Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

番外編346. 横浜

2018年04月30日 | Yokohama city

 街論の続きは、横浜にしよう。棲めばハマッ子という説に従えば、20年住んだから立派にハマッ子。

 横浜の街の中には幾つかの丘があり、ギリシャのアテネと似ていると指摘した話もきいたが、実際に坂道の多い街だ。そんな街中を京浜急行や東急東横線が高架で通り抜けている。その高架下がディープな空間だったりする。運河沿いを歩けば宮川町の都橋商店街などという変わった空間もある。

 私がデッサンの研究所に通ったのも横浜市東神奈川だった。東京に美術研究所がたくさんあるのに、何故か横浜でデッサンの基礎を勉強し、日ノ出町にある山手学院という予備校に通ったぐらいだから横浜の街とは縁がある。

 東神奈川の美術研究所から5分ほど歩いたところに古い文房具屋がある。画材のケント紙をいつも調達していた。それも若く地味なお姉ちゃんに、いつも大きなサイズをカルトンの大きさにカットしてもらっていた。だから顔を覚えられていた。絶対あれは、お互いに気があったから、話し込んでお茶に誘えばよかったか。そんな余裕もないぐらいの律儀な浪人生だったのだろう。手を上げそびれて通り過ぎてゆく、そんな話は誰にでもあるだろう。

 さてこの画像が、その浪人時代の文房具屋だったかどうかはわからない。でもこんな感じだったのだろう。歩いた街の風景が記憶の引き出しをあけてくれる。

 話題は変わるが昨日も、少しだけ京都の街歩きをして猛烈な運動不足の解消に努める。昨年は七条のマッサージ屋に通うために途中の街を撮影していった。そしてそのデータを誤って消去し、ブログにアップした画像が僅かにのこるばかり。同じ画像をとる気分でもなく、今年は二条駅西の現像所へゆく道すがらを撮影している。不思議と同じ道を歩くことがないが、京都も狭いと感じている。さてダイビングに行くには、もう少し骨折の回復が必要だし、まだまだ我慢の日々が続く。

 

2000年横浜市、LEICA M4-P、Elmarit28mm/F2.8,T-MAX

ブログトップ画面 https://blog.goo.ne.jp/doctormic

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PEN LIFE1528. 疑似的な混沌の風景

2018年04月29日 | field work

 この画像をみて混沌と思うだろうか?。

 今時つかわない電話ボックスやボラートなどがあるが、背後の飲み屋は心斎橋筋にもあり、ラーメン屋も含めてチェーン店だ。だから店舗のファサードは同じであり、どこでも同じ風景を展開している。そして駅前にあるはずの自転車がない。

 この画像では登場しないが、この地域の人々の存在を示すのが放置自転車だった。それはこの土地の生活つまりは属地的な個人の存在を示す風景だった。そうした個人の属性を示す風景とチェーン店にみられる組織的或いは公的な風景とが混ざり合って混沌とした都市の風景を形成してきた。だから以前はこの駅前も、そんな自転車であふれかえっていたのかもしれないし、ディープという言葉もあったのだろう。

 今、そんな個人の存在を示す風景がなくなってきた。そうなると薄汚れているとはいえ組織的公的風景ばかりであり駅前が整然としている。このブログで紹介してきた20世紀末の都市の混沌とした風景とは随分違うようだ。

 こうした個人を示唆する風景が消えて、組織的公的な風景ばかりでは混沌ではなく、単に撮影アングルで疑似的な混沌の風景を切り取っているのに過ぎない。こうした一見混沌のように見えて実は個人の風景が喪失している都市の風景が最近では多くなってきた。こうした現象を疑似的な混沌の風景と呼んでおこう。

 そんな風に考えて行くと最近の都市は面白みがない。次なる被写体を探すべきなのだろう。

 

2018年大阪市淀川区十三駅前

OLYMPUS OM-D E-M1Mark2、M.ZUIKO DG 17mm/F1.8

ISO800、露出補正-0.3、f/11,1/60

 
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PEN LIFE1527.  十三の街

2018年04月28日 | field work

 足指骨折も新しい骨が形成されて徐々に回復の兆し。

 そこで昨日は少しだけ大阪市十三の街を歩いてみた。ここなら混沌としているはずだと予想した。しかしマンション群に囲まれた昼間の街は意外にも整然としており、ディープという言葉は見当たらない。歩いている人間の人相が少しディープなのかなと思われるぐらいだ。治りかけの足に無理はできないので、そこそこの徘徊にとどめた。

 あとはGoogleで見たが、数が少なくなったと思われるラブホは隣が単身用のマンションだったり修学旅行の高校生達が歩いていたり、といった具合でなんだこりゃ。

 ひょっとして混沌とした街というのは20世紀最後の都市の姿だったのかもしれない。私が年齢を重ねて混沌というテーマに関心が無くなったのかもしれないし、街自体が整然とされてきて、混沌とした被写体がなくなってきたのかもしれない。このブログで取り上げた東京周辺の街の画像が混沌の見納めだったのだろうか。

 そんなことをつらつら考えながら、やまもとでスジネギお好み焼きを食べていた。味は整っているが私には少し淡泊な味だった。これは老人達の味覚に向いているな。

 ふと思ったのは、B級グルメほどWEBや他人の評価が全くあてにならない。つまり、私の味覚に合わなければ旨いという評価にはならない。そんな個人の味覚次第で旨い店が違ってくる。だから個人に合う味覚を求めてみんな徘徊するんだろう。そこがB級グルメたる所以。そんな私好みのお好み焼き屋を探しあるくのも大阪徘徊の動機付けなんだろう。

 

2018年大阪市淀川区十三

OLYMPUS OM-D E-M1Mark2、M.ZUIKO DG 17mm/F1.8

ISO400、露出補正-0.3、f/11,1/60

 

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PAN LIFE1526. α6000にビゾフレックス

2018年04月27日 | Photographic Equipment

 ライツマニアではないですがと、謙遜していてもレンズ50本も所有しているなんて記述を読むと、それは謙遜ではなく、やはり自慢だろう。そのあたりがライツマニアの生きがいであり、いやらしさだ。

 私の場合、精々4本のレンズと1台のボディぐらいしかないから自慢するほどではないが、デジタル機材を手にすると、ライツ機材が装着可能なので組み合わせてみた。

 α6000のボディにライツ・ビゾフレックス3型にヘクトール135/F4.5レンズを付けてみた。LEITZ機材に付けたビゾフレックスのボディは手動でレバーを下げると、ミラーが跳ね上がり、そのままシュッターを押すことができる。手動の一眼レフだ。ミラーレスの機材に、あえてミラーを付ける理由は希薄だが、α6000はすべて手動になると焦点合わせがピーキングか拡大表示なので見にくいわけだ。そこで被写体をダイレクトに見つつ、焦点合わせができないかなと考えた。

 結論はこのままの状態では使えない。ただしレバー先端の位置がシャッターの上に来るので、多分シャツター連動ネジでも付ければ使えそうだということがわかる。自分でつくるか中古カメラ屋に製品があるかもしれない。もちろんレンズをマウントアダプターを介して直接α6000に付けられるが。

 それでも、この面倒なシステムは格好が良い。写りはSONYプログラムだから、綺麗に補正してしまうだろう。でっ、これ持って街にでるなんざあ、周囲から珍奇なオッサンとみられるのがおちかな。レンズは200mm相当になり、京都市内では、精々50mm標準レンズか35mmのレンズでことたりるので被写体がない。

 最近フィルム機材などを使いたいと思うのも、Instagramなどにみられる輪郭がシャープで発色の良いデジタル画像に飽きているのかもしれない。フィルムも表現方法の一つなので、存在してくれた方が表現の可能性が広がってよいと思われる。何でもデジタルばかりでシャープで鮮明な画像ばかりみさせられては、こちらは飽きるわけ。

 そんなことを考えていたら、コロタイプの写真展が清水寺成就院で開催されている。コロタイプも古い写真製版技法だが、いまでも京都市内の便利堂が技術を保存しており、文化財の保存に用いられていると聞く。かって法隆寺金堂の障壁画もコロタイプでプリントされた画像を元に復元されたという実績がある方法だ。

 

OLUMPUS OM-D E-M1Mark2,LEICA DG MACRO-ELMARIT45mm,F/2.8

ISO4000,露出補正-0.3,f/11,1/100

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ZEISSの空気14. 企業哲学

2018年04月26日 | Kyoto city

 SONYα6000も、もう少し画素数が低ければ、もっと綺麗な画像になったと思うのだが、このあたりが撮影素子で他をリードしているSONYの自信の表れか。

 ならば、1220万画素のSONYα7sなどは、SONYの一眼レフの中では、一番安くコストパフォーマンスが一番高い。そう思っていたら後継機種を発売して、性能変わらず価格が10万円近く上がったではないですか。やはり一番高性能だということはSONYがわかっているので価格を上げましたね。

 ここで一番高性能と書いたのは、SONYのフルサイズ2420万画素とか4240万画素などの機種と比較してという意味です。というのもユーザーは時として大きな勘違いをしているからです。それは高画素=高画質ではないからです。高画素になればなるほど撮影素子間の間隔も狭くミラーレンズも小さくなり、その分光情報を読み取る性能が落ちます。

 現在のNikonD5やCanonEOS1DXMark2などのプロユースのフルサイズ機種をみれば、常に2000万画素台をkeepしています。私のEOS1DsMark3がEOS1シリーズの中で画素数が一番高かったのですが、それでも2100万画素台どまりです。そのあたりがフルサイズで光情報を適切に読みとれる性能なのです。だからAPSサイズならば1200万画素でよいのでは。

 スマホの例をあげましょう。スマホには2000万画素撮影素子を積んで高画質であるかのような微妙なプロモーションをしています。スマホはデジタル一眼レフよりはさらに小さい1/3.2型COMOSですが、そこへ2000万画素にしても画質は向上しません。性能が上がったようにプロモーションされているだけです。このあたりが利益追求型企業のいやらしいところです。

 他方でAppleのiPhone7は、SONYの撮影素子を使いながら1200万画素です。低く抑えた方が当然画質は良くなります。その方がユーザーの期待に応えられます。Appleはそのことをよく知っていて、他のスマホよりも画素数を低く抑えています。そうした適切なプロダクトづくりを心がけているわけで、そこにAppleの哲学があります。

 今、技術立国日本とよく言いますが、日本の企業は、利益追求とプロモーションの技法はあるけど、企業哲学が欠落しているのではないか。やはりAppleが形成してきた企業哲学が、これからの日本企業にも欲しいですね。私がMacを使い続けているのも、そうした理由からです。そこには、Appleの考え方とアメリカ的良心を感じさせてくれるからです。

 もう一つ日本企業の悪い例をあげましよう。20世紀後半に工場の煙突から出る有害物質を削減せよと法律で基準値を定めました。そこで企業は、設備を変えたかというとそれはコスト高になるのでしなかった。やったことは工場の煙突を高くしただけ。それによって測定点での値は法律の基準値以下になりますが、有害物質の地域への排出量は変わりませんし、むしろひろい範囲に廃棄されるようになったわけです。工場が廃棄物削減に着手したのは設備更新の時期でしたから、ずっと後の話です。

 そして最近でも、製鉄素材の試験値が偽造されていたとする事件をはじめ、素材企業のデータ偽造事件が続発しています。それがこれまでの日本企業や日本人の体質だったのでしょう。知らなければ、そのまま通り過ぎようという体質だった。やはりそこには、企業哲学のない企業が多すぎた。それが今明るみになったということです。

 さて撮影機材で企業哲学があり良心的といったら、ニコンしかないでしょう。フィルム時代ニコンF4が登場していたときに、ニコンの古いレンズと新しいレンズが混在してどうしようかと尋ねたら、他者のように新しいのに変えた方が使い勝手はいいですよとはいわなかった。ニコンは迷わず新旧のレンズが使えるニコンF3を勧めてくれました。その小さなボディの精悍な印象は忘れなかったですから、その後F3を調達しました。またデジタル時代に入ってから高画素化が始まる頃、500万画素あれば十分ですよという発言にニコン技術者の良心を感じさせてくれました。

 だから今のニコンのフルサイズ一眼レフでは、やはり画素数を低く抑えたDfが一番優れています。この延長で製品開発すればニコンのミラーレス一眼レフに期待を寄せるわけです。それが文化系マーケッターのいいなりだったらどうしようもない製品になるわけです。プロダクトデザイン、そして企業哲学は社会にこびたらお終いなのです。

 まとめると、デジタル一眼レフは、撮影素子の大きさが同一ならば、高画素=高画質ではないこと、企業哲学が日本企業にも必要でしょうということになります。

 

京都市高台寺、α6000,ISO100,焦点距離22mm,露出補正0,f/11,1/80

 

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番外編345. 渋谷3.

2018年04月25日 | Tokyo city

 さて画像は、レンズを向けても物怖じしないのでバーやスナックのママ達の出勤だろう。繁華街には、例外なくバーやスナックがある。それも混沌とした空間を引きずって。

 都市開発プロジェクトの仕事をしていた頃、同じ地方都市へ何回も出張することがあった。でっ、夜は暇だというときは地元のタクシーの運転手さんをホテルに呼んで、運転手さんの馴染みのスナックに連れてってよ、と頼むと大体連れていってくれて行きつけのお店ができる。それで変なお店に捕まるという失態は避けられる。青森市ではそうだった。

 それで何回も通えば、祇園のお茶屋と同様に、お店のママ達と顔なじみとなり、こちらも夜の退屈な時間をつぶすことができるし、土地固有の地場の空気を感じることができる。大体スナックなどのお店はタクシーの運転手さんにバックマージンを支払うなどの便宜がはかられているし、夜お客が帰るときも同じ運転手さんを呼んでくれて、お店とタクシーとは商売で持ちつ持たれつだ。そうでもしないと地方都市のタクシーは営業にならない。

 それはもう20年以上前のことだから、さてその当時の青森市内のお店が今どうなっているかをGoogleで探すと、もう存在していない。それは一期一会の時間だったのかもしれない。一生に一度の出会いであることを心得て、亭主、客とも誠意をつくせ、とする茶会の戒めを思えばスナックも現代の茶会だったか。

 そんな行きつけのお店ができると、その街が好きになる。名古屋で同様のことをタクシーの運転手さんにいったら、「そんなこと、しません」とあっさり断られた。大都市では通じない方法である。だから名古屋では行きつけのお店探しは別の方法で、つまり同級生達につれていってもらった。ただし同級生の趣味で場末のフィリピンパブだった。それも結婚して日本に働きに来ているというフィリピィーナ達だった。

 一期一会の良い時間をつくってくれて、そして消えていったお店が多かった。

 

1997年東京都渋谷区、ミノルタCLE、Elmarit28mm/F2.8、トライX

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番外編344. 渋谷2.

2018年04月24日 | Tokyo city

 論文ではないから、ブログを書くときは文献を調べるということがない。あくまで私の記憶と理解なのだが、記憶違いや理解の間違いも当然ある。そうしたことはブログを書いている途上で気がつくこともあり、あればその都度毎に訂正はしているつもり。

 じゃあなんでブログを10年も書いているのかと自問すれば、文章の練習。つまり文章を書いていないと書けなくなるのです。だから書き続けて、その能力が低減しないための知のトレーニングといってよい。

 じぉあなんで公開するのかと問えば、それは編集することの意味が大きい。文章を書き画像を貼り付け、画面全体を眺めてレイアウトされている状態を眺めるという快感がある。

 実は、編集するという行程は、私達のどんな場面でも登場する。上司に出す報告書をつくるときも説明順序を考え目次を考えて編集してといった案配もあるし、プロジェクトの提案するときも、どういう順序と素材を使って説明しようかと考えることも編集である。編集とは、相手の存在があって成立する概念だからWEBで公開するというのも、文章と画像を組み合わせて何を語ろうかとする編集魅力があるのだろう。

 でっ、そのためのパソコンツールとして私は何を一番使っていたかと思い出すと、意外なことにPower Pointは使わない、じゃ、Keynoteだろ!、それも使わない。一番使っていたのがIndesignなのである。もちろんIndesignは、本や雑誌をつくるのに不可欠な編集ツールなのだが、これで私が書いた原稿から抜粋して頁レーションをおこない一つのストーリーに仕立て上げ、PDFでかき出してiPadで説明する事が多い。

 いやそれ以前に、本や論文の原稿をつくる必須ツールだった。本や論文を一定の形式で作成し、社会で公表されれば、国会図書館に原則永久保存されるわけであり、そこに私というアイデンティティが存在する。そういう点でまとまった形式にするのにはIndesignは必須のツールである。

 しかしPowerPointで原稿を書いても、本などの形式ではないから保存されることもなく説明して終わりとすると、個人のアイデンティティはどこへいったのだろうか。しかも説明してPowerPointを消去したら個人が何かをしたとする記録は皆無になる。PowerPointで記録を残すというシステムは、国会図書館では行っていない。

 だから大方の人間が、情報を消去したらお終いという生活をしている。まあ人間はなんだろうかと笑えるのだが。このブログも消したらお終いの世界であり、本にしようという気分でもない。言い換えれば消されてもかまわない事しかブログには書かないということになる。

  さて今日のブログを書いているのが4月8日。18日も早いではないか。そんなに早書きしてどうすんだいと自問自答。

 

1997年東京都渋谷区、ミノルタCLE、Elmarit28mm/F2.8、トライX

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番外編343. 渋谷

2018年04月23日 | Tokyo city

 さて東京の街シリーズが続いている。街が変わるごとに撮影機材の話を挟んでいるというスタイルはここまで。というのも、骨折から一ヶ月経過している。もう足のギブスはとれたし、そろそろ雑事をかたづけたいし街も徘徊したいところだ。だから過去画像は、もうええやろという気分濃厚。それに元写真屋の息子とはいえ機材マニアではないので、思い入れのある機材は払底した。つまりあとは処分してもええやろ、なのだ。

 さて渋谷は、多くの人間達に語られているので、街論として述べる必要も少ない。だがこの街がなぜ、ここまでモノ・コト・ヒトが集積し繁華街として成長してきたかについて少し振り返ってみよう。

 先ず谷底型の地形、底へ滑りおちるように都市機能が集積していった。次いで副都心だから鉄道のターミナル性は当然ある。JR、半蔵門線に銀座線、井の頭線などが集まる一点集中型の駅があり、谷底の焦点が明確であること。さらに東急と西武のライバル企業の競争。これによって東急プラザや東急ハンズができつつ、西武系のPARCOやLOFTが進出し、それぞれの企業文化を主張しつつ、街のあるいは人々の吸引核として成長してきたこと。そうした吸引核が点在し街の回遊性を形成してきたこと。さらには表通り、裏通り、横町、路地といったみちのヒエラレキーが空間上回遊する面白さを付加したこと。あとはオフィス街ではなく住宅に取り囲まれていたことの特異性。そのあたりが20世紀に渋谷が発展してきた要因だろうか。だから多彩な思惑と人々とが集積する街になった。

 東京の街は、多数の副都心つまり大きな繁華街がある。渋谷、新宿、池袋、上野、浅草、銀座、最近では台場といった具合にだ。ニューヨークでも大きな繁華街というのはそんなに数は多くはなく、むしろ上海などのアジアの都市構造そのものなのだろう。そこはうらやましいですね。京都だったら大きな集積地は四条通沿いと京都駅前ぐらいだし、大阪でも北と南と大きな集積地は明確だ。

 ここまではアカデミックな街論の解釈の範囲なのだが、それに画像を加えるとにわかに人間くさくなってくる。画像の持つ意味が、論理を拡大させ、最後には混沌としておとしめてくれる。そのあたりが画像の面白さなんだろう。難しいことを述べるよりは、気の向くままに歩き、感性を刺激したらレンズを向けてみる、そんな画像がいろんなことを意味する記号表現、R.バルトの言葉ならsignifiant(シニフィアン)が読みとれるかもしれない。

 

1997年東京渋谷、京セラslimT、トライX

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ZEISSの空気13. ハイブリッド・システム

2018年04月22日 | Photographic Equipment

 日沖宗弘さんの本「プロ並みに撮る写真術2.-一人で仕事をする研究者・ライターのために、勁草書房、1993年」でもフィルム時代の京セラコンタックスのレンズは評価されていた。コンタックスで圧倒的な支持を得たツァイスレンズは、固有の色とボケ方は他の機材とは明らかに違っていた。

 そのコンタックスもデジタル化で失敗し、今は京セラもカメラ事業から撤退してしまった。コンタックスの中でT シリーズと呼ばれた小型カメラがあった。チタンで外装されたTシリーズはまさしくZeissレンズである。私がZeissの色というのは、コンタックス・ツァイスの色のことである。

 今はSONY ZEISSになり、レンズ設計はSONYの手によるが、当然京セラ・コンタックスの色とは異なる。私が記憶しているのは、京セラコンタックスの色だ。いまでも唯一コンタックスの色で撮れる手元の機材が、このT3だ。またリバーサルフィルムをつめて旅に出たいと思う。

 画像は、日沖さんの本を参照したフィルム&デジタルのハイブリッド・システム案である。PC用モニター解像度を考慮すれば、そんなに高画質にする必要もない。データサイズが調度よいオリンパスで十分だろう。手元にあったE-M1Mark2には、大変解像度が高いZUIKO DG12mm/F2.0、OEMであるがLEICA DG Macro Elmarit45mm/F2.8はとても使い道が広く、接写からポジフィルムの複写までこのレンズを使用している。そして標準レンズの役割を果たすのが、このコンタックスT3 Sonnar35mm/F2.8T*だ。ここが決め手だ。

 京セラコンタックスの色への思い入れを反映させ、画質の悪いズームレンズは使わない(iPhoneだってズームレンズは使用していない)とする日沖さんの原則に従い、比較的リーズナブルでありながら性能が良い単焦点レンズ中心のハイブリッド・システムだ。E-M1を初期の中古E-M5にすればさらにコストダウンできる。これでも性能は大きく変わらないし中古カメラ屋ではすこぶる安い。どんな機種でもバッテリーグリップが付属品であれば、付けておいた方が電池の減りを気にしなくて済む。

 このシステムで広角-標準-望遠と揃い、F2.0の明るいレンズがあるので夜でも撮影可能だし接写もできる軽量でリーズナブルな撮影システムができあがる。もっと望遠側が必要ならば、E-M1のデジタル拡大機能で2倍(180mm相当)になるあたりがデジタルの恩恵だろう。すべて中古で揃えれば、ニコンD850ボディ以下のコストで高性能なシステムができる。今は一般的な撮影機材が中古ではすこぶる安い。

 それにコンタックスT3の35mmという焦点距離がとても使いやすいので撮影機会も多いだろう。リバーサルフィルムはベルビア100でよい。これは個人的にお気に入りのシステムになりそうだし、格好いいシステムができると旅に出たくなる。さてどこへゆこうか・・・。

 ただし考慮すべ点があって今リバーサルフィルムが1,200円/本、現像代が700円/本ほどするから、少し後処理にコストがかかる。そんな無駄骨をしりつつ、ここでは少しフィルムを使ってみようというわけだ。フィルムの色の良さは見直されてもよいと思う。

 リバーサルフィルムのポジネガをデジタル化するのは簡単だ。先日ストリップフィルムフォルダー(NikonES-2)が届いたので、ポジネガのスリーブ(6枚ごとにカットしたモノ)をデジタル・デュープするのが容易になった。簡単な複写システムがあると発色の良いリバーサル・フィルムも使いたい。

 もう一つ日沖さんの本で、「1台は機械式シャッターを内蔵したボディとすること」、という原則がこのシステムでは満たされない。このシステムは全てバッテリーが必要なのである。だからコンタッスT3を機械式シャッターを内蔵するボディに置き換えればよい。例えばベッサR2(R3以降は電子シャッター)+レンズとか、ライツCL+ライツレンズとか、いっそM4-P+ライツレンズとか次第に高価(昔ほどではないが)になる。全てが電子化されている時代にバッテリー不用機材の存在は大きいと思うけど。

 それにしても、このシステムのコンタックスT3がデジカメには負けませんよ、といっているかのような存在感がある。

 今日は、撮影システム紹介(私案だが)ブログになってしまった。やはり日沖さんの本の影響が大きいわけです。

 

α6000,Carl Zeiss Vario-Tessat16-70mm/F4.0、ISO2500,焦点距離70mm,露出補正0,f/4、1/160

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番外編342. 蒲田4.

2018年04月21日 | Tokyo city

 都市の混沌ばかりでは退屈だ。人間が欲しい。人間も外見とは裏腹に意識の中で混沌としているのだろう。

 そんな人間達をとるのにミノルタCLEが便利だった。絞りオートで撮影できるこの機材は、広角レンズのパンフォーカスを使えば何も操作することがなく、街のスナップには最適であり結構使い回した記憶がある。だから無理してオートフォーカスとかデジタル化してくれなくてもよかったのだけど。それにしてもこの画像は、エルマリートの描写が大変綺麗だ。SONYα6000で使用するとカリッとした描写になるが、こちらはやたらととがらず、それでいて柔らさが残る、そして黒が締まる描写がエルマリートの特徴だ。

 しかし、多用しているとついに電子部品が壊れてしまった。つまり電子シャッターだったわけだ。だからメーカーに持参したが修理不能となり、部品撮取り用に後輩にあげてしまった。いまなら直せるんですという情報もあり、ちと早まったと思ったが、その後デジタル化時代が始まったので、まあいいかの気分だった。いまでも小さく軽く最も使いやすい高性能の機材である。

 それは別としても、押し入れのフィルム撮影機材を全部売却した。なかにはファィンダーがブラックアウトしたライツM3とか、動作のいかがわしいハッセルブラッド用ツァィス・プラナーなどというのもあり、とにかく全部引き取ってくれたことに中古カメラ屋さんに感謝。おかげで大きなプラスチックケースが消え、アルミトランク4台にニコン用、キャノン用、オリンパス用、フィルムカメラ用に見事分類できたのは快挙だ。中古カメラ屋さんありがとう。その差額でSONYのマクロレンズとオリンパスの水中撮影に使用する60mmマクロレンズが調達できた。

 あまり動けないからこそ、今まで手が付かなかった押し入れの整理をしていた。まあくだらない話なのだけど、そんなことでもしつつ意識は前向きに努力中。

 さて足指骨折から調度一ヶ月。最大のダメージは運動不足。だから体は肥満状態に向かいつつある。肥出すと、動き無精になるので様々な意欲がなくなる。といって全治二ヶ月だから、もしここでスポーツをして骨がずれたりしたら全部最初からやり直しですよと医者から脅されている。ならばあと一ヶ月じっとしているほかない。それが最短コースなのだ。あっーあっ!、やれやれ、この陽気のよい時にプールで泳ぐなんざとても快適なんだけどさぁーー。

 

1997年東京都大田区、ミノルタCLE,Leitz Elmarit28mm/F2.8,トライX

 

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番外編341. 蒲田3.

2018年04月20日 | Tokyo city

 この画像は、混沌そのもののようだ。自転車の川、珍奇なモニュメント、混沌とした建築の背後にさらにこれを加速させるようなビルが工事中である。

 そのモニュメントが嘆かわしい。おそらく自治体は駅前を整備しながら、モニュメントでも置いて整然とした地域の顔をつくろうと考えたのだろう。結果としてさらに混沌さを加速させてしまった。そういう凡庸な頭では、空間を整然とすることはできない。そのあたりが、文化系役人の知恵の回らないところだ。結果としてモニュメントは、虚空をにらんで孤独に耐えているかのようだ。そういっているときは幸せだった。

 これが20世紀末、日本の人口が増加し続ける時代の都市の姿だった。こうした都市の成長とは全く逆の姿、都市が衰退する現象を今の敦賀市で経験した。30年前なら、敦賀市の街の中にはなんにもないのよ、とこぼしていればすんだ。それが今は、その都市そのものがなくなりつつある時代にいるといってよいだろう。

 敦賀駅の駅前から相当数の路面店が1km以上続くのだが、その9割5分以上の店がシャッターを降ろしている。水曜日が定休日なのだから、今日は定休日ではないので普段からこの状態なのか。それはおどろおどろしいシャッター街なのだ。当然総人口66,560人(H28)であり一貫して低減し続けている。路線バスも1日2本という時刻表を見ていると唖然とする。商業もスーパーが地元商業を喰っている間はまだ立地できた。それが一定数以下になると維持困難だから即座に撤退するだろう。都市といえるのは人口5万人以上だから、やがてこの街は都市の資格を失うことになる。こうした光景から、20年後のこの街の姿が見えてくる。それは日本の県庁所在地ではないまさに地方都市の姿かもしれない。

 都市でなくなる、もちろん都市機能は人口に応じて低減してゆき、交通機関もその本数が大幅に減り、不便だから人々の流出が始まる、それが負の循環となって止まらない。そういう状態なのである。いかなる振興策もすでに受け付けない末期状態だ。

 都市がなくなる状態、それを「廃市」と読んでおこう。そういう都市が全国的に発生してくる。財政投融資など全く役立たず、税金を捨てている状態だ。そのなかで、国の補助金や交付金を用いてつくられたコミュニティセンターなどの現代建築だけが際立っている。だが、人はいない。いつも閉館状態なのだ。

 そんな都市の未来の姿を敦賀市の街を歩いていて感じていた。それはまさしく国土崩壊の姿であろう。

 

1997年東京都大田区、NikonF4,AF NikkorAuto35-70mm/F2.8,トライX

 

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番外編340. 蒲田2.

2018年04月19日 | Tokyo city

 都市の中にある踏切に関心を持った頃だろう。本来都市の中は高架で通り過ぎる鉄道も、蒲田の羽田空港へゆく京浜急行と国道1号線との交差部に踏切があった。箱根駅伝の時は電車を停めた。今は鉄道も高架になり、そんな踏切はなくなっている。

 建築とはスケール感の違う鉄道が、都市へ入り込んでくること自体が不協和音を発していて面白いのだが、都市計画の立場からは、そんなのは機能解決にならないから立体化せよという論理になる。実際国土交通省も連続立体交差事業を昔から続けている。だから東京都心部では、相当数の踏切解消につながっていった。

 鉄道を高架化すると、高架下の白けた空間がとてもわびしいのだ。それも時間の経過の中で駐車場や駐輪場に使われ、時には不良のたまり場や犯罪もおきてギクシャクしながら、やがては定着してはゆくのだが。

 だから当面は踏切のあるところを街歩きの手がかりにしよう。実は関西は、そうした街がまだ残っていそうだ。さて今踏切があるところというと・・・十三とか。焼失した線路脇の飲食店街も最近復旧したようだし。

 さてこの時期の京都は、外よりも家の中の方が寒いというので相変わらずストープが必要になる。それで先ずは1時間ほど家の空気を暖めるわけだ。なんか変な気候だなと思いつつ、足指骨折1ヶ月目。ようやく治って欲しいところだが、骨のことは自分でもわからない。それよりも運動をしていないので気力が衰えてくる。こちらのほうがやばそうだ。

 それに最近夜なべ仕事が多い。忙しくてではなく生活のリズムがずれてきたのだ。夜はお酒を飲みながら仕事をしていると夜食が食べたくなる。昔は夜泣きそば屋がチャルメラを響かせ屋台ひいてやってきた。いまそんな情緒的なサービスはしてくれない。そこでカップラーメンだ。夜中に食べるカップラーメンのうまさは格別であり太ること必須。足指骨折で運動ができないから、こんなこと始めた。当然体に良くない。こまったモノだと思いながら、今日もカップラーメンをすすっている。

 

1997年東京都大田区

ミノルタCLE,LEITZ ELMARIT28mm/F2.8,トライX

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番外編339. 蒲田

2018年04月18日 | Tokyo city

 当時の横浜の自宅から京浜東北線で二つ目の蒲田は魅力的な街だった。街の混沌というのは、玩具箱からはみ出すような感じもしていて整然とできない雑然とした都市の姿と定義しておこう。そこが街の魅力だったのだろう。最近そんな街が整然としてきて少なくなったのではないか。

 自治体や地元商店会が放置自転車撤去などに着手したのだが、本来放置しているのではなく、生活の必要があって遠くから街へ繰り出して来て自転車を駅前に置いているのだから、それは生活の一部だ。それをするなというのだから、次第に不便な街に人々が近寄らなくなってしまったと思うけど。今では宅配便があるからさらに店に依存する必要がない。そして駅前の店が寂れだした。そこを狙って全国チェーン店が進出し、今では全国どこにでもある駅前景観が誕生するという都市形成の経過があるのだろうか。

 当時の蒲田駅は、JRと東急のターミナルだったし、商店街を突き抜けると京浜急行羽田線の分岐点でもあった。だから混沌そのものの街でとても活気があった。そして駅前は自転車の川である。街路は狭く人は多く店は乱脈に連なり、そこが面白く結構徘徊していた。大井町から南というのは、どこか荒っぽい結構面白い街だった。それが次第にヒタヒタと整備されてしまった。

 蒲田の裏道を歩くと、自転車置き場のさらに大きな川ができている。昔の川を暗渠にしたのだろう。東海道線の線路を越えて続いている。金村修さんの傑作の一つは、ここからガードレールに立ち上がって撮ったのだろう。同じ位置に立ちそんなことを考えていた。ここで撮っちゃうと金村修さんになってしまうから私は素通りした。

 この街は、玩具箱から玩具をぶちまけたようなところが面白い街だった。

 

1997年東京都大田区

NikonF4,NikkorAuto35-70mmF2.8,トライX

 

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番外編338. 忘れていた機材

2018年04月17日 | Photographic Equipment

 押入れの中を整理していたら、もう10年近く放置していたフィルム機材FUJI GS645Wが出てきた。6×6フイルムを用いた中判機材だ。画面サイズは6×4.5cmであり、フルサイズ3.6×2.4cmの3.1倍だから、EOS1DsMark3の2,100万画素を基準とすれば約6,200万画素となり、そりゃ超高画質機材だ。ただしプリントするか高解像度でスキャンすればだが。

 印刷の出力解像度カラーの場合は350dpiだから、この解像度でデジタル化するとA2位までゆけることになる。350dpi以上になると人間の目では識別できないそうだ。

 さて露出計がついているが、距離は目測であり、その分距離計という面倒な機構がなく、シャッターはパッケージ化されているのでメンテナンスは楽だ。はて使えるかと思ったらちゃんと動き露出計用のLR44バッテリーも使えたのは驚き。レンズは、EBC FUJONON W 45mm/F5.6オンリーだから広角専用(フルサイズで28mm)の無理がない設計だろう。無骨なスタイルだけど、ヘリコイドに絞り、シャツター速度、ピントの数値が一様に並ぶ様はなかなかよさげだ。

 まさに忘れていた機材だ。指骨折足を引きずって近所徘徊の試写。デジカメでは体験できないフィルムを巻き上げる感触が新鮮。15枚撮りなのでいつでもリュックに入れておける。このいつでも・・・という感覚が重要なのだ。よしっゃ、今日は気合いを入れて撮影するぞ!、といって構えて街を出歩るいたところで被写体に遭遇するわけではない。だから普段の生活の中で、ふと、にみつけたという感覚でありたい。そうなるといつでもリュックの隅にいれておける小ささであることが重要になる。

 しかし本当にこんな機材を使うのかなぁーと自問すると自信が無い。実をいうと部品取り用にもう1台同じ機種があるんだ。押し入れに忘れられた機材が2台あった。フイルム機材だから1本1000円相当のリバーサルフィルムと現像代がかかるのでデジタルよりは高くつく。いまでは贅沢な道具になった。

 さしあたりトライXでも、つめてリュックの隅にでも入れておこう。トライX!、高っ!!・・・。それに4月7日の毎日新聞朝刊ではFUJIFILMのモノクロフィルムACROSが83年の幕を下ろしたと記事にはあった。実に悩ましい。フィルムという選択肢があってもよいだろうし、選択肢が減ってよいのだろうか。まあ他社のフィルムを使うほかないが。

 さて京都も、今週末あたりは夏日の予報。一体春はどうしたんだ、いや私が気がつかないうちに通り過ぎたのか。それでも朝晩は寒く、ストーブが必要な日々である。

 

OLYMPUS OM-D E-M1Mark2,LEICA DG MACRO-ELMARIT45mm,f2.8

ISO2000,露出補正-1.3,f/6.3,1/80

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番外編337. 下北沢3.

2018年04月16日 | Tokyo city

 回りを気にしながら電話をかけている叔母はん。用件はなんだろうか、借金の催促か不倫相手との電話か。洗濯仕立てのTシャツのスッキリ感がさっきまで一発やってシャワーを浴びて出てきた感じもさせてくれるカップル。そして全く退屈している青年。とまあ勝手な解釈ができるところがストリートの面白さだろう。そんなのが三角形の位置にいるからどこか芝居かがってもいる。つまりここは劇場街か。

 そんな街の光景をカフェテラスで眺めていたいのだが、日本ではなかなかそんなところは少ない。多くは珍奇なインテリア空間に押しとどめ、壁を見ながらお茶をする最悪の選択肢ばかりだ。なかには窓にスクリーンを貼り付けて視界を遮ってくれたりする。外の目線から隠れようというのが日本人の気質なのだろう。

 そこには民族的な気質が関係している。ラテン民族の陽気さとはうらはらに、日本人は路地の奥の店の一番奥の席で落ち着くという気質だ。確かに路地の奥というのは、落ち着いたよい空間だと思うが、路地奥の小料理屋で季節の料理をつまみながら酒を飲んだろ旨いだろうというのは多分建築家の幻想でしょう。

 実際京都市内には路地が多いので、そんな店があるのですが、むしろ誰と飲みに行くかの方が重要事だよな。

 路地をみていてふと思うのは、日本人は隠し事が大好きなんだ。新聞を見ていても、自衛隊の海外派遣の報告書を隠したり、森友問題で税金を隠したりと隠し事が多い。これらの事件は、日本人の体質ですね。これから先もなくならないですし、私達の身の回りでも不倫問題とか税金とか、いろいろと思い出すと隠し事だらけではないですか。あの谷崎潤一郎に陰影礼賛を書かせたぐらいだから隠し事が体質なのだろう。それは農家のすべてバレバレの世界とは違う、都市固有の現象かもしれない。日本の都市の人間は隠し事が好き!、と結論づけておこう。

 

1997年下北沢、京セラSlim-T,トライX

 

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