Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

チョン・ミョンフン/N響

2013年06月17日 | 音楽
 チョン・ミョンフン指揮のN響。チョン・ミョンフンがN響を振るのはこれで5回目だそうだ。その全部を聴いているわけではないが、今回は鮮烈な、なにか決定的な印象を受けた。

 1曲目はベートーヴェンの交響曲第2番。わたしの大好きな曲だ。今までは第1楽章、第2楽章に比べて、第3楽章と第4楽章は軽いと考えていた。そういうバランスの曲は結構あるので、この曲もその一つだと思っていた。

 ところが、この演奏ではそう感じなかった。全体として均衡がとれていた。これはチョン・ミョンフンとN響のコンビの構成感――あるいは造形感――の表れだと思った。ひじょうにかっちりとした楷書体の造形感。ともに東洋人としての共通の血が流れている、その土壌から生まれる、楷書体の造形感だと思った。

 2曲目はロッシーニの「スターバト・マーテル」。これも同様の演奏だった。模範的ともいえる演奏。イタリア的でもないし、――多少語弊があるかもしれないが――宗教的でもない、あえていうなら古典的な演奏。その枠組みから外れるものはなにもない、見事に整頓された演奏。

 なので、文句はなにもなかった。繰り返しになるが、東洋人たる――しかも超一流の技術を持った――指揮者とオーケストラの出会いの、その化学反応としての演奏はこうだという、一つの見本かと思った。

 でも、日がたつにつれて、印象が色あせてきた。冒頭に「決定的な」印象を受けたと書いたが、それが怪しくなってきたのだ。オーケストラは「今回もきっちり仕事をしました」と、そういうことではないのか。チョン・ミョンフンも、フランスやイタリアのオーケストラとの仕事とはちがって、発火点に達しなかったのではないか、と。

 もし、そうだとしたら、結局はいつものN響と変わらないことになる。でも、――言い遅れたが――音には緊張感があった。それは稀にみる緊張感だった。わたしにはブロムシュテット以来だと思われた。だから、いつものレベルを超える演奏だったことは間違いない。あとは、そこからさらに脱皮する、勇気ある一歩があるか、ないか、なのだろう。

 歌手は、日本人一人を除いて、韓国の若手が3人。なかでもソプラノのソ・ソニョンSunyoung Seoが逸材だった。いつかヴェルディなどを聴いてみたいものだ。合唱は東京混声合唱団。大編成だったが、いつものレベルを保っていたのはさすがだ。
(2013.6.15.NHKホール)
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