Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インバル/都響

2012年03月24日 | 音楽
 インバル/都響の3月定期Aシリーズを聴いた。

 1曲目はチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」。チェロ独奏は1986年生まれの宮田大。まだ20代半ばの若さだ。わたしは見なかったが、先日テレビで小澤征爾との共演の番組が放映されたそうだ。若手の有望株なのだろう。わたしは初めてだし、曲が曲なので、どれほどのことがわかったわけでもないが、「なるほど、たしかに筋がいい」とは思った。そう思わせるだけの資質の持ち主だ。

 プログラムノートには、演奏はフィッツェンハーゲン版による、と明記してあった。つまり普通の版だ。そういえば、原典版による演奏は聴いたことがないと思った。原典版で聴くと、どう聴こえるのだろう。CDも出ているはずだから、いつまでも怠けていないで、一度聴いてみないといけないと思った。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第4番。昨年12月の第5番が、妙にあっけらかんとした、能天気な演奏だったので、逆に気になった。まさか第4番ではそういう演奏はできないだろう。だとすれば、どういう演奏をするのか――と。

 で、どうだったか。これはがっちり構成された、押しても引いても揺らぎのない、堂々とした演奏だった。大きな枠がそこにあり、各パートは自由に名技性を発揮するけれど、全体の枠は少しも動かない演奏だった。

 都響は、いつのまにか、ヴィルトゥオーゾ・オーケストラになったものだ――そう思った。それがこの演奏のすべてだった。実は、感想がそこで止まってしまって、先に進まないのだ。たとえば、この曲の理解が進んだとか、思ってもみなかった問題が提起されたとか、なにかその種の手ごたえがないのだ。

 これはどういうわけだろう。インバルは、マーラーのときは、あれほどやりたいことがはっきりあるのに、ショスタコーヴィチになると、それが消えてしまうのだ。結果的にものすごく優秀な職人芸ではあるのだが――とくにオーケストラのドライヴの面で――、マーラーのときのような表現意欲が感じられないのだ。

 だがそう思ったのは、わたしだけだったかもしれない。終演後はすごい拍手とブラヴォーが起きた。わたしの隣の席の人も、その隣の人も、疲れていたのだろう、演奏中は大胆にいびきをかいていたが(別にわたしは気にならないが)、終わったら盛大に拍手をしていた。最後はインバルのソロ・カーテンコールもあった。
(2012.3.23.東京文化会館)
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