オペラシアターこんにゃく座の「ゴーゴリのハナ」。原作はゴーゴリ、台本・演出は加藤直、作曲は萩京子。こんにゃく座は今年創立40周年で、これはその記念公演の第3弾。
2009年に観た「変身」(原作はカフカ、台本・演出は山元清多、作曲は林光)もそうだったけれども、日本語がはっきり聴き取れることが驚きだ。日本語の抑揚とリズムを音楽に乗せるとこうなるのか、という発見があった思いだ。
話が大きくなるようだが、リヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」を思い出した。劇場支配人ラ・ロッシュの言葉「アリアを聴きたいのに、レチタティーヴォばかりだ!」は、シュトラウス一流の自虐ネタだが、つまりシュトラウスがやったことを日本語でやるとこうなる、というのが本作だと思った。
先走ったことを言うと、「カプリッチョ」の場合は最後に「月光の音楽」が来るように、本作では合唱曲が来るが、その部分はちょっと興ざめだった。歌詞も作風もそれまでの音楽とは関連がなかったからだ。
さて、話を元に戻すと、本作の独唱、重唱、合唱はシュトラウスばりのレチタティーヴォ(ただし日本語の)だが、オーケストラ(ヴァイオリン、サクソフォン、パーカッション、ピアノの4人編成)にはメロディーの断片がちりばめられている。なので、本作の情感は主にオーケストラから漂ってくる。
全体は休憩をはさんで2部に分かれるが、前半の最後にはロシア民謡風の音楽が出てくる。これはゴーゴリにたいするオマージュか。同じ音楽が後半の冒頭にも出てきて、前半と後半をつなぐ。後半の途中で、逃亡するハナの追跡劇がある。オーケストラのみで演奏されるその音楽は、ショスタコーヴィチのパロディのようだ。
直後に出てくる女声合唱「ヒミツの牧場」は、本作の肝の部分だ。歌詞はこうなっている。「都市(まち)の牧場で、ハナのない人を、大量に飼育している、という話は秘密である。」(これはプログラムに譜面付きで掲載されている)。ゴーゴリの原作ではコワリョーフの鼻がなくなるが、本作ではコワリョーフを取り巻く街の人々も鼻がない。では、鼻がないとはどういうこと?というのが本作だ。
歌手はコワリョーフ(本作では八等官ハナ)の大石哲史ほか、皆さん声楽的にも演技でも達者なものだった。オーケストラではヴァイオリンがクァルテット・エクセルシオの山田百子だった。
(2011.9.15.俳優座劇場)
2009年に観た「変身」(原作はカフカ、台本・演出は山元清多、作曲は林光)もそうだったけれども、日本語がはっきり聴き取れることが驚きだ。日本語の抑揚とリズムを音楽に乗せるとこうなるのか、という発見があった思いだ。
話が大きくなるようだが、リヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」を思い出した。劇場支配人ラ・ロッシュの言葉「アリアを聴きたいのに、レチタティーヴォばかりだ!」は、シュトラウス一流の自虐ネタだが、つまりシュトラウスがやったことを日本語でやるとこうなる、というのが本作だと思った。
先走ったことを言うと、「カプリッチョ」の場合は最後に「月光の音楽」が来るように、本作では合唱曲が来るが、その部分はちょっと興ざめだった。歌詞も作風もそれまでの音楽とは関連がなかったからだ。
さて、話を元に戻すと、本作の独唱、重唱、合唱はシュトラウスばりのレチタティーヴォ(ただし日本語の)だが、オーケストラ(ヴァイオリン、サクソフォン、パーカッション、ピアノの4人編成)にはメロディーの断片がちりばめられている。なので、本作の情感は主にオーケストラから漂ってくる。
全体は休憩をはさんで2部に分かれるが、前半の最後にはロシア民謡風の音楽が出てくる。これはゴーゴリにたいするオマージュか。同じ音楽が後半の冒頭にも出てきて、前半と後半をつなぐ。後半の途中で、逃亡するハナの追跡劇がある。オーケストラのみで演奏されるその音楽は、ショスタコーヴィチのパロディのようだ。
直後に出てくる女声合唱「ヒミツの牧場」は、本作の肝の部分だ。歌詞はこうなっている。「都市(まち)の牧場で、ハナのない人を、大量に飼育している、という話は秘密である。」(これはプログラムに譜面付きで掲載されている)。ゴーゴリの原作ではコワリョーフの鼻がなくなるが、本作ではコワリョーフを取り巻く街の人々も鼻がない。では、鼻がないとはどういうこと?というのが本作だ。
歌手はコワリョーフ(本作では八等官ハナ)の大石哲史ほか、皆さん声楽的にも演技でも達者なものだった。オーケストラではヴァイオリンがクァルテット・エクセルシオの山田百子だった。
(2011.9.15.俳優座劇場)