新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」。2011年5月の初演。それからわずか2年しかたっていない時期での再演だが、十分楽しめた。夏のキャンプ場に舞台を移した演出。それが小気味いいほどピタッとはまっている。最近の新国立劇場は海外のプロダクションのレンタルが目立つが、逆にこれは海外にレンタルできる質を備えている。
「コジ・ファン・トゥッテ」は20世紀後半になってさまざまな解釈=演出がなされてきた。モーツァルトのオペラのなかでもっとも現代性のある作品、という様相を呈してきた。そして今は、それらの「コジ・ファン・トゥッテ」再発見が一段落した――かもしれない――という感想をもった。
幕切れでは、2組の恋人は元のさやに納まるどころか、椅子を投げつけるなど大荒れとなり、全員バラバラの方向に立ち去る。最後に残ったドン・アルフォンソが大笑いして幕になる。では、ドン・アルフォンソは、純粋な恋人たちの仲を引き裂いた悪魔か、それとも知らなくてもいいことを教えたおせっかい男か。
でも、そこまで踏み込んだ解釈をしなくても、文字通り笑って済ませるほうがお洒落だ――と、そう思わせる感覚があった。
声楽的には初演のときよりも今回のほうが上だった。まず女声2人、フィオルディリージのミア・パーションとドラベッラのジェニファー・ホロウェイの二重唱が、もうため息の出るほど美しかった。2人の声質に共通項があるようだ。このオペラはこの二重唱が全編にわたって出てくるので、その都度ひきこまれた。
ミア・パーションは意外に濃い表現をする歌手のようだ。とくに第2幕の長大なアリアが絶品だった。ひじょうに彫りの深い表現だった。一方、第1幕の「岩のアリア」があっさりしていたのは、訳あってのことだろうか。
男声陣ではフェランドのパオロ・ファナーレが、抒情的な表現でその心情を痛切に表現していた。
面白く思った点は、ドラマとしては個性のちがいに乏しい男声2人が、音楽的にはくっきりと描き分けられていて、個性のちがいがはっきりしている女声2人は、重唱が多い点だった。ダ・ポンテが書いた台本(今回、読み返してみて、シュールな不条理劇のような感じがした)にたいするモーツァルトの反応――劇場的センスの現れ――だろうか。
最後になったが、ドン・アルフォンソのマウリツィオ・ムラーロは、深々とした声と温かい人間味がよかった。
(2013.6.6.新国立劇場)
「コジ・ファン・トゥッテ」は20世紀後半になってさまざまな解釈=演出がなされてきた。モーツァルトのオペラのなかでもっとも現代性のある作品、という様相を呈してきた。そして今は、それらの「コジ・ファン・トゥッテ」再発見が一段落した――かもしれない――という感想をもった。
幕切れでは、2組の恋人は元のさやに納まるどころか、椅子を投げつけるなど大荒れとなり、全員バラバラの方向に立ち去る。最後に残ったドン・アルフォンソが大笑いして幕になる。では、ドン・アルフォンソは、純粋な恋人たちの仲を引き裂いた悪魔か、それとも知らなくてもいいことを教えたおせっかい男か。
でも、そこまで踏み込んだ解釈をしなくても、文字通り笑って済ませるほうがお洒落だ――と、そう思わせる感覚があった。
声楽的には初演のときよりも今回のほうが上だった。まず女声2人、フィオルディリージのミア・パーションとドラベッラのジェニファー・ホロウェイの二重唱が、もうため息の出るほど美しかった。2人の声質に共通項があるようだ。このオペラはこの二重唱が全編にわたって出てくるので、その都度ひきこまれた。
ミア・パーションは意外に濃い表現をする歌手のようだ。とくに第2幕の長大なアリアが絶品だった。ひじょうに彫りの深い表現だった。一方、第1幕の「岩のアリア」があっさりしていたのは、訳あってのことだろうか。
男声陣ではフェランドのパオロ・ファナーレが、抒情的な表現でその心情を痛切に表現していた。
面白く思った点は、ドラマとしては個性のちがいに乏しい男声2人が、音楽的にはくっきりと描き分けられていて、個性のちがいがはっきりしている女声2人は、重唱が多い点だった。ダ・ポンテが書いた台本(今回、読み返してみて、シュールな不条理劇のような感じがした)にたいするモーツァルトの反応――劇場的センスの現れ――だろうか。
最後になったが、ドン・アルフォンソのマウリツィオ・ムラーロは、深々とした声と温かい人間味がよかった。
(2013.6.6.新国立劇場)