Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カンブルラン&読響

2011年09月13日 | 音楽
 カンブルラン指揮の読響でベルリオーズの劇的交響曲「ロミオとジュリエット」を聴いた。この演奏会のことはいつかきっと懐かしく思い出すだろう――そんな気のする演奏会だった。

 この曲を初めて聴いたのはいつだったろう。もう何十年も前だ。在京のどこかのオーケストラで聴いた。わけがわからなくて面食らったけれども、ロミオとジュリエットの物語に触れたという確かな手ごたえがあって、不思議だった。

 で、今回はどうだったのか。

 カンブルランはこの異形の大作を、これ以上ないほど冷徹に描きだした。ロマン主義的な熱狂とは無縁の演奏だった。多少大げさな言い方になるが、これによって初めて、本作の全貌が明らかになったと感じられた。そこに浮かび上がったものは、カンブルランの言葉を借りるなら、本作の「現代的」な側面だ(山野雄大さんのプログラムノートより)。

 20世紀後半のポスト・モダンを経験したわたしたちは、「多様式」という便利な言葉を手に入れた。なので、本作を多様式、あるいはそれに類する言葉で捉えるのが、今では一般的だ。これはわかりやすい捉え方だが、そこにヴィヴィッドな現代性を感じたのは、今回が初めてだ。カンブルランの、それこそ「現代的」な音楽性のたまものだ。

 第1部は文字どおり序奏。第2部から第4部までは交響曲の第1楽章、第2楽章(緩徐楽章)、第3楽章(スケルツォ)に相当する。緩徐楽章の「愛の情景」がロマン主義的に甘くならなかったのは、上述のとおりだ。次の第5部から第7部にかけては、拡大された終楽章、あるいはオペラへの移行と感じられた。

 見事だったのは、オーケストラのみで演奏される第6部だ。ロミオの祈り(服毒)、ジュリエットの目覚め、喜び合う二人、ロミオの死、ジュリエットの絶望と死、と続く一連のドラマが、硬質な音で簡潔に展開された。続く第7部は、かつてはオラトリオ的だと思っていたが、今回はオペラ的に感じられた。それはカンブルランの語り口の巧みさとともに、バス独唱のローラン・ナウリの上手さのゆえだ。

 合唱は新国立劇場合唱団。これも見事の一言に尽きる。左欄のブックマークに登録している合唱指揮者、三澤洋史さんのブログ「三澤洋史の今日この頃」を読むと、公演に向けたプロの世界の厳しさがよくわかった(9月12日の「劇場人」)。それにくらべると、素人のわたしなど気楽なものだ。
(2011.9.12.サントリーホール)
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