き、雑用を片付け、京都の嵐山で雪の中を徘徊し、日曜日の夕刻名古屋に戻り、学生達の作品展[注]をのぞいた頃には、一連の嵐も納まり、冬の空に戻っていた。調度週末の嵐の最中を西へ東へと動いていた。だが日曜夜の名古屋にいても、いきつけの店は休みだったので、常宿でなすすべもなく夜の9時に寝てしまった。早く寝たのが災いし夜半3時頃には起きてしまった。私は、できるだけ日曜夜の退屈な名古屋には、居ないようにしているが、それを余儀なくされたのは、翌日に入試の監督があったからである。変に頭が醒めきった状態で入試監督を果たし、先ほど横濱に戻った。僅か約48時間あまりで、随分いろんな天候と気分の変化を味わった。
 そんな具合に時間は、不思議な感覚をもっていて、何事も起きず、同じような毎日の繰り返しであれば、それが一週間でも、あっというまに過ぎ去ってしまう。だが、この週末のように、僅か48時間程度であっても、様々なことが起きると大変時間の長さを感じることがある。個人的には、後者の密度の濃さの方が好きである。ただし、名古屋の退屈な日曜日だけはいただけないが。
 さて山陽路に話を戻そう。御手洗の町を歩いていたら、時計屋があった。店の中に入って驚いた。一体いつからこの時計屋の空間は、時間が止まっているのだろうと思われるような雰囲気が色濃く漂っていた。おそらくもう何十年も同じ事を繰り替えしつつ、時間が停まったままなのだろう。壁に額装してあった発色の良いポスターに目がとまった。この店の主の説明によれば、「タバン」というのは、戦前スイスで懐中時計を制作していたメーカーだそうである。スイスの優れた技術で印刷されたポスターなので数十年の時間を経ても、色が変わらないということであった。
 人間は、限られた時間の中で多くの変化を経験しようと走り回り、技術は変わることなく、最良の状態で永遠に残ろうと欲する。人間の思惑と、技術の思惑とが、すれ違っているように思われた風景である。
 

作品展には、学生の他にOBらの作品も展示してあった。名前をみながら、懐かしい1期生の顔を思い出した。彼らの、作品からは卒業後の活躍が伺え、面白かった。
 
EOS Kiss Digital,SIGUMA F3.5-5.6/18-125mm
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Landscape32. 山陽路・御手洗2.

2008年02月23日 | field work
 御手洗には、広島藩公認の4軒の茶屋が置かれた。そこでは芝居小屋などの遊興娯楽とともに、潮待ち風待ちをする廻船の船乗り相手に、船後家という商売が行われていた。後家と称される遊女達は、オチョロ舟と呼ばれた小舟で、廻船に乗りつけ、 船乗り達の衣服の洗濯やつくろいに始まり、ねぎらいや慰安といったように、主婦の全てのつとめを代行していたのである。   
 上の写真右側にある入母屋漆喰塗りの民家が、当時100人の遊女を抱えていたとされる「若胡子屋」(わかえびすや)であり、往事の資料の一部が展示されている。展示のなかに、娘を茶屋へ身売りする際、 給料3両2歩(米10俵程度)を茶屋が親に前払し、親・本人・保証人・遊郭との間で「茶立奉公人請状」を取り交わした。その際の契約内容を以下に引用する[注2]。
 
1今後は親や親戚などが、奉公の妨げになるようなことを一切しない。
2年季中(奉公期間)は、茶屋が夏・冬に一着ずつ着物を支給する。
3本人が逃亡した場合には、親などが捜し出して茶屋へ連れ戻す。
4勤務状態が悪くて年季途中で他所へ売り払われても、何ら文句は言わない。
5身請けされたときの身代金は、茶屋が全額受け取り、親元への配分は一切ない。
6ずる休みや病気で休んだ場合、または茶屋へ借金がある場合、年季が延長される。
7年季途中に死んだ場合、茶屋の作法にゆだねる。
8本人に関わる裁判沙汰について、茶屋へ一切迷惑を掛けない。
 
 身請け・身売りの背景には、当時の身分格差や商人と農民との経済格差があったのだろう。実際この街を歩くと、どこかしらから漂ってくる息苦しさは、かっての花街に身売りされた遊女たちのかすかな息づかいなのか。
 翻って現代社会をみれば、遊女を抱える茶屋自体はなくなった。しかし、身の回りの世話=ホームヘルパー、慰安=ソープランドといった構図を描くと、分業化されただけのように思われる。それに中流家庭が増えたとはいえ、他方で家計収入格差は皆無ではない。現在の格差社会が、今後進展してゆくと、身売り・身請け話もあながち歴史上の出来事とは思われない。現に未開発国では、そうした行為が行われているのも事実である。都市や町の栄華には人間の生き様である、欲望、醜さ、そして格差が、これからも染みこんでゆくのである。
 

注1.遊女の写真は県指定史跡若胡子屋の展示を複写した。
注2. 茶立奉公人請状 は、同上の現代文に書き直した展示を複写した。
 
EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan
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Landscape31. 山陽路・御手洗1.

2008年02月22日 | field work
 フェリーが大崎下島に近づくと、瀬戸内海に突出した築堤上に伝統的建造物群保存地区がある呉市豊町御手洗が見えてくる。
 町史によれば1666年、広島藩より町屋敷割[注1]が許され、最初の集落が形成される。江戸時代の瀬戸内海航路の発達により、風や潮の影響を受けることが少ないこの地形に着目し、船舶の風待ち、潮待ちのための中継港として利用された。 それだけに人の往来と、米、豆類、綿、茶、雑貨等の物流交易が盛んとなり、廻船への食料補給や、船員慰安娯楽のために茶屋が公認されるなど、交易と慰安の港町として藩の庇護を受け栄えてきたことが記されている。現代では、シンガポールや香港のようなハブポートだろう。
 実際にこの街を歩くと、民家は、本瓦葺で切妻屋根が多く、一部には入母屋の屋根もみられる。白漆喰塗り込めの壁や虫籠窓の建具が見られ、平入形式が多い。通りの幅員は概ね3m以下であり、そんな狭隘な空間が迷路のように形成されているところが面白い。
 明治以降に物流経路が海路から陸路に変わるとともに、御手洗の役割は終わる。現代において御手洗が再び登場してくるのは、娼婦稼業が原因で盲目となった少女遊女「りん」が地べたを這うようにといったシーンが記憶に残る、映画「大地の子守歌」[注2]だったか・・・。この映画でデビューし、軒並み各賞をさらっていった主演女優原田美枝子は、都立工芸高校に入学しており、デザイナーを目指していたのだろうと推測している。あの迫力ある演技も、鋭い感性の所以なのだろう。
 この映画の舞台となった御手洗は、港町そしてかっての風俗の名残が特徴となってくる。この街に対する現代人の関心や理解も、その辺りが主となるだろう。港町と風俗、それは世界の何処にでもみられる構図である。そんな構図に共通する原理を、御手洗でもみいだせる。それは、人間の生き様或いは所業のなせる技の蓄積が、この街をつくり上げてきたことである。
 

注1.農地を屋敷地に用途変更することで、今で言う農地転用制度。農地と宅地とでは、土地に対する固定資産税の税率が異なるので、今でも行政に対する届けが事前に必要であり、農業委員会の審査がある。
注2.増村保造監督、原田美枝子主演、1976年。この年新人女優原田美枝子の受賞歴は、ブルーリボン賞/新人賞。1976年度キネマ旬報/主演女優賞、製作者協会新人賞、報知映画賞/新人賞、ゴールデンアロー賞/最優秀新人賞。
 
EOS Kiss Digital,SIGUMA F3.5-5.6/18-125mm
EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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Landscape30. 山陽路・木江町木造5階建て

2008年02月21日 | field work
 日本の風景において、国際的な視点から美的価値があり、誰しもが納得できる固有の特徴が見られるのは、奈良・京都と北アルプスの涸沢周辺地域だけです。奈良・京都は1300年の時系列的蓄積に秀でており、涸沢以上は、標高3,000mと地理的特異性で秀でています。これらは、日本の他地域では見られない特徴を持った風景であることは明白です。従って日本を知りたければ、この二つを見ればよい。しかし、そんな通事的且つ共時的美学的見地を留保し、そのほかの視点から優れた風景に接することができる地域は、実は日本には大変数多い。それも先ずもって観光ガイドでは紹介されない地域ばかりです。
 そこで、今日は大崎上島にある木江町という普通の風景を紹介したい。瀬戸内海は、古くから海上交通が開けていた地域であることに関しては歴史を参照されたいが、それだけにつとに有名な水上水軍を持ち出すまでもなく、随所に歴史性を感じる地域が多々あります。ここにあげた木造5階建ての油屋がある木江町の集落もそんな一つだろう。社会から忘れられたような地域に、木造5階建ての必然性が、いつ、どんな理由であったのだろうかと類推する事は大変楽しいことです。そうした史実の検索は、今後の暇なときの課題にしておきましょう。
 ここでは、単純に木造5階建ての妙を、感じ取るだけにして、どこか往事の華やかさが残る木江町を徘徊しつつ、 平野部の少ない狭隘な瀬戸内の島々だからこそ、建築の高層化には熱心だったのだなと、類推するのに留め、次は御手洗に行こうと思います。
 
EOS Kiss Digital,SIGUMA F3.5-5.6/18-125mm
EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム
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 Landscape29. 山陽路・工場島

2008年02月21日 | field work
 今日は、広島国際大学の先生が、車で視察に連れて行ってくれる。竹原港からフェリーに乗ると右側に東邦亜鉛契島精錬所が見えてくる。デッキからの視覚では、いくつもの島が重なっているので、島とは気づかないが、地図でみると四方を海で囲まれたれっきとした島である。島全体が精錬所であり、これを工場島と呼んでおく。島全体が生産工場街で覆われているといった類似空間では、産業遺産の長崎県軍艦島がある。
 契島精錬所は、現在も稼働しており、竹原港からフェリーが頻繁に出ている。東邦亜鉛といえば、山麓から頂上にかけて山の斜面全体を工場とするなど大変迫力ある風景が見られる群馬県安中精錬所がある。これらのメカニカルな工場建築を見ていると、様々なデザイン・インスピレーションが湧くので、個人的には大変好きな風景である。
 地域開発のプロジェクトに関わっていると、最初に土地ありきというケースが多い。その理由は、かって自社用地として購入しておいたが、活用方法がないので放置していたといった場合が多い。
 瀬戸内海には約3,000の島がある。常々私は、そんな小さな1つの島全体を開発するといった地域デザインをしてみたいと思う。島は、デザインをしてゆく上で、空間的な完結性をもっている。それ故に発生してくる狭隘さには、魅力的な路地空間等が、また高低差のある地形には、多彩な変化ある風景を作り出すことができる。これらを複合化すれば、地中海の島嶼のように、島毎に個性と魅力ある大変素晴らしいリゾート環境が形成できる。
 私は、今でも島を対象とする新規プロジェクトのスケッチをしており、こんな風にしたいというイメージは、数多くできあがっているのだが、実現には至らない。現状では、せいぜいセカンドライフのバーチャル・アイランドでシミュレーションしたのに留まっている。
 
EOS Kiss Digital
SIGUMA F3.5-5.6/18-125mm



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Landscape28. 山陽路・呉

2008年02月20日 | field work
Landscape28. 山陽路・呉
2008年2月20日水曜日
 
 名古屋の大学に赴任してから、遠出をする機会が多くなった。といっても時前で大半の運賃等を支払い、横浜から名古屋へ毎週通いつつ、大学の仕事をしながら、ここを足場として遠出している。遠出といっても都市やデザインの視察や調査、講義資料収集、共同研究等が目的であり、そのための出張書類も提出しており、私のような研究者にとっては明らかな業務なのである。業務であれば民間企業では、これに関わる費用は全額企業負担だから、本来ならば遠出も大学負担なのだが、そんな予算は大学にはない。それでも研究上の意味があれば時前で出かけてゆくのであるから、大学の研究者というのはおかしな習性だと思う。そういう習性があるからこそ大学の研究者たり得ているのかも知れない。今回も時前研究というスタンスで、その先の日本を訪ねた。そんなある週の遠出の一つを、当時の手帳をもとに10日ほどの業務行程を再現してみた。
 
 春、2005年3月中旬、乗車券は横浜市内—東広島往復、有効期限は14日間。JR乗車券は一定距離以上になると、経路が重複しないというのであれば途中下車ができる。また601km以上の距離を乗ると往復割引が適用され、有効日数が倍に延長される。そうした切符の特徴を利用したほうが、金額も安いし手間も省ける。
 
16日(水)
自宅発6時10分--新横浜発6時53分--(ひかり361)--名古屋着8時22分途中下車、9時大学着、午前中事務仕事に追われる、午後原稿執筆、15時30分法人化企画部会で本部に行く、夜解放される、名古屋泊。
 
17日(木)
常宿6時発--名古屋発6時40分発--(のぞみ39岡山乗換&こだま633)--東広島9時28分着--(車)--広島国際大学で終日共同研究の打合せ、呉市泊
 
18日(金)
呉市内--(車)--竹原港--(フェリー)--大崎下島白水港--(車)--木の江集落--(車)--白水港--(フェリー)--大長港--(徒歩)--御手洗伝建地区--大長港--(フェリー)--白水港乗換--(フェリー)--竹原港--(車)--竹原伝建地区--(車)--JR東広島駅21時2分発--(こだま684)--新倉敷21時52分着--(JR山陽線)--JR倉敷駅、倉敷泊
 
19日(土)
午前中倉敷伝建地区---JR倉敷駅12:16発--(伯備線)--備中高梁13:16着--(車)--吹屋伝建地区--(徒歩)--広兼邸、吹屋泊
 
20日(日)
吹屋--徒歩1時間半--西江邸--(車)--成和町美術館--(バス)--高梁市美観地区--(伯備線)--JR岡山--(のぞみ)---京都、京都泊
 
21日(月・祭日)
11:30研究室後輩の結婚式で二条の全日空ホテルへ---その後京都徘徊、京都泊
 
22日(火)
京都発8時39分--(こだま530)--名古屋着9時31分--大学着10時、午前中事務処理に追われる、11時00分臨時教授会、11時30分学内委員会、12時送別兼昼食会、15時00分学内委員会、16時30分教授会、21時00分常宿に戻る。名古屋泊。
 
23日(水)
朝から大学研究室で専ら原稿作成と事務処理に終日忙殺、18時30分研究室追い出しコンパ、23時00分庄内通の店で同級生の俳人達と懇談、夜更けの1時過ぎに常宿に戻る。名古屋泊
 
24日(木)
朝から原稿執筆と事務処理で忙殺される、13時00分広工大竹下来所、14時卒業式、15時00分安楽打合せ、名古屋発17時57分(ひかり380)横浜着19時26分--20時調度自宅に戻る。
 
 初日は、大学の仕事故名古屋泊まりだった。2日目、朝一番の新幹線で名古屋を発ち呉に向かった。専ら広島国際大学で研究上の打合せだったのだが、夕方外に出た際に、垣間見た呉の普通の風景が、印象に残った。遠くに見える雲に、まだ春になりきれない山陰の冷たい風の気配を感じた。
 春のある週の遠出の際に垣間見た風景を題材としながら、ランドスケープ・デザイン等について述べてゆく予定。
 
EOS Kiss Digital
SIGUMA F3.5-5.6/18-125mm
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Landscape27. デザインサーベイ,引接寺

2008年02月08日 | Kyoto city
 節分のデザインサーベイ、最後は引接寺。通例「千本ゑんま堂」と呼ばれている。
 千本ゑんま堂 は、文字通り閻魔様をお祀りしている。この寺の縁起によれば、平安時代の文人貴族「小野篁(おののたかむら)」によって建立開基されたとしている。 小野篁は、法理、文才に秀で当時の高級官僚として出世もしたが、天皇批判で隠岐に流されたり、異母妹との悲恋もあったりと、話題の多かった人物である。後に「夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をした」とか、「閻魔大王より先祖をこの夜に迎える供養法(今のお盆行事)を授かった」など伝説も生み出した。 小野篁 が地獄と往来したとされる井戸は、風変わりな六道参りがある六道珍皇寺にある。 千本、葬送地、卒塔婆、小野篁 、閻魔大王、地獄絵図、盂蘭盆会、六道参り・・・と言葉を並べると魔界のメッカを訪ねているようである。昔の地名をあてがうと、千本ゑんま堂= 蓮台野 、六道珍皇寺= 鳥部野、念仏寺= 化野という具合に 都の葬送地に立地している。この辺りの地名である千本とは、数多くの石仏や卒塔婆の意味だそうである。
 都の葬送地にまつわる寺が、この世・あの世という概念、お盆の行事、地獄絵図といった、生活の節目となる行事、風習、作法を形成してきたところは、興味深い。 というのもこれとは対照的に行事、風習、作法等が希薄な環境の典型が、戦後整備されてきた大規模ニュータウン、最近の都心超高層マンション群である。生活技術を集積させた現代の高密度居住空間には、私達の死後、行くべき先の設えや意味付けされた空間が欠落している。それこそが古い街に存在し、新しい街には見られない概念や要素なのである。
 
撮影日2008年2月3日
FUJI S5pro,
AF Nikkor F2.8/20-35mm D
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Landscape26. デザインサーベイ,石像寺

2008年02月07日 | Kyoto city
 千本釈迦堂の次は、石像寺「釘抜き地蔵」を訪ねた。節分行事が行われていたせいか、境内はとても賑わっている。 
 私事だが、年末以来の原稿に忙殺されてきたので、バテている。先週は徹夜執筆を続けたのが、追い打ちをかけたようだ。過労の兆しがあると扁桃腺炎になることは昔からの習性だ。実はこれによって過労死を免れている。過労になると、扁桃腺が腫れ高熱が出て仕事どころではなくなる。そうなると抗生物質を飲んで寝ているほかない。それにしても現代は薬が良く効く。
 薬がない時代はどうしたかというと、御利益寺詣でしかない。東京では巣鴨の「とげぬき地蔵」があり、京都には「針抜き地蔵」がある。病の願掛け参拝をした後、体の痛みが治ると、実物の五寸釘と釘抜きの絵馬を奉納する習わしが続いている。絵馬は堂周囲の壁面に盛大に掛けられており、なかなか見事な風景となっている。痛いところを、釘抜きで抜こうと考えたかどうかはわからないが、発想がなんともユニークであり、ジョークかとさえ思われる。
 地蔵堂というのは、寺院に比べて空間規模が小さいところが圧倒的に多い。その狭隘な空間に、絵馬だのお札だの、或いは多数の神々を祭り、線香の煙が漂い、といった具合にさらに狭隘さの度を増して密集してくる。実はこれがなかなか、居心地のよい空間になっているのである。狭隘さの魅力を訪ねるのであれば、地蔵堂にゆくと良い。
 迂闊なことに私は、釘抜き地蔵にお参りはしたが、願掛けを忘れた。そんなわけで、体調日増しに悪くなる。ああ後悔!
 
撮影日2008年2月3日
FUJI S5pro,
AF Nikkor F2.8/20-35mm D
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Landscape25. デザインサーベイ,千本釈迦堂おかめ節分

2008年02月06日 | Kyoto city
 節分から戻ると仕事山積みであることと、寒さが体に応えたかあまりブログを書く元気がない。
 北野天満宮の追儺式の後で、時間的にちょうどよいのが千本釈迦堂の「おかめ節分」である。おかめ信仰というものが、どういうものだったかは、調べそびれたが、境内にはおかめの像が建てられ、参拝グッズも「おかめ」ずくしである。
 おかめ節分は、法要に続き 茂山千作社中による鬼追いの儀の狂言が行われた。暴れ回る鬼も最後に「おかめ」に諭されて、改心するという簡単なストーリーなのだが、鬼の面のユニークさや優れた伝統のデザイン性が伺える衣装、可愛い子鬼や、外国人が登場するなど、登場人物は多彩である。舞台で繰り広げられる狂言は、即興的な面白さがあってとても面白い。短時間であったが、こんな狂言かもあるんだと再認識させられた。
 近年街づくりの場面で行われている集客や地域振興を目的とする催事イベントなどをみていると、ともすれば営利主義が前面に現れたり、企画の陳腐化やステレオタイプ化された傾向を感じざるを得ない。一連の節分行事を観察していると、街づくりの場面において、こうした伝統行事から学ぶべき要素は大変多い。
 最後に豆をまいて狭い境内は大いに賑わう。この狂言が演じられた舞台である本堂は、1227年に建立され、現在でも創建時の姿だといわれている。因みにこの本堂は国宝である。往事の伽藍配置が残っていないので、創建時の全容はわからないが、狭い境内にあって、本堂が絵になるように際だっている。本堂の軒高が高く、堂々とした建築的存在感を感じさせてくれる。そうした空間上のスケール感も、こうした催事の演目をひきたたせているように思われた。未調査であるが、寺社建築の軒高と江戸時代頃の舞台建築のプロセニアムの高さとは、近似値なのかなと思われた。
 
撮影日2008年2月3日
FUJI S5pro,
AF Nikkor F2.8/80-200mmD
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Landscape24. デザインサーベイ,北野天満宮追儺式

2008年02月05日 | Kyoto city
 デザインサーベイを目的とし、今年は京都西陣の節分を訪ね歩いた。節分は、旧暦の正月に該当する立春の前日(旧年の終りの日=大晦日)にあたり、この日行われる「追儺」(「鬼やらい」)の儀式は、向う一年の災厄を祓い病いを除く祈りがこめられた行事である。
 京都では節分の日に、四方詣り(しほうまいり)を行い、無病息災、招福を願う習慣がある。 四方というのは、東洋の12方位のことであり、乾(いぬい=北西)、 艮(うしとら=北東) 、坤(ひつじさる=南西)、 辰巳(たつみ=南東)を言い、鬼が逃げ込む隅とされる。それだけ手厚く祀らなければならない場所である。この四方に応じて、北野天満宮・吉田神社・壬生寺・八坂神社の四社寺が立てられており、悪鬼を防ぎ、参詣者の魔よけや招福としている。乾の隅の守りが北野天満宮である。
 北野天満宮の追儺式は、茂山千五郎社中による北野追儺狂言、西陣の花街である上七軒歌舞会による日本舞踊の奉納、次いで豆まきが行われた。
 狂言師達が梅を担いで登場してきたのは、いかにも北野天満宮らしい。今年の境内の梅は、少し咲き出していた。梅は年が明けて最初に咲く花である。だからこそ、お正月のおせち料理に、紅白の梅が描かれているのであろう。
 このように考えてくると、旧暦はとてもよく季節と呼応している。私達の生活も、そろそろ旧暦にもどしてはどうだろうかと思われる。そんなわけで私は、新暦大晦日と正月はもっぱら仕事をしていた。旧暦大晦日である節分は、調度週末であることも幸いし、寒い冬の京都の節分行事を徘徊した。
 そういえば、私の大学の卒業研究や修士論文の提出日が1月31日となっている。これを果たせばタイミング良く旧正月を迎えることができ、大いに旧暦正月休みを楽しめるではないか。偶然とはいえ面白い学事歴だとおもった。
 節分があけ、2月4日は立春である。冬が終わり春がやってくる。まだ気温は低いが、光に透明感ある明るさが感じられる。
 
撮影日2008年2月3日
FUJI S5pro,
AF Nikkor F2.8/80-200mmD
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