映画「ニーチェの馬」を観た。2月11日から公開されているので、早く観たいと思っていた。偶然にも昨日はサービスデーだった。料金は一律1,000円。そのせいもあってか、観客はよく入っていた。
いうまでもないだろうが、ニーチェは1889年1月3日にイタリアのトリノで御者に鞭打たれる馬を見た。ニーチェは駆け寄り、馬の首を抱きしめて泣き崩れた。そしてそのまま昏倒した。ニーチェの精神は崩壊し、ついに正気に戻ることはなかった。
このエピソードが事実かどうかは確認されていない。でもニーチェの哀れな姿が目に浮かぶような気がする。事実かどうかは別にして、ニーチェの晩年を象徴するエピソードとして忘れがたい印象を残す。
この映画は、馬はその後どうなったか、という想像の物語だ。そして、結論を先にいうと、驚くべき物語になっている。なにか事件が起きるわけではない。むしろなにも起こらない。馬と、御者と、その娘との、貧しく、単調な、静かな生活。それだけを描いた映画だが、タル・ベーラ監督自ら語るとおり、神がこの世を創造した「創世記」を逆回しするかのように、なにかの崩壊が描かれる。
それは死だろうか。緩慢に、しかし避けがたく進行する死。この映画は「死」の寓話だろう。また別の見方もできる。わたしたちは東日本大震災で劇的に認識させられたが、生活の崩壊。この映画は「崩壊」の神話かもしれない。そしてもう一つ。この映画はニーチェの狂気のアレゴリーかもしれない。そういったいくつもの見方ができる映画だ。
馬と御者と娘との生活に、外部の人間が闖入する場面が2度ある。1度目は蒸留酒パーリンカを分けてくれといって男が訪れる場面。哲学的な言辞を弄するこの男は、ニーチェのカリカチュアだろう。2度目は旅の男と女たち。無作法にも、勝手に井戸の水を飲み、娘を連れて行こうとする。これはなんだろう。もしかすると、ワーグナーの楽劇の登場人物たちではなかろうか。ニーチェの生活をかき乱す、あのワーグナーの――。
最小限の台詞(ほとんど無言だ)、単調な生活(=同じ場面)の繰り返し、延々と続く長いシーン、やがて生じるわずかな変化――このような手法は、ミニマル音楽を想わせる。けれどもその変化が新たな局面への移行ではなく、異常、欠落あるいは崩壊であることに特徴がある。ミニマル音楽でそのような例があったかどうか、ちょっと思い出せない。
(2012.3.1.イメージフォーラム)
いうまでもないだろうが、ニーチェは1889年1月3日にイタリアのトリノで御者に鞭打たれる馬を見た。ニーチェは駆け寄り、馬の首を抱きしめて泣き崩れた。そしてそのまま昏倒した。ニーチェの精神は崩壊し、ついに正気に戻ることはなかった。
このエピソードが事実かどうかは確認されていない。でもニーチェの哀れな姿が目に浮かぶような気がする。事実かどうかは別にして、ニーチェの晩年を象徴するエピソードとして忘れがたい印象を残す。
この映画は、馬はその後どうなったか、という想像の物語だ。そして、結論を先にいうと、驚くべき物語になっている。なにか事件が起きるわけではない。むしろなにも起こらない。馬と、御者と、その娘との、貧しく、単調な、静かな生活。それだけを描いた映画だが、タル・ベーラ監督自ら語るとおり、神がこの世を創造した「創世記」を逆回しするかのように、なにかの崩壊が描かれる。
それは死だろうか。緩慢に、しかし避けがたく進行する死。この映画は「死」の寓話だろう。また別の見方もできる。わたしたちは東日本大震災で劇的に認識させられたが、生活の崩壊。この映画は「崩壊」の神話かもしれない。そしてもう一つ。この映画はニーチェの狂気のアレゴリーかもしれない。そういったいくつもの見方ができる映画だ。
馬と御者と娘との生活に、外部の人間が闖入する場面が2度ある。1度目は蒸留酒パーリンカを分けてくれといって男が訪れる場面。哲学的な言辞を弄するこの男は、ニーチェのカリカチュアだろう。2度目は旅の男と女たち。無作法にも、勝手に井戸の水を飲み、娘を連れて行こうとする。これはなんだろう。もしかすると、ワーグナーの楽劇の登場人物たちではなかろうか。ニーチェの生活をかき乱す、あのワーグナーの――。
最小限の台詞(ほとんど無言だ)、単調な生活(=同じ場面)の繰り返し、延々と続く長いシーン、やがて生じるわずかな変化――このような手法は、ミニマル音楽を想わせる。けれどもその変化が新たな局面への移行ではなく、異常、欠落あるいは崩壊であることに特徴がある。ミニマル音楽でそのような例があったかどうか、ちょっと思い出せない。
(2012.3.1.イメージフォーラム)