SONYα6000も、もう少し画素数が低ければ、もっと綺麗な画像になったと思うのだが、このあたりが撮影素子で他をリードしているSONYの自信の表れか。
ならば、1220万画素のSONYα7sなどは、SONYの一眼レフの中では、一番安くコストパフォーマンスが一番高い。そう思っていたら後継機種を発売して、性能変わらず価格が10万円近く上がったではないですか。やはり一番高性能だということはSONYがわかっているので価格を上げましたね。
ここで一番高性能と書いたのは、SONYのフルサイズ2420万画素とか4240万画素などの機種と比較してという意味です。というのもユーザーは時として大きな勘違いをしているからです。それは高画素=高画質ではないからです。高画素になればなるほど撮影素子間の間隔も狭くミラーレンズも小さくなり、その分光情報を読み取る性能が落ちます。
現在のNikonD5やCanonEOS1DXMark2などのプロユースのフルサイズ機種をみれば、常に2000万画素台をkeepしています。私のEOS1DsMark3がEOS1シリーズの中で画素数が一番高かったのですが、それでも2100万画素台どまりです。そのあたりがフルサイズで光情報を適切に読みとれる性能なのです。だからAPSサイズならば1200万画素でよいのでは。
スマホの例をあげましょう。スマホには2000万画素撮影素子を積んで高画質であるかのような微妙なプロモーションをしています。スマホはデジタル一眼レフよりはさらに小さい1/3.2型COMOSですが、そこへ2000万画素にしても画質は向上しません。性能が上がったようにプロモーションされているだけです。このあたりが利益追求型企業のいやらしいところです。
他方でAppleのiPhone7は、SONYの撮影素子を使いながら1200万画素です。低く抑えた方が当然画質は良くなります。その方がユーザーの期待に応えられます。Appleはそのことをよく知っていて、他のスマホよりも画素数を低く抑えています。そうした適切なプロダクトづくりを心がけているわけで、そこにAppleの哲学があります。
今、技術立国日本とよく言いますが、日本の企業は、利益追求とプロモーションの技法はあるけど、企業哲学が欠落しているのではないか。やはりAppleが形成してきた企業哲学が、これからの日本企業にも欲しいですね。私がMacを使い続けているのも、そうした理由からです。そこには、Appleの考え方とアメリカ的良心を感じさせてくれるからです。
もう一つ日本企業の悪い例をあげましよう。20世紀後半に工場の煙突から出る有害物質を削減せよと法律で基準値を定めました。そこで企業は、設備を変えたかというとそれはコスト高になるのでしなかった。やったことは工場の煙突を高くしただけ。それによって測定点での値は法律の基準値以下になりますが、有害物質の地域への排出量は変わりませんし、むしろひろい範囲に廃棄されるようになったわけです。工場が廃棄物削減に着手したのは設備更新の時期でしたから、ずっと後の話です。
そして最近でも、製鉄素材の試験値が偽造されていたとする事件をはじめ、素材企業のデータ偽造事件が続発しています。それがこれまでの日本企業や日本人の体質だったのでしょう。知らなければ、そのまま通り過ぎようという体質だった。やはりそこには、企業哲学のない企業が多すぎた。それが今明るみになったということです。
さて撮影機材で企業哲学があり良心的といったら、ニコンしかないでしょう。フィルム時代ニコンF4が登場していたときに、ニコンの古いレンズと新しいレンズが混在してどうしようかと尋ねたら、他者のように新しいのに変えた方が使い勝手はいいですよとはいわなかった。ニコンは迷わず新旧のレンズが使えるニコンF3を勧めてくれました。その小さなボディの精悍な印象は忘れなかったですから、その後F3を調達しました。またデジタル時代に入ってから高画素化が始まる頃、500万画素あれば十分ですよという発言にニコン技術者の良心を感じさせてくれました。
だから今のニコンのフルサイズ一眼レフでは、やはり画素数を低く抑えたDfが一番優れています。この延長で製品開発すればニコンのミラーレス一眼レフに期待を寄せるわけです。それが文化系マーケッターのいいなりだったらどうしようもない製品になるわけです。プロダクトデザイン、そして企業哲学は社会にこびたらお終いなのです。
まとめると、デジタル一眼レフは、撮影素子の大きさが同一ならば、高画素=高画質ではないこと、企業哲学が日本企業にも必要でしょうということになります。
京都市高台寺、α6000,ISO100,焦点距離22mm,露出補正0,f/11,1/80