三島由紀夫の「朱雀家の滅亡」。自決の3年前、1967年(昭和42年)の作品だ。この頃になると、三島の天皇にたいする想いが研ぎ澄まされてきたことがわかる。それはわたしのような凡人には思いも及ばないものだ。
三島の想いは、端的にいうと、虚構としての天皇、そしてそれに殉じる生き方だ。三島自身、天皇にたいする想いが虚構であることを明確に意識していた、それでもなお、その虚構に殉じることを潔く思っていた――本作はそういう作品だ。
三島は、自己の想いに批判があることを十分にわかっていた。なので、登場人物たちによる、朱雀家当主、朱雀経隆(すざく・つねたか)への批判の舌鋒は容赦ない。経隆はその批判に身を晒して、抵抗するすべもない。けれども生き方は変わらないのだ。
三島はこの頃から、自衛隊への決起の呼びかけ、その失敗、自決と続く道のりを思い描いていたのだろうか。まだ具体的ではなかったにしても、なにかぼんやりした終末のイメージがあったのではないかと感じられる。
そして3年後、自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから決起を呼びかけたとき、隊員たちに嘲笑され、野次を浴びた。おそらくそれも三島の演出に入っていたのだ。それがなければ、悲劇の自決は成立しない。三島の演出どおりにことは運んだ。
今回、舞台を観ているわたしの耳には、遠い潮騒のように、「ナンセンス!」という怒号がきこえていた。あの頃の世相が蘇ってきたのだ。当時のわたしなら、本作を拒んだことだろう。けれども今は、自分自身もその一員である日本人の問題として、本作を捉えていることに気付いた。
朱雀経隆を演じたのは國村隼(くにむら・じゅん)。圧倒的な存在感だった。あとの4人の役者も素晴らしかったが、他の役者が演じたら、また別の味が出たかもしれない。けれども朱雀経隆だけは國村隼でなければならないと感じた。
演出は宮田慶子。昨シーズンの「ヘッダ・ガーブレル」や「わが町」同様、丁寧な作りだ。大きな構えが浮き上がってくる点も好ましい。昨日は初日だったが、アンサンブルが練れてくるにつれて、今後さらに滑らかになるだろう。
美術は池田ともゆき。前方のA列(3列)~B列(3列)の座席を外して、その真ん中に舞台をせり出し、巨大なテーブルを置いた装置。このテーブルに存在感があった。客席はそれを囲んで「コ」の字型に配置されていた。
(2011.9.20.新国立劇場小劇場)
三島の想いは、端的にいうと、虚構としての天皇、そしてそれに殉じる生き方だ。三島自身、天皇にたいする想いが虚構であることを明確に意識していた、それでもなお、その虚構に殉じることを潔く思っていた――本作はそういう作品だ。
三島は、自己の想いに批判があることを十分にわかっていた。なので、登場人物たちによる、朱雀家当主、朱雀経隆(すざく・つねたか)への批判の舌鋒は容赦ない。経隆はその批判に身を晒して、抵抗するすべもない。けれども生き方は変わらないのだ。
三島はこの頃から、自衛隊への決起の呼びかけ、その失敗、自決と続く道のりを思い描いていたのだろうか。まだ具体的ではなかったにしても、なにかぼんやりした終末のイメージがあったのではないかと感じられる。
そして3年後、自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから決起を呼びかけたとき、隊員たちに嘲笑され、野次を浴びた。おそらくそれも三島の演出に入っていたのだ。それがなければ、悲劇の自決は成立しない。三島の演出どおりにことは運んだ。
今回、舞台を観ているわたしの耳には、遠い潮騒のように、「ナンセンス!」という怒号がきこえていた。あの頃の世相が蘇ってきたのだ。当時のわたしなら、本作を拒んだことだろう。けれども今は、自分自身もその一員である日本人の問題として、本作を捉えていることに気付いた。
朱雀経隆を演じたのは國村隼(くにむら・じゅん)。圧倒的な存在感だった。あとの4人の役者も素晴らしかったが、他の役者が演じたら、また別の味が出たかもしれない。けれども朱雀経隆だけは國村隼でなければならないと感じた。
演出は宮田慶子。昨シーズンの「ヘッダ・ガーブレル」や「わが町」同様、丁寧な作りだ。大きな構えが浮き上がってくる点も好ましい。昨日は初日だったが、アンサンブルが練れてくるにつれて、今後さらに滑らかになるだろう。
美術は池田ともゆき。前方のA列(3列)~B列(3列)の座席を外して、その真ん中に舞台をせり出し、巨大なテーブルを置いた装置。このテーブルに存在感があった。客席はそれを囲んで「コ」の字型に配置されていた。
(2011.9.20.新国立劇場小劇場)