Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「歴年」雅楽版

2014年08月29日 | 音楽
 シュトックハウゼンの「歴年」雅楽版。1977年の初演当時とちがって、今はあらゆる情報がある。プログラムには詳細な解説が載っている。また初演後の連作オペラ「リヒト」への展開というパースペクティヴを持っている。そういう条件下で聴いた(観た)「歴年」はどうだったか。

 結果的にはひじょうに楽しかった。明るく、ユーモラスな作品だと感じた。元気が出る作品。人生の応援歌のような作品。そういうポジティヴな印象を受けた。

 その印象は主に天使と悪魔のパフォーマンスから来る。今では当たり前というか、なんの抵抗もなく楽しめるパフォーマンスだが、当時はどうだったのか。ともかく、このパフォーマンスが後の「リヒト」につながったのではないかと、そんな想像を楽しんだ。

 肝心の音楽のほうは、どうだったか。特別な音楽という感じはなかった。ほんらいは‘千年’、‘百年’、‘十年’、‘一年’の4層の時間を感じるべきだろうが、普通の雅楽と変わらない感じがした。分析的な耳には4層の時間として聴こえるだろう。でも、それは雅楽そのものが備えている特質ではないだろうか――。

 だが、あえていえば、多少窮屈な感じがした。それはどこから来るのか。クラスター状にうねる、その密集した音の帯から来るのかもしれない。だからこそ、その音の帯を突き破る楽筝や琵琶、あるいは篳篥のソロが強烈に感じられたのかもしれない。

 この作品は‘競技’の形をとっている。千年、百年、十年、一年、それぞれの楽人および舞人の‘競技’になっている。行司役の‘奉行’がいる。最後に優勝者を決める。その演出は意外に難しいのではないか。かといって、優勝者を決めないのは、悪しき平等主義の好例になってしまう。では、どうするか――。今回の方法も一つの解決策だろうが、もう一工夫できないか。

 プログラム後半には一柳慧の新作「時の佇い」が演奏された。「歴年」にたいする日本からの応答だ。やはり‘日本的な’音の感覚を感じる。音がシュトックハウゼンのようには詰まっていない。隙間があって風通しがいい。

 雅楽の楽器が主体だが、雅楽には使われない楽器(雅楽の成立過程で淘汰された古代楽器)として、箜篌(くごう)、軋箏(あっそう)および十七絃箏がソロ集団のように扱われ、軋みや雑音を挿入する。それらの音と雅楽の音とが共存し、一つの空間を形成する。美しいと思った。
(2014.8.28.サントリーホール)
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