Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インキネン/日本フィル

2013年03月18日 | 音楽
 インキネン/日本フィルのシベリウス・チクルス第1回、交響曲第1番と第5番。期待の企画だったが、第1番には「?」が付いた。もっとも、会場からはブラヴォーの声が出たので、わたしだけかもしれないが――。第1楽章冒頭のクラリネットのソロが、はっきりした、大きな音で、なんの陰影もなく演奏された。それが象徴的だった。この曲のイメージの北欧情緒、暗い空、厳しい冬、それにもめげず人々の内面で燃える情熱、といった要素がまったく感じられない演奏だった。

 インキネンのシベリウスで疑問を感じたのはこれが初めてだ。いったいどうしたのだろうと思った。音楽の骨組みしか聴こえなかった。たとえていえば、家の建築で土台と柱が立った状態、まだ壁がなく、スカスカの現場のように感じられた。

 第4楽章でやっとこの曲のイメージに合ってきた。けれどもそれで帳尻が合うはずはなかった。

 後半の第5番では一転して中身の詰まった演奏が繰り広げられた。これこそインキネンの演奏と感じられた。肌理の細かいアンサンブルと、そこで演奏されている音楽とのあいだに隙間がなく、完全に一体化した演奏。

 それなら、第1番はなんだったのだろうと、どうにも腑に落ちない思いだった。そこで週末には渡邉暁雄/日本フィルのCDを久しぶりに聴いてみた。すばらしく充実した演奏だった。わたしのもっているCDは1981年の録音、このコンビの2度目の録音だ。このころの日本フィルはまだ争議中だった。それでもこんなに充実した演奏をしていたのかと、あらためて目を開かされた。

 ついでに第5番も聴いてみた。ところがこれは、まだるっこい演奏だった。インキネンを聴いた後だから、そう感じたのかもしれない。日本フィルの状態がどうのというよりも、渡邉暁雄とインキネンの個性のちがい、世代のちがい、さらにいえば音楽性のちがいが感じられた。第1番と第2番に共感する音楽性の持ち主と、第3番以降に共感する音楽性の持ち主と。

 それがわかると、今回のチクルスで一番楽しみなのは、4月定期の第3番、第6番、第7番の会だという気がした。これらの曲でどのような成果を上げるか。新世代の感覚というか、シベリウスの個人様式に共感し、それと一体となって呼吸する演奏。20世紀の音楽の歴史を経験して初めて得られるパースペクティヴのもとで、それらの3曲が演奏されるのではないかという気がした。
(2013.3.15.サントリーホール)
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