佐村河内守(さむらごうち・まもる)のCD第2弾発売記念コンサートに行った。CDは聴いたが、生を聴いてどういう曲か確かめたい気持ちがあった。やっぱり生を聴くと、いろいろ思うところがあった。
1曲目は「ヴァイオリンのためのソナチネ嬰ハ短調」。ヴァイオリンは大谷康子、ピアノは藤井一興。嬰ハ短調と銘打っていることにびっくりしてしまう。事実これはシューベルト、ブラームス、グリーグあたりを想わせるロマンティックな曲だ。しかも少しも借り物の感じがしない。
曲のよさもさることながら、日本人がこういう曲を作ったことに一種の感慨を覚えた。もはや現代の日本人には西洋音楽が異国のものではなくなっているのだ。それはわたしの場合もそうだ。物心ついた頃からベートーヴェンなどを聴いて育っている。わたしよりも一回り下の佐村河内さんなら尚更だろう。
そしてもちろん、現代にあって堂々と調性音楽を書いて、しかもそれがパロディーでもなんでもなく、真情あふれる曲であることが驚きだ。現代にもこういう曲が生まれるのか、という素朴な驚きがあった。
2曲目は弦楽四重奏曲第1番。演奏は大谷さんなどの東京交響楽団の首席奏者たち。この曲と最後(4曲目)の第2番とはペアの作品だ。さらに第3番を構想中で、3部作になるそうだ。だから、ということでもないが、2曲を聴いただけでは判断を保留したい気になった。両曲には共通のテーマが出てくるが(ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章の第1主題を想わせる。)、その意味も第3番で明らかになるのではないか。
3曲目は「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」。演奏は大谷さん。これは傑作だ。バッハに対峙して、その偉大さを受け止めようとしている。演奏時間は約20分。あっという間に終わった。できれば60分くらい(つまりこの3倍くらい)聴いていたい気分になった。
佐村河内さんは基本的に調性音楽を書いている(例外はあるが)。だから、異端の作曲家とか、現代音楽にたいするアンチテーゼという捉え方がある。でも、はたしてそうだろうか。案外、今の時代は、自分の聴きたい音楽を書いている一定の層があって、佐村河内さんもその文脈のなかで捉えることができるのではないか。たとえばグレツキの交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」のブームなどは、その文脈のなかで起きた現象のような気がする。あれからもう何年もたった。その文脈はだんだん太くなってくる。
(2012.2.29.Hakujuホール)
1曲目は「ヴァイオリンのためのソナチネ嬰ハ短調」。ヴァイオリンは大谷康子、ピアノは藤井一興。嬰ハ短調と銘打っていることにびっくりしてしまう。事実これはシューベルト、ブラームス、グリーグあたりを想わせるロマンティックな曲だ。しかも少しも借り物の感じがしない。
曲のよさもさることながら、日本人がこういう曲を作ったことに一種の感慨を覚えた。もはや現代の日本人には西洋音楽が異国のものではなくなっているのだ。それはわたしの場合もそうだ。物心ついた頃からベートーヴェンなどを聴いて育っている。わたしよりも一回り下の佐村河内さんなら尚更だろう。
そしてもちろん、現代にあって堂々と調性音楽を書いて、しかもそれがパロディーでもなんでもなく、真情あふれる曲であることが驚きだ。現代にもこういう曲が生まれるのか、という素朴な驚きがあった。
2曲目は弦楽四重奏曲第1番。演奏は大谷さんなどの東京交響楽団の首席奏者たち。この曲と最後(4曲目)の第2番とはペアの作品だ。さらに第3番を構想中で、3部作になるそうだ。だから、ということでもないが、2曲を聴いただけでは判断を保留したい気になった。両曲には共通のテーマが出てくるが(ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章の第1主題を想わせる。)、その意味も第3番で明らかになるのではないか。
3曲目は「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」。演奏は大谷さん。これは傑作だ。バッハに対峙して、その偉大さを受け止めようとしている。演奏時間は約20分。あっという間に終わった。できれば60分くらい(つまりこの3倍くらい)聴いていたい気分になった。
佐村河内さんは基本的に調性音楽を書いている(例外はあるが)。だから、異端の作曲家とか、現代音楽にたいするアンチテーゼという捉え方がある。でも、はたしてそうだろうか。案外、今の時代は、自分の聴きたい音楽を書いている一定の層があって、佐村河内さんもその文脈のなかで捉えることができるのではないか。たとえばグレツキの交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」のブームなどは、その文脈のなかで起きた現象のような気がする。あれからもう何年もたった。その文脈はだんだん太くなってくる。
(2012.2.29.Hakujuホール)