ラザレフ/日本フィルのラフマニノフ・チクルスの最終回。プロコフィエフがあまりにも鮮烈だったので、ラフマニノフは影が薄い感じがしないでもない。でも、よく考えてみると、このチクルスのお陰でラフマニノフの真価を知ったことは、我とわが身に認めなければならない。正確にいうと、このチクルスが進行しているお陰で、ラフマニノフに正面から向き合うことができた。結果、今までいい加減な認識しか持っていなかったラフマニノフに、きちんとした考えを持つことができた。
最終回は「カプリッチョ・ボヘミアン」から。ラフマニノフにこんな曲があったのか。前半はロシア風の暗い情熱のように感じられたが(プログラム・ノートによるとロマ/ジプシー音楽とのこと)、後半はボヘミア的だった。若いころの作品。なぜこのような曲を書いたのだろう。なにかきっかけがあったのか。いずれにしても、チクルス公演でないとなかなか取り上げられない曲だ。
演奏は緻密かつ豪快。好調だ。先日の「シェエラザード」には粗さがあったが、今回はそうではない。
2曲目は「パガニーニの主題による狂詩曲」。ピアノは河村尚子。ものすごく優秀なピアニストだ。プロフィールによるとドイツを拠点に活動しているとのこと。演奏も、そしてステージマナーも、自然体というか、ラザレフを相手にしても、物おじしない。アンコールに曲芸的な小品を弾いてくれた。パガニーニ(リスト編曲)のカプリース第4番とのこと。
最後は「交響的舞曲」。ラフマニノフ・チクルスを締めくくるに相応しい好演だった。あえて形容すれば、前述したように、緻密かつ豪快ということになるが、もっと実感に即していうと、プロコフィエフ・チクルスが終わってラフマニノフになったとき、ふっと気の抜けたような緩みを感じた、それを持ち直すような集中度があった。
次回からはスクリャービン・チクルス。その告知の意味もあるのだろう、終了後にアフタートークがあった。ロビーでやることはあるが、今回は客席で。オーケストラが退場した後で聴衆の有志が残って聞く方法。これは珍しい。
ラザレフの話の最後のくだりが面白かった。ストラヴィンスキーが、スクリャービンについてどう思うかと聞かれたとき、ストラヴィンスキー曰く、「ひじょうにいやな奴だ。自分のことしか考えられない奴」。で、ラザレフ曰く、「そういうストラヴィンスキーだって、天使ではありませんでした(笑い)」。
(2013.6.14.サントリーホール)
最終回は「カプリッチョ・ボヘミアン」から。ラフマニノフにこんな曲があったのか。前半はロシア風の暗い情熱のように感じられたが(プログラム・ノートによるとロマ/ジプシー音楽とのこと)、後半はボヘミア的だった。若いころの作品。なぜこのような曲を書いたのだろう。なにかきっかけがあったのか。いずれにしても、チクルス公演でないとなかなか取り上げられない曲だ。
演奏は緻密かつ豪快。好調だ。先日の「シェエラザード」には粗さがあったが、今回はそうではない。
2曲目は「パガニーニの主題による狂詩曲」。ピアノは河村尚子。ものすごく優秀なピアニストだ。プロフィールによるとドイツを拠点に活動しているとのこと。演奏も、そしてステージマナーも、自然体というか、ラザレフを相手にしても、物おじしない。アンコールに曲芸的な小品を弾いてくれた。パガニーニ(リスト編曲)のカプリース第4番とのこと。
最後は「交響的舞曲」。ラフマニノフ・チクルスを締めくくるに相応しい好演だった。あえて形容すれば、前述したように、緻密かつ豪快ということになるが、もっと実感に即していうと、プロコフィエフ・チクルスが終わってラフマニノフになったとき、ふっと気の抜けたような緩みを感じた、それを持ち直すような集中度があった。
次回からはスクリャービン・チクルス。その告知の意味もあるのだろう、終了後にアフタートークがあった。ロビーでやることはあるが、今回は客席で。オーケストラが退場した後で聴衆の有志が残って聞く方法。これは珍しい。
ラザレフの話の最後のくだりが面白かった。ストラヴィンスキーが、スクリャービンについてどう思うかと聞かれたとき、ストラヴィンスキー曰く、「ひじょうにいやな奴だ。自分のことしか考えられない奴」。で、ラザレフ曰く、「そういうストラヴィンスキーだって、天使ではありませんでした(笑い)」。
(2013.6.14.サントリーホール)