以前プラハに行った折にチェコ・フィルを聴きにいった。当時の首席指揮者ズデニェク・マーカルの指揮でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番とチャイコフスキーの交響曲第3番だった。ピアノ独奏はアレクサンダー・トラーゼ。そのピアノが大熱演で会場は湧きにわいた。終演後、ヴルタヴァ川(モルダウ川)に沿った道を歩いた。対岸にはプラハ城が美しくライトアップされていた。「きれいだな」と思った。
プラハは20世紀に2度にわたって外国からの侵攻を受けた。一度はナチス・ドイツによって。もう一度は‘プラハの春’のときにソ連が主導するワルシャワ条約機構軍によって。「そんな苦難の歴史にあって、プラハの市民を支えたのは、このプラハ城の美しさだったかもしれない」と思った。
写真家ジョセフ・クーデルカ(1938‐)は、ワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻の前日に、たまたまプラハに帰っていた。クーデルカはフォト・ジャーナリストではないが、この事態に直面して写真を撮りまくった。それらのフィルムは密かに外国に持ち出され、翌年発表された。
そのときの写真をふくむジョセフ・クーデルカ展が開催中だ。プラハ侵攻の写真のほとんどは見た記憶があるが、写真集とはちがって、大きく引き伸ばされた写真を会場で見て、意外なことがあった。わたしの記憶では、当時の喧騒を生々しく伝えるものと思っていたが、意外に静かな印象なのだ。静かに――でも永遠に――当時の人々の驚き、怒りそして悲しみを語っているような印象だった。
もっとも、プラハ侵攻の写真はわずか9点で、今回展示の約280点のごく一部にすぎない。それはもっともなのだ。1960年前後から写真を撮りだして、現在もまだ現役なのだから、50年あまりのキャリアのなかのほんの数日のことだ。
1962‐1970年は「ジプシーズ」のシリーズ。ヨーロッパ社会の底辺にいるロマの人々を撮っている。
1970‐1994年は「エグザイルズ(流浪者・亡命者)」のシリーズ。クーデルカは1970年に祖国を去った。流浪者・亡命者となったクーデルカの目(=カメラ)がとらえたヨーロッパ各地の風景。なんの変哲もない街の風景(たとえば道端のベンチ)にさえ疎外感を感じる心情。
考えてみれば、ロマの人々も流浪者だった。今度はクーデルカ自身がそうなってしまった。いわばコインの表裏の関係かもしれない。
(2014.1.8.東京国立近代美術館)
↓本展のHP
http://www.momat.go.jp/Honkan/koudelka2013/index.html
プラハは20世紀に2度にわたって外国からの侵攻を受けた。一度はナチス・ドイツによって。もう一度は‘プラハの春’のときにソ連が主導するワルシャワ条約機構軍によって。「そんな苦難の歴史にあって、プラハの市民を支えたのは、このプラハ城の美しさだったかもしれない」と思った。
写真家ジョセフ・クーデルカ(1938‐)は、ワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻の前日に、たまたまプラハに帰っていた。クーデルカはフォト・ジャーナリストではないが、この事態に直面して写真を撮りまくった。それらのフィルムは密かに外国に持ち出され、翌年発表された。
そのときの写真をふくむジョセフ・クーデルカ展が開催中だ。プラハ侵攻の写真のほとんどは見た記憶があるが、写真集とはちがって、大きく引き伸ばされた写真を会場で見て、意外なことがあった。わたしの記憶では、当時の喧騒を生々しく伝えるものと思っていたが、意外に静かな印象なのだ。静かに――でも永遠に――当時の人々の驚き、怒りそして悲しみを語っているような印象だった。
もっとも、プラハ侵攻の写真はわずか9点で、今回展示の約280点のごく一部にすぎない。それはもっともなのだ。1960年前後から写真を撮りだして、現在もまだ現役なのだから、50年あまりのキャリアのなかのほんの数日のことだ。
1962‐1970年は「ジプシーズ」のシリーズ。ヨーロッパ社会の底辺にいるロマの人々を撮っている。
1970‐1994年は「エグザイルズ(流浪者・亡命者)」のシリーズ。クーデルカは1970年に祖国を去った。流浪者・亡命者となったクーデルカの目(=カメラ)がとらえたヨーロッパ各地の風景。なんの変哲もない街の風景(たとえば道端のベンチ)にさえ疎外感を感じる心情。
考えてみれば、ロマの人々も流浪者だった。今度はクーデルカ自身がそうなってしまった。いわばコインの表裏の関係かもしれない。
(2014.1.8.東京国立近代美術館)
↓本展のHP
http://www.momat.go.jp/Honkan/koudelka2013/index.html