スクロヴァチェフスキ/読響のベートーヴェン・プロ。
1曲目は序曲「レオノーレ」第3番。序奏のアダージョの暗い響きが最弱音で演奏されるのを聴いて、先日のショスタコーヴィチとブルックナーを思い出した。そのときも弱音がさらに弱く、文字通り最弱音で演奏されていた。これが今のスクロヴァチェフスキの特徴かもしれない。
すぐに主部に入ると、最弱音は姿を消す。老年の巨匠の遅いテンポでは全然なく、快走するテンポ。フィナーレは「歓喜」の爆発というよりも、表現の「激しさ」が印象的だった。そうなのだ、スクロヴァチェフスキは昔から情緒で聴かせる指揮者ではなく、なんというか、音の構造で聴かせる指揮者だった、と思った。
2曲目は交響曲第4番。停滞しないテンポ、音の張り、精神力――これは名演だった。前の「レオノーレ」第3番にも増して音に輝きがあり、常に明瞭さが保たれていた。今まで聴いたこの曲の演奏のなかで、これが一番よいのではないかと思ったほどだ。
なぜそう思ったかというと、技術的にどうのこうのというよりも、この演奏が、少なくともわたしには、「今ベートーヴェンを聴く意味はなにか」という問いに答えてくれたからだ。ベートーヴェンを聴いて感動することが、今は昔のように自明のことではなくなった。だからこの問いが漠然と頭にあった。
この演奏で提示されたベートーヴェン像は、なんの揺らぎもなく、透明な心境でそこに在った。今の日本の、高度な気配り社会からは、絶えて久しいものだ。今の日本にあっては、みんな多かれ少なかれ、息苦しい思いをしているのではないか。そのとき見失いがちな精神のあり方――それを理想主義といってもよい――を思い出させる演奏だった。
端的にいって、わたしはベートーヴェンに感謝した。このような精神のあり方を後世に残してくれたことに。
3曲目は交響曲第5番「運命」。これはもう曲の性格からいっても、第4番で想像がつくように、張りつめた精神力に貫かれた演奏だった。冒頭の例のテーマは、スクロヴァチェフスキなら当然だが、アレグロ・コン・ブリオの基本テンポに乗った演奏だった。以下それに引き続く演奏は、緊張感に富み、少しも弛緩したところがなかった。スクロヴァチェフスキの年齢では、肉体的な衰えはあって当然だが、それを音楽的な思考の活発さがカバーしているようだった。
(2012.3.13.サントリーホール)
1曲目は序曲「レオノーレ」第3番。序奏のアダージョの暗い響きが最弱音で演奏されるのを聴いて、先日のショスタコーヴィチとブルックナーを思い出した。そのときも弱音がさらに弱く、文字通り最弱音で演奏されていた。これが今のスクロヴァチェフスキの特徴かもしれない。
すぐに主部に入ると、最弱音は姿を消す。老年の巨匠の遅いテンポでは全然なく、快走するテンポ。フィナーレは「歓喜」の爆発というよりも、表現の「激しさ」が印象的だった。そうなのだ、スクロヴァチェフスキは昔から情緒で聴かせる指揮者ではなく、なんというか、音の構造で聴かせる指揮者だった、と思った。
2曲目は交響曲第4番。停滞しないテンポ、音の張り、精神力――これは名演だった。前の「レオノーレ」第3番にも増して音に輝きがあり、常に明瞭さが保たれていた。今まで聴いたこの曲の演奏のなかで、これが一番よいのではないかと思ったほどだ。
なぜそう思ったかというと、技術的にどうのこうのというよりも、この演奏が、少なくともわたしには、「今ベートーヴェンを聴く意味はなにか」という問いに答えてくれたからだ。ベートーヴェンを聴いて感動することが、今は昔のように自明のことではなくなった。だからこの問いが漠然と頭にあった。
この演奏で提示されたベートーヴェン像は、なんの揺らぎもなく、透明な心境でそこに在った。今の日本の、高度な気配り社会からは、絶えて久しいものだ。今の日本にあっては、みんな多かれ少なかれ、息苦しい思いをしているのではないか。そのとき見失いがちな精神のあり方――それを理想主義といってもよい――を思い出させる演奏だった。
端的にいって、わたしはベートーヴェンに感謝した。このような精神のあり方を後世に残してくれたことに。
3曲目は交響曲第5番「運命」。これはもう曲の性格からいっても、第4番で想像がつくように、張りつめた精神力に貫かれた演奏だった。冒頭の例のテーマは、スクロヴァチェフスキなら当然だが、アレグロ・コン・ブリオの基本テンポに乗った演奏だった。以下それに引き続く演奏は、緊張感に富み、少しも弛緩したところがなかった。スクロヴァチェフスキの年齢では、肉体的な衰えはあって当然だが、それを音楽的な思考の活発さがカバーしているようだった。
(2012.3.13.サントリーホール)