Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

大野和士/都響

2013年06月19日 | 音楽
 都響の次期音楽監督に就任が決まった大野和士がその都響を振った演奏会。否が応でもモチベーションが上がるはずの演奏会だったが、意外に感銘は薄かった。なぜだろう。曲はブリテンの「戦争レクイエム」。大野和士/都響でなくても、現代のオーケストラなら、この曲を取り上げる演奏会は特別のものだろうに。

 原因は、申し訳ないが、明らかだ。それは合唱。といっても、児童合唱(東京少年少女合唱隊)はよかった。問題は大人のほうだ。今のプロのオーケストラでは、このレベルの合唱では通用しない。残念ながら、この合唱が演奏を台無しにした。

 大きくいうなら、以上に尽きるのだが、もう一ついうと、独唱者(日本人)の英語の発音にも問題があった。大ベテランの歌手なので、失礼にあたることは承知の上だが、少しも英語らしく聴こえなかった。

 今回の演奏では、ソプラノは中国人、テノールは韓国人、バリトンは日本人という布陣だった。この曲の初演のときに、ソ連、イギリス、ドイツの歌手をそろえて、第二次世界大戦の当事者による平和への希求という性格を打ち出そうとした(実際にはソ連の歌手は参加できなかった)ことに倣ったものだ。

 今回、韓国の歌手オリヴァー・クックが、英語の発音もふくめて、感銘深い歌唱を披露してくれたのに反して、日本人の歌手は、英語の発音で互角に絡み合うことができなかった。そのことも著しく興をそいだ一因だ。

 こういったことが影響したかどうかはわからないが、大野和士/都響も、第6曲「リベラ・メ」の前半部分の、光彩陸離たる、めくるめくような表現を除いては、あまり聴くべきところがなかった。

 そういうわけで、妙に客観的に聴いてしまった。そうなると、この曲、意外とコンサートホールでやるのは難しい気がしてきた。たとえば第1曲「レクイエム・エテルナム」の冒頭部分、合唱が小声で呟くところなど、コンサートホールでは、はっきり聴こえすぎる。教会だったら、本来のワヤワヤした音響が生まれるのではないか。

 あるいは第2曲「ディエス・イレ」のラッパの音、あれもコンサートホール、とりわけ昨日の東京文化会館のようなデッドな音のホールではなく、教会のような巨大な空間だったら、本来の音――この世のものとも思われない恐ろしい音――に聴こえるのではないか。そんな夢想をしながら聴いていた。
(2013.6.18.東京文化会館)
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