Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

朱雀家の滅亡

2011年09月21日 | 演劇
 三島由紀夫の「朱雀家の滅亡」。自決の3年前、1967年(昭和42年)の作品だ。この頃になると、三島の天皇にたいする想いが研ぎ澄まされてきたことがわかる。それはわたしのような凡人には思いも及ばないものだ。

 三島の想いは、端的にいうと、虚構としての天皇、そしてそれに殉じる生き方だ。三島自身、天皇にたいする想いが虚構であることを明確に意識していた、それでもなお、その虚構に殉じることを潔く思っていた――本作はそういう作品だ。

 三島は、自己の想いに批判があることを十分にわかっていた。なので、登場人物たちによる、朱雀家当主、朱雀経隆(すざく・つねたか)への批判の舌鋒は容赦ない。経隆はその批判に身を晒して、抵抗するすべもない。けれども生き方は変わらないのだ。

 三島はこの頃から、自衛隊への決起の呼びかけ、その失敗、自決と続く道のりを思い描いていたのだろうか。まだ具体的ではなかったにしても、なにかぼんやりした終末のイメージがあったのではないかと感じられる。

 そして3年後、自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから決起を呼びかけたとき、隊員たちに嘲笑され、野次を浴びた。おそらくそれも三島の演出に入っていたのだ。それがなければ、悲劇の自決は成立しない。三島の演出どおりにことは運んだ。

 今回、舞台を観ているわたしの耳には、遠い潮騒のように、「ナンセンス!」という怒号がきこえていた。あの頃の世相が蘇ってきたのだ。当時のわたしなら、本作を拒んだことだろう。けれども今は、自分自身もその一員である日本人の問題として、本作を捉えていることに気付いた。

 朱雀経隆を演じたのは國村隼(くにむら・じゅん)。圧倒的な存在感だった。あとの4人の役者も素晴らしかったが、他の役者が演じたら、また別の味が出たかもしれない。けれども朱雀経隆だけは國村隼でなければならないと感じた。

 演出は宮田慶子。昨シーズンの「ヘッダ・ガーブレル」や「わが町」同様、丁寧な作りだ。大きな構えが浮き上がってくる点も好ましい。昨日は初日だったが、アンサンブルが練れてくるにつれて、今後さらに滑らかになるだろう。

 美術は池田ともゆき。前方のA列(3列)~B列(3列)の座席を外して、その真ん中に舞台をせり出し、巨大なテーブルを置いた装置。このテーブルに存在感があった。客席はそれを囲んで「コ」の字型に配置されていた。
(2011.9.20.新国立劇場小劇場)
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