アンドリュー・リットン指揮の都響でプロコフィエフ・プログラム。リットンは2009年9月にストラヴィンスキー・プログラムで好演した(あのときは「サーカス・ポルカ」と「カルタ遊び」が組まれていた。これらの曲を見直すきっかけになった)。さらにその後ベルリン・ドイツ・オペラでシュトラウスの「ダナエの愛」を観た。これも好演だった。
今回も期待して出かけた。1曲目はプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」第3組曲。音楽に快い推進力がある。ベタッとしていない。期待にたがわない演奏だと思った。
それにしても、この第3組曲は、地味な曲が並んでいる。美味しいところは第1組曲、第2組曲で使い果たしてしまったのか。どこかで聴いた気はするが、さて、どの場面だったかは定かでない、といった曲が並んでいる。興味深いのは、リットンがあえて第3組曲を選んだことだ。普段あまり日の当らない作品に目配りするタイプなのか。
2曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第21番。ピアノ独奏は伊藤恵。都響に伊藤恵が出てくると、どうしてもジャン・フルネの引退公演を想い出す。具体的には書かないけれども、あのときの凍りつくような一瞬に、伊藤恵がフルネにむかって微笑んだことで、フルネはもちろん、聴衆もどれだけ救われたことか。
それはともかく、今回の第21番。オーケストラが始まると、プロコフィエフのときとは音色がちがうことに気が付いた。これはどういうことだろうと考えた。ピアノが入ってきて、わかった。アナログ・レコードの音なのだ。それがいいとか、わるいとかいうのではなく、昔懐かしいアナログの音だ。おそらくピアノの音に引っ張られて、オーケストラの音も変わったのだろう。
その音は最後まで続いた。なので、一風変わった経験をした。そのためか、こちらの意識も覚醒した。そうしてみると、カデンツァ(とくに第1楽章のカデンツァ)が面白かった。今まで聴いていたものとは一味ちがう気がしたが――。
3曲目はプロコフィエフの交響曲第4番(1947年改訂版)。鋭角的なリズムによるアグレッシヴな演奏、バレエ音楽の出自をきれいさっぱり拭い去った演奏、がっちり構築されたシンフォニックな演奏。メリハリの利いた音楽づくりは、下野竜也に通じるものがあると思った。いや、言い方がちょっと変だ、下野竜也はこういうタイプになるのではないか、と思った。
(2013.3.22.東京文化会館)
今回も期待して出かけた。1曲目はプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」第3組曲。音楽に快い推進力がある。ベタッとしていない。期待にたがわない演奏だと思った。
それにしても、この第3組曲は、地味な曲が並んでいる。美味しいところは第1組曲、第2組曲で使い果たしてしまったのか。どこかで聴いた気はするが、さて、どの場面だったかは定かでない、といった曲が並んでいる。興味深いのは、リットンがあえて第3組曲を選んだことだ。普段あまり日の当らない作品に目配りするタイプなのか。
2曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第21番。ピアノ独奏は伊藤恵。都響に伊藤恵が出てくると、どうしてもジャン・フルネの引退公演を想い出す。具体的には書かないけれども、あのときの凍りつくような一瞬に、伊藤恵がフルネにむかって微笑んだことで、フルネはもちろん、聴衆もどれだけ救われたことか。
それはともかく、今回の第21番。オーケストラが始まると、プロコフィエフのときとは音色がちがうことに気が付いた。これはどういうことだろうと考えた。ピアノが入ってきて、わかった。アナログ・レコードの音なのだ。それがいいとか、わるいとかいうのではなく、昔懐かしいアナログの音だ。おそらくピアノの音に引っ張られて、オーケストラの音も変わったのだろう。
その音は最後まで続いた。なので、一風変わった経験をした。そのためか、こちらの意識も覚醒した。そうしてみると、カデンツァ(とくに第1楽章のカデンツァ)が面白かった。今まで聴いていたものとは一味ちがう気がしたが――。
3曲目はプロコフィエフの交響曲第4番(1947年改訂版)。鋭角的なリズムによるアグレッシヴな演奏、バレエ音楽の出自をきれいさっぱり拭い去った演奏、がっちり構築されたシンフォニックな演奏。メリハリの利いた音楽づくりは、下野竜也に通じるものがあると思った。いや、言い方がちょっと変だ、下野竜也はこういうタイプになるのではないか、と思った。
(2013.3.22.東京文化会館)