ヤクブ・フルシャ指揮の都響。1曲目はショパンのピアノ協奏曲第2番、ピアノ独奏はヤン・リシエツキ。情報に疎いので、初めて聞く名前だったが、ヤニク・ネゼ=セガン指揮ロッテルダム・フィルのソリストとして来日経験があるそうだ。名前からいってポーランド人かと思ったが、カナダ人とのこと。今年18歳、長身、金髪で人気の出そうな好青年だ。
演奏もよかった。とくに第2楽章のA-B-Aの三部形式のAの部分、弱音のコントロールが見事だった。さわれば壊れてしまいそうな繊細さだ。月の光が滴りおちる澄み切った夜――という風情だった。
フルシャ指揮の都響もよかった。第1楽章の冒頭、この曲にしては豊かに鳴るなと思ったが、それがそのまま引き継がれ、ピアノにたいして出すぎもせず、かといって引っ込みすぎもせず、ピアノを豊かに包み込んだ。第1楽章と第3楽章でテンポを急に上げるところも、ピアノと一体化していた。
面白かったのは、第3楽章のコーダに入るところで鳴るファンファーレの演出。舞台裏からホルン奏者が登場し、小ぶりのホルンを朗々と吹き鳴らし、また舞台裏に去って行った。思わずにっこり微笑んだ。こういう演出はよくやるのだろうか。わたしにはあまり記憶がないのだが。
久しぶりに聴いたこの曲、やっぱりいい曲だなと思った。思えば昔から、第1番よりもこの第2番のほうが好きだった。なぜだろう――そう思って聴いているうちに、この曲のほうが等身大のショパンが感じられるから――、なのかなと思った。第1番のほうは、立派な曲を書こうという、構えたところが感じられる。
アンコールにショパンのエチュード作品25から第12番ハ短調が演奏された。大波が打ち寄せるような演奏。これはそういう曲だけれども、それだけではなくて、リシエツキの若さの勢いが感じられた。
プログラム後半はリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」。これは気負いが先行した演奏だった。とくに登りの部分(頂上に立つまでの部分)がそうだった。ガンガン脇目も振らずに登って行く感じ。山の清新な空気を味わう気などない(そんなことは眼中にない)という感じ。下山の途中で嵐に遭うところから、やっと楽しむことができた。
最後の音が消え入るように終わるか終らないかというところで、一人のお客さんが出て行った。どうしたのだろうと思ったら、急病人が出たようだった。
(2013.6.26.サントリーホール)
演奏もよかった。とくに第2楽章のA-B-Aの三部形式のAの部分、弱音のコントロールが見事だった。さわれば壊れてしまいそうな繊細さだ。月の光が滴りおちる澄み切った夜――という風情だった。
フルシャ指揮の都響もよかった。第1楽章の冒頭、この曲にしては豊かに鳴るなと思ったが、それがそのまま引き継がれ、ピアノにたいして出すぎもせず、かといって引っ込みすぎもせず、ピアノを豊かに包み込んだ。第1楽章と第3楽章でテンポを急に上げるところも、ピアノと一体化していた。
面白かったのは、第3楽章のコーダに入るところで鳴るファンファーレの演出。舞台裏からホルン奏者が登場し、小ぶりのホルンを朗々と吹き鳴らし、また舞台裏に去って行った。思わずにっこり微笑んだ。こういう演出はよくやるのだろうか。わたしにはあまり記憶がないのだが。
久しぶりに聴いたこの曲、やっぱりいい曲だなと思った。思えば昔から、第1番よりもこの第2番のほうが好きだった。なぜだろう――そう思って聴いているうちに、この曲のほうが等身大のショパンが感じられるから――、なのかなと思った。第1番のほうは、立派な曲を書こうという、構えたところが感じられる。
アンコールにショパンのエチュード作品25から第12番ハ短調が演奏された。大波が打ち寄せるような演奏。これはそういう曲だけれども、それだけではなくて、リシエツキの若さの勢いが感じられた。
プログラム後半はリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」。これは気負いが先行した演奏だった。とくに登りの部分(頂上に立つまでの部分)がそうだった。ガンガン脇目も振らずに登って行く感じ。山の清新な空気を味わう気などない(そんなことは眼中にない)という感じ。下山の途中で嵐に遭うところから、やっと楽しむことができた。
最後の音が消え入るように終わるか終らないかというところで、一人のお客さんが出て行った。どうしたのだろうと思ったら、急病人が出たようだった。
(2013.6.26.サントリーホール)